日本人初の9秒台を出した桐生祥秀(写真・左)と伊東浩司委員長

9月9日の日本インカレ男子100m決勝で桐生祥秀が出した、日本人初の9秒台となる9秒98――。

高校3年だった2013年4月の織田記念で10秒01を出して以来、9秒台の期待を一身に背負い続けてきた彼にとっても、それを追いかける他の選手にとっても“いつ出てもおかしくない”という状態が4年間ほど続いてやっと出た記録だ。

その桐生の快挙の後、前日本記録(10秒00)保持者となった日本陸連の伊東浩司強化委員長は「桐生くんの走りに意地を感じた」と話した。

「桐生くんは相手に先行されると硬くなってしまうところもありました。日本選手権で4位に終わって世界選手権には個人では出られなかったし、ユニバーシアードも出なかったので、プライドを引き裂かれる時間も長かった。そういう面では、桐生くんがひとつ壁を乗り越える瞬間を見たと思う」

山縣亮太やケンブリッジ飛鳥だけではなく、今年は多田修二やサニブラウン・ハキームが急成長。とくにサニブラウンは世界選手権の200mで決勝進出を果たすとともに、100mでもあと少しで決勝進出という走りを見せ、来年になれば9秒台突入も確実と思える状況になっていた。

それに対して桐生は、世界選手権後に左ハムストリングに不安が出て十分な練習もできていない状況だった。そのため、彼にとって最後になるインカレに向けて、トップスピードが上がり過ぎない250mや300mの練習をメインにして、レース用のスパイクを履いて走ったのは大会前日になってからだった。

100m、200mともに高校時代に出した自己記録を更新できていない中、桐生の意識は200mの自己記録更新に傾いていき、100mに出場することは大会直前に決めたという。

だが、返ってそれが幸いした。桐生は記録を意識することなく、自分の持ち味である中盤から後半で勝負するというシンプルな気持ちになれた。スタートは「自分の脚を信じて、肉離れをしたらそれはそれで仕方ないという気持ち」(桐生)で無理にピッチを上げることなく中盤以降で勝負をする走り。それが追い風1.8mでの9秒98という結果につながった。

「高校3年で10秒01を出してからは、口にはしなかったが自分が最初に9秒台を出したいと思っていた。もしそこで他の人が出してもいいと思ってしまったら、その時点で勝負に負ける」

そう思い続けていた桐生の意地が、会場の雰囲気や風向きなどすべての好条件を自らに引き込んだのだろう。

記録が出た要因は競技場のスタンドにも?

桐生が9秒台を記録した今、この先の日本男子短距離界について伊東委員長はこうも語った。

「世界大会でも準決勝で9秒98を出せば絶対に決勝に残れますし、最低限必要なのかと思います。9秒台に入って初めて世界を語れると思うし、これに続く選手も出てくると思う。この調子で9秒台を出す選手がひとりでも多くなって東京五輪を迎えられればいいと思います。

桐生くんは今まで9秒台を目指すライバルとの関係がフォームを乱すキッカケになるなど、いいライバルではなかった。その点、この記録が出たことで(桐生の)意識も変わるだろうし、他の選手たちと世界のファイナルを一緒に目指すという、いい関係で進んでいってもらいたいと思います」

また、伊東委員長が「記録が出た要因」として強調したのは、今回の会場の雰囲気の良さだった。

「気象条件に加えて、感情面の雰囲気をつくっていくことも重要と思う。観客が少なくて会場の盛り上がりに欠ければ、追い風2mの風が吹いても記録は出ないもの。今回も桐生の9秒台(の記録が出た100m)が走り幅跳びのピットにも影響して8m09と8m06が出たように、いい雰囲気になれば記録は出やすくなる。報道や場内アナウンスでも雰囲気は変わるものなので、そういうことを考えていくのもこれからの日本の陸上の課題かもしれない」

桐生自身、以前、日本の大会の「雰囲気が苦手」と話していた。大きな会場で空席が目立ち、場内アナウンスはその時に行なわれている種目の見どころを的確に伝えきれず、場内を盛り上げられずにいるのが現状だ。またプログラム編成では、ハードル種目で好記録が出て会場が盛り上がっても、100m決勝の前に長距離種目が入ってその雰囲気が途切れてしまうこともある。観客の熱気が選手を後押しする国内大会はなかなかないのが実情だ。

今回は大学での最後の走りとなる対校選手権ということで、桐生本人もモチベーションを上げる要素があり、さらに各大学の派手な応援合戦が独特な雰囲気や高揚感をつくりだしていた。さらに、スタンドに多くの観客が集まって通路まですし詰め状態。桐生は「グラウンドに入って、スタンドの最上段までぎっしりと埋まっているのを見て、テンションが上がった」と話していた。

その点では6万人入る競技場でなくとも、2万人収容くらいの競技場が観客でギッシリと埋まる環境を作ることがより重要で、その規模の陸上競技中心の専用競技場を整備することも検討すべきだろう。

2020年の東京五輪のメイン競技場は大会後に陸上競技場にしないというが、それであればサブグランドを仮設ではなく常設にして、五輪後はそこを陸上競技場にする――そんな発想も、これからの日本の陸上の強化には必要になってくるのではないだろうか。

(取材・文/折山淑美 写真/共同通信)