今では結婚し、すっかりギャルの面影もなくなった藤田さん

今から約12年前の2005年、“ギャル社長”という肩書きで突如ブレイクした藤田志穂という存在を覚えているだろうか。

当時は安室奈美恵が大ヒット、アムラーから始まり“ガングロ”や“ヤマンバ”、そして浜崎あゆみを真似た“白ギャル”など全盛期を経て、再びギャル文化が注目された頃…ちょうど倖田來未がブームになった時代だ。

05年に19歳でギャル誌の読者モデルをしていた彼女は「ギャル革命」を掲げ、シホ有限会社G-Revoを設立。09年には「ノギャルプロジェクト」を始めるなど、キャッチーなワードや「ギャル」&「社長」というギャップがメディアの目に留まり、連日のように情報番組やバラエティ番組に出演していた。

その彼女は現在、「ご当地!絶品うまいもん甲子園」というイベントを開催している。2011年から今年で6回目を迎えるこのイベントは、藤田自身が発起人であり、高校生の夢を応援する食企画だ。今や若い世代を支援する彼女に“ギャル社長”時代から振り返ってもらった。

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「会社が作りたかったわけではなく、企業で働いているバリバリのキャリアウーマンを目指すことでもよかったんです。ただ、当時はギャルの恰好をやめるつもりはなかったので、まず見た目で無理ですよね。だから会社を作るしかない、それによって同じギャルのコたちが働けたらさらにいいよねって思ったんです」

藤田が会社を作ったのは「ギャル革命」をしたいがためだった。その頃の彼女たちに対する風当たりは強く、アーティストやモデルなどを除き、世の中にいるギャルへのイメージは偏見や差別に満ちていた。街にいるだけで「ギャルだから遊んでばっかりなんでしょ」という言葉だけでなく「キミ、いくら?」など援助交際の誘いまで投げかけられていたというが…。

「むかつくことを言われても合理主義というか、自分の過ごしやすい考え方が得意だったんです。クソッ!っていう思い出がない。こういう人もいるんだなっていうぐらいだったんです。でも、仲間意識というかギャル全般に対して言われることについては許せなくて、見返したくて『ギャル革命』をしようと。そんな現状を変えたかったんですよね」

そこで会社を作ろうとしたが、19歳で高校卒業したばかりの彼女には社会経験も知識もない。親にも反対されていたという。

「会社を作るのに『定款』という事業内容を書く書類があるのですが、当然『ギャル革命』と書いても通らないので、私にできそうな『歌』だったんです。要は中身が決まっていない状態だったので、反対するのも当然ですよね(笑)」

最初は名前だけ登録するため1円起業するつもりだったそうだが、両親に自分の覚悟を証明するため資本金300万円の半分をバイトで集め、親から「返すまでは結婚するな」との約束で、残り半分を親が貯めてくれていた結婚資金代を借りて会社を設立。さらに、起業や事業について学ぶため、自らアポを取り、企業の重役からメディアの人間までありとあらゆる“大人”に1ヵ月で300人ほど会ったという。

「ネットで探したり、その辺の人に『こういう人に会いたいんですけど』って言って紹介してもらったりで毎日、誰かと会ってましたね。社長同士の交流会に行ったりすると、珍しいから皆、話を聞いてくれるんですよ」

「会う人は皆、いい人ばかりだった」というが、それでも実はギャルに対する偏見を目の当たりにしていた。

「やっぱり陰で私の噂話や非難を言われていたのを聞いたり、私からのメールを転送されたりしました。あと、仕事してもお金も払ってもらえずいなくなっちゃった人や。取材に来た人に『うまくいくのは一瞬だけだよ』『今は流行りものだよ』って言われた時は、チクショー!って思いましたね」

大人に壁を作っていたのは自分だった…

当時のインタビュー写真を見ながら「顔、めっちゃきつい」と笑う、藤田。「(あの頃は)常に戦闘態勢。なめられちゃいけないっていうのが強かった」のだ。ギャルに対するいわれのない差別や悪口にはメディアを通して反論していたが、自分に起きたことは言わなかった。「ツラいことやマイナスなことばっかり言っても仕方ないじゃないですか。だからです」とのことだが、内心は悔しさを抱え、顔に出ていた。

「何が正解かも何もわからず、ただ目の前のことをやるだけでした。5月くらいに『踊る!さんま御殿』に出させてもらったんです。そこで(明石家)さんまさんに“ギャル社長”と言われて、一気にメディアに呼ばれるようになりましたね。出れば出るほど仕事がくるんです。あの年は、遊んだ記憶どころか、ゆっくりご飯を食べた記憶もないです。思い出は成人式の後に朝まで遊んでそのまま仕事したことくらいですね(笑)」

休みもなく、周りの批判を受けながら働き詰めだった一方、ギャルブームの最中でバラエティ番組では“カリスマギャル”が活躍。華やかな世界で輝く彼女らを見て、迷いも生まれた。

「ちょうど益若つばさちゃんとか小森純ちゃんが同い歳で同じ時期に雑誌に出ていたんですけど、自分がモデルを離れたくらいからふたりもメディアによく出るようになっていったんです。私も普通にモデルやっていたらこんなに叩かれることなく、ギャルとして表に出て認められてたのかなって比べてましたね」

そんな益若や小森と比較して「しばらく、なんでやってるんだろう?って思っていた」が、めげずに続けられたのは「でも言ったからやるしかないし、それでやらなかったら自分に恥ずかしい」からだった。「だから迷いながらもやれていたんでしょうね」と振り返る。

“ギャル社長”として「『ギャル革命』の頃はツラいことも本当に多かった」と改めて言う藤田だが、その頃のことを「ここ最近になっていい経験だったと思えるようになった」そうだ。

「300人と会ったことも、仕事を通していろいろな世界に触れたことは今の自分にもすごくプラスになってる。だから今の若いコにはいろいろな人と会って、様々な選択肢があることを知ってほしいんですよ。自分が知っている仕事でも、実際に聞いてみたりしないと、裏側にどんな仕事があるのかわからないじゃないですか。

私もですが、まず世の中にどんな仕事があるのかを知らなかった。それを含めて、人から話を聞くと自分の中でやりたいことが増えることもあるし、もしくは好きなことが仕事になるかもしれないじゃないですか。だからとにかく自分の可能性が広がるように人と会ってみてほしいですね」

そして、そう思ったのは起業した事で自身の誤りに気付いたから。「ギャル革命」と称して、“大人”たちへ反発していたが、むしろ自分も “壁”を作っていたのだと。

「会社を始めて思ったんです、自分と大人にも“壁”があったんだなと。私は『何か言っても大人は何もしないから私がやらないと』って思っていた。でも大人も『自分たちが何かしてもこいつらは何もしないだろう』と思っていたんだなって。それを交通整理してお互いちゃんと話し合えば、面白いことや新たな発見があったりするんだってわかったんです」

社会について何も知らない19歳のギャル社長は当然、イロモノとして世間から見られていた。しかし、そんな彼女も「ギャル革命」から「ノギャル」を経て、「高校生」を支援する立場へ。自身の不遇な経験があったからこそ、今はこうして若い人々に向けてメッセージを送っている。

●この続きはこちらから。ノギャルへの転機、“脱・ギャル社長”、今の若者について語る。

(取材・文/鯨井隆正 撮影/五十嵐和博)

●藤田志穂(Fujita Shiho)1985年生まれ 千葉県出身。ギャルのイメージを変えるため「ギャル革命」を掲げ、19歳で起業。現在はOffice G-Revo株式会社を設立。高校生の夢を応援する食の甲子園「ご当地!絶品うまいもん甲子園」を中心に人材育成や地域活性化等を行なっている。詳しくは公式HPにて http://www.o-gr.net/index.html

●「ご当地!絶品うまいもん甲子園」2011年より藤田が発起人となり立ち上げた、高校生が地元の食材を活かしたアイディア料理とプレゼンテーションで競う料理コンテスト、今年で第6回を迎え11月4日(土)に決勝大会を東京浅草「まるごとにっぽん3F」で開催、翌5日(日)には東京丸の内で行なわれる「JAPAN HARVEST 2017」内で決勝大会進出校の再現メニューも販売される。公式HP http://umaimonkoshien.com/