「今の野球界には『戦前のあしき風習』が残っています。抑圧的な権力主義や厳しい上下関係がその一例です。だから、今、どんどん野球人口が減っているんです」と語る小林信也氏

投手にとって夢の記録、完全試合。日本のプロ野球ではもう23年生まれておらず、過去にたった15人しか達成できていないことからも、その記録の偉大さは明らかだ。

ただ、熱心な野球ファンであっても、知っているのは第1号の藤本英雄、最後に達成した槙原寛己(共に元巨人)など数名だろう。第2号となれば、なおさら陰に隠れがちだ。

『生きて還る 完全試合投手となった特攻帰還兵 武智文雄』は、「史上ふたり目の完全試合達成者」にして特攻帰還兵でもある、武智文雄(たけち・ふみお)の生涯に迫るノンフィクションだ。

筆者の小林信也(のぶや)氏はスポーツライターにして元高校球児。現在はリトルシニアチームの監督を務める人物だ。そのためか話を伺うと、野球界へのいら立ちや提言が次々と飛び出してきた。

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―武智文雄と聞いてピンとくるのは、よほどの野球マニアかと思います。そんな「知られざる名投手」をテーマにしようと思ったきっかけは?

小林 武智さんの長女・美保さんとの出会いが大きかったですね。そもそもは、武智投手の遺品管理についての相談でしたが、話を聞いてみると、完全試合を達成した、というだけじゃなく、戦争で野球から離れていた時期があったこと、特攻隊員として死が目前に迫っていたことを知りました。そして、僕にとっては特攻帰還兵だったこと以上に、高校野球を経験していない、ということが響いたんです。甲子園を目指さなかった人間がプロに行くなんて、今の時代はまず考えられないじゃないですか。

―確かに、軟式出身や準硬式出身の選手がドラフト指名されただけでニュースになります。

小林 でも、野球以外の世界では、今や再チャレンジや異分野からの挑戦が当たり前の時代。それなのに、野球界はいまだにサバイバル。高校野球で結果が出なけりゃもう終わり…。これって、本質的に変なことなんです。というのも、野球という競技は本来、25歳くらいでやっと一人前になる競技。もちろん早熟な人はいますよ。でも、20代前半でつぼみがまだ花開かないうちに「才能がない!」と言われて道が閉ざされてしまう。

私は常々もっとおおらかな、多様性のある道があればいいなと思っていました。戦争という理由だったにせよ、高校野球をほとんど経験していないプロ野球選手が過去にいたということをもっと知ってほしい、というのが最初の動機でした。

―興味深かったのが「アンダースロー」のつながりです。武智文雄だけでなく、近鉄で彼の球を受けていた捕手も高校時代にアンダースロー投手とバッテリーを組んで全国制覇をしていた。武智の教え子・佐々木宏一郎(元近鉄)もアンダースローに変更して完全試合を達成。なんとも不思議なつながりです。

小林 これは偶然の出会いなんですけど、実は僕自身も高校時代、アンダースロー投手だったんです。高1の夏に転向しました。やっぱり同じアンダースローだからわかることってあると思うんです。上から剛速球ばかり投げている人と、下から投げている人は、もう根本的に違う。だから、武智さんに呼ばれた…と言うと大げさですけど、そういう縁をすごく感じています。実は、この本を一冊書ききることができたのがいまだに信じられないんです。いや、もちろん何かが天から降りてきたわけじゃないんですけど、自分で書いたという気があまりしなくて(笑)。

―そのアンダースローを、本書では「遊び」や「自由」といった言葉と絡めて描いています。これは、戦争によって自由のなかった時代、そして、抑圧的な高校野球との対になっているのかな、と感じましたが。

小林 アンダースローをやっていた人間だから思うことですが、まさに遊び心のある投法なんです。というよりも、おのずとそういう境地になる。自分なんか高校3年間、毎日練習がいやでいやでしょうがなかったし、監督は厳しくて抑圧的で、やらされる練習ばかり。それでも続けられたのは、アンダースローの「遊びのある世界」を自分の中に持てていたからかもしれないなと感じています。

何か大切なことを忘れてないか?

―他にも高校野球や日本球界への疑問や提言がいくつも盛り込まれています。本書を通して、特に伝えたかったことはなんでしょう?

小林 ひとつは、知られざる名投手の生きざま。そしてもうひとつ掘り下げたかったのが、自分なりにつかんだ今の野球界が抱える「不思議さのルーツ」です。戦争が終わって、武智は再び野球と巡り合います。武智だけじゃなく、当時の日本では、自由になった象徴として野球が日常に戻ってきた。でも、よく考えてみるとその認識はちょっと違っていたんです。社会は自由になったのに、野球だけに「戦前の日本」が生き延びてしまった、ともいえる。厳しい上下関係や抑圧的な権力主義がその一例です。

進駐軍はアメリカの国技だからと野球復活を後押ししてくれましたが、その中身まではチェックしなかった。戦前の日本が残っているとは気づかなかったのか。本書で取材した野村克也さんも「私がプロ野球に入った当時、グラウンドには軍隊用語があふれていました」と証言されていますが、野球をはじめとしたスポーツの世界にだけ、戦前の封建主義が復活してしまったんです。

そして僕自身、少年野球の監督をやっているから常々感じていることですが、今の野球界にも、その「戦前の悪しき風習」が残っています。突然、小さな失敗を怒鳴りつけたり、命令調で指示を出したりする指導者は残念なことにまだまだ大勢います。本人たちはなかなか気がつかない。僕も3年くらい前まで、おかしいと気がつきませんでした。

そんなことをしているから、今、どんどん野球人口が減っているんです。でも、気がついたのならなんとかしようよと。そのことに気がつくことで、いろんなことが変わっていく糸口になるんじゃないかなと思っています。

―では、本書をどんな人に手に取ってほしいですか?

小林 ひとつは、今の野球で苦しんでいる恵まれない少年たち。この本は復活の物語であり、不屈の物語です。時代とかいろんなものに翻弄(ほんろう)されても、好きな野球を楽しみ続けることができるという証明ですから。あとはやっぱり、指導者ですね。今、野球に関わっている人たちに、何か大切なことを忘れてないか、という気づきのきっかけになればうれしいですね。

●小林信也(こばやし・のぶや)1956年生まれ、新潟県長岡市出身。長岡高時代はアンダースロー投手。雑誌『POPEYE』『Number』編集部を経てフリーランス。ノンフィクションやエッセイの執筆、単行本の企画・構成を手がける。東京武蔵野シニア(中学硬式野球チーム)監督。近著は『「野球」の真髄 なぜこのゲームに魅せられるのか』(集英社新書)。テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍中

■『生きて還る 完全試合投手となった特攻帰還兵 武智文雄』 集英社インターナショナル 1600円+税プロ野球史上ふたり目の完全試合達成者、武智文雄(元近鉄)。だが彼はそれ以前に一度、野球を、そして人生を諦めた男だった。16歳のとき、戦争で甲子園大会が中止に。野球を失った彼は18歳の夏、特攻隊に入隊する。死はもう目前。そこから奇跡的な生還を遂げ、再び野球の世界へと戻ってきた。野球とは「生きてホーム(家)に還る」スポーツ。「生きて還ってきた男」、武智文雄の知られざる野球人生に迫るノンフィクション