創刊プロデュースしたゲイ雑誌、クラブイベント、HIV陽性者ネットワーク構築、ロビイング活動…様々な形で啓蒙活動を行なってきた長谷川博史さん

HIVへの偏見が激しかった時代から、陽性者として顔と実名を公表し、四半世紀にわたり啓蒙活動を行なってきた長谷川博史さん(65歳)。

ゲイ雑誌『Badi』『G-men』を創刊プロデュースし、HIV情報を発信してきた編集者としても知られている。

前編記事(『25年前に顔と実名を公表した理由』)に続き、その壮絶な闘いの歴史を紹介する──。

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各地のゲイコミュニティで話題となった長谷川さんの次の行動は、支援団体の構築だった。ゲイのHIV陽性者を繋げる「NoGAP(Network of Gay AIDS Patients)」、ゲイ以外の陽性者も含む「JaNP+(ジャンププラス:Japanese Network of People Living with HIV/AID)」と、ネットワークを作っていった。

さらに、当事者としての意見を政治に反映させるべく、国内外でのロビイング活動も精力的に行なった。それでも社会との溝は埋まらず、HIV陽性者に対するスティグマ(烙印)は相変わらず残っている。ネット上にはHIV陽性者に対する強い拒否感や歪(ゆが)んだ知識に基づく差別的なコメントが書き込まれることがある。

「『エイズ、えんがちょ』と思っているエイズ恐怖症の人たちは未だにいる。それらを見ると、25年前とまるで変わってないや、と思うね。科学は随分進んで、HIVはビビるほどの病気ではなくなった。僕たちのように服薬で血中ウイルスを検出できないまでに抑えているHIV陽性者は感染源にはならない。だけど、社会的には未だにウイルスをばらまくやつだと思われている」

顔と実名を公表し、覚悟を決めて啓蒙活動や陽性者コミュニティの構築に尽力してきた。しかし60歳になり、活動から引退しようと思っていた矢先、大きな試練に見舞われた。HIVは薬を飲み続ければ生きられる「慢性疾患」であるとはいえ、長期にわたる服薬は様々な合併症を引き起こす。自らも糖尿病、高血圧を抱えているほか、腎機能が悪化し2009年から人工透析を受けている。

透析を必要とするHIV陽性者のために、受け入れてくれるクリニックを各地で開拓するなどHIV陽性者を取り巻く医療環境に風穴を開けてきたという自負があった。ところが、その自分自身を受け入れてくれる透析クリニックが見つからないという事態に直面したのだ。

「当時、ジャンププラスの代表も降りたし、家賃の高い都心から友人が多く住んでいる私鉄沿線に引っ越そうと考えていたんだ。ところが、その沿線では受け入れてくれるクリニックが見つからなかった」

電話口で親切に対応され、ベッドに余裕があることを告げられたとしても、HIV陽性者であることを伝えた途端、多くのクリニックは「うちはやってないから」と断った。「なんでうちなんだよ」と言い捨てて電話を切った医師もいたという。

死ぬ覚悟をし、いつ死んでもいいと…

風穴を開けたどころか、現実は「針の穴をほんの1、2ヵ所刺しただけ」だった。透析が受けられないというのは、生死に直結する問題だ。なぜ、こんなことが起こるのか?

交通の便が悪い地方では透析医師たちが社会的医療という意識で精力的に治療に関わるが、患者の奪い合いになるほどビジネス性が強い都会の医療機関では「HIV陽性者を受け入れると他の患者が逃げてしまうと思っているところもある」と、長谷川さんは説明する。

それにしても、HIVの現状を知っているであろう医療のプロがこのような差別的対応をするものなのか?

「マイノリティやHIVの問題にも対応しなきゃと思っている医療従事者はいても、同時に『なんで俺たちがこんなホモの病気を診なきゃいけないんだよ』と思っている人たちもいる。それを医者からやられたら、患者はもう身の置き場がない。

僕はジャンププラスを立ち上げて地方の透析クリニックなどを開拓してきたはずだった。旅行先でも透析はちゃんと受けられるという自負があったのに、まさか自分の膝元である東京でそんな差別の対象になるとは思っていなかった。40件ほど立て続けに断られたからね」

現地のクリニックが見つからなければ引越しなどできるはずもなく、結局、都心の家に留まった。「おまえなんか生きている資格ないよ」と言われているようで、うつ状態に陥っていった。「生きる価値のない自分」を終わらせるため、HIV治療薬の服用を止めた。しかし、皮肉なことに死は訪れなかった。ならば…と、今度は透析をボイコットした。

クリニックでは、一向に現れない長谷川さんを心配して大騒ぎになっていたという。幸い、主治医がアパートの大家だったこともあり、部屋で倒れているところを発見されたが、排尿できないため腸管から出血し意識不明の状態だった。さらに、糖尿病からすでに悪くなっていた右脚が悪化し、切断を余儀なくされた。

25年前に一度死ぬ覚悟をし、いつ死んでもいいと思っていたはずだった。ところが、「元々は“弱虫の強がり”なんだよね。引っ越し先が見つからないくらいで死ぬ気になって、しなびちゃうんだもん」。

だが、そんな長谷川さんを救ったのは仲間たちだった。1ヵ月半の入院中に100人超もの見舞客が来たと、嬉しそうに言う。

「ヒゲ生やした若い友人たちが心配そうに見舞う姿を見たら、しょうがねえなぁ、と。こいつらが生きろと思っているなら、その間は生きているかと。『みんな、ごめんね。あたし、もうちょっと頑張るわ』って。今はみんなが『いい加減、長谷川、向こう行けや』と言うまでとりあえず生きておくかと思っています」

「自分はいい失敗例になっている」

60歳を過ぎた時、人工透析を受けるクリニックが見つからないという大きな試練に見舞われ、死をも考えたという

長いうつから明けて、3年が経った。「今は前に出たいとか、何かを残したいという欲望ももうない」と言うが、それでもまだ気がかりなのは、やはりHIVに対する根強い偏見だ。「もはや普通の慢性病と同じだけど、世間はそうは見てくれないぞ。腹をくくれよ」と身を引き締めなくてはいけない場面が未だにあるという。

ゲイであること、さらにHIV陽性者であることを公表している人の中で、長谷川さんは最高齢のひとりだ。「おかげさまで今年、晴れて65歳の前期高齢者になりました。60過ぎておめおめと生きているとは全く思っていなかったから、老後の準備もしていなかった。少なくとも、自分はいい失敗例になっているわけさ」と自嘲しながら、屈託のない笑みを見せた。

12月10日、品川プリンスホテルのステージにその姿があった。女優の東ちずるさんが障害者やマイノリティの人たちと作り上げる、多様性を称える舞台だ。ここで、長谷川さんは10年ぶりにフル女装し、詩の朗読を披露した。

ある俳優から教えられた「どんな汚い衣装を着ていても、世界で一番綺麗な女だと思って背筋を伸ばして読みなさい」という言葉を守り、パフォーマンスの前には気合を入れる。朗読を終えた時、拍手喝采の渦の中でスポットライトを浴びた姿は、キラキラと輝いていた。

(取材・文/松元千枝 撮影/保高幸子)