「歌舞伎町にいた台湾人の多くが、終戦直後は新宿西口のヤミ市で商いをやっていました。そこがつながってるとは思いませんでしたね」と語る稲葉佳子氏

新宿・歌舞伎町。東京屈指の歓楽街として知られ、近年では「ゴジラヘッド」で有名な「TOHOシネマズ新宿」をはじめとする新商業施設が立ち、外国人観光客が訪れる観光名所としてもにぎわいを見せている。

その一方で、日本人にとってはバブル期からホストクラブや風俗店が立ち並ぶ色街としてのイメージも強く、また、その環境を取り巻く裏社会の存在によって、アウトローなイメージを抱かれやすい場所ともいえるだろう。現に、歌舞伎町一帯を舞台にした警察小説は数多く存在するし、人気アクションゲームシリーズの舞台の元にもなっている。

その歌舞伎町も、終戦直後は辺り一面が焼け野原であった。そして、その状態からヤミ市を形成し、後の「歌舞伎町」の街づくりに携わった台湾人がいたことは、ほとんど知られていない。

本書『台湾人の歌舞伎町―新宿、もうひとつの戦後史』には、戦後から高度経済成長期の歌舞伎町に娯楽施設や飲食店を造り上げた台湾人実業家たちの功績が、貴重な証言を元に書かれている。著者の稲葉佳子氏に聞いた。

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―これまで新宿の大久保を中心に、研究をされてきましたが、歌舞伎町への興味はいつ頃から持たれたのでしょうか。

稲葉 元々はそれほど縁がありませんでした。初めて歌舞伎町を訪れたのは、2003年に「歌舞伎町を支えた華僑たち」という街歩きイベントに参加したときのこと。ちょうどその10年以上前から大久保で、外国人居住の調査をしていたんです。

バブル期、大久保には歌舞伎町で働くホステスが多く住んでいて、歌舞伎町のベッドタウン的な役割も果たしていました。歌舞伎町の景気の善し悪しが、大久保にある花屋やクリーニング屋の商売にも影響するほど、ふたつの街は関係性が強いのです。そこで「歌舞伎町についてもある程度知っておかなくてはならない」と思い、訪れることにしたのが始まりでした。

―歌舞伎町に的を絞った取材を始めたのはいつ頃から?

稲葉 2010年です。先に述べた街歩きイベントで、歌舞伎町を代表する商業施設を台湾人が造ったという話を聞いたときはとても驚きましたが、取材に取りかかるきっかけを得るまでには数年を要しました。

ある時、偶然再会した大学時代の先輩が、歌舞伎町の台湾人経営者とのつながりを持っていたんです。そこから台湾同郷協同組合を紹介してもらい、戦後の歌舞伎町で、どのような台湾の方たちが商売をされていたのか取材を始めるようになりました。

でも正直、初めの頃は組合の人たちからすれば、突然大学の非常勤講師と映画監督(青池憲司氏)がやって来て、お話を聞きたいと言われても、少々うさんくさい感じがしたと思います。足しげく通い、組合の30周年記念誌制作のお手伝いをするうちに、信頼関係ができていったと思います。

―戦前から今日までの歌舞伎町を知る人は、大変稀有(けう)な存在です。彼らから感じたことは?

稲葉 主に話を伺った黄進生(こう・しんせい)さんは、とても人柄の良い方でしたが、眼光はとても鋭かったことを覚えています。終戦と同時に台湾が日本の植民地でなくなったことによって、彼らは突如“第三国人”として扱われるようになりました。外国人が戦後の東京で成功していくには、彼らにしかわからない“様々な苦労”があったと思うんです。

とはいえ、ヤミ市で財を築き、歌舞伎町に進出してきた昭和30年代から40年代は、彼らにとって本当に楽しく豊かな時代だったのだと思います。黄進生さんは、ヤミ市で統制品を扱って、弱冠20代でアメ車を乗り回していたようで、その時代の話になると、つい昨日のことのように生き生きと語りだすんです。

その黄さんも、一昨年に90歳で亡くなられました。このタイミングで、彼らの生の声をまとめることができたことは本当によかったと思っています。

台湾人の功績なくして、“じゅく文化”は成立しえませんでした

―新宿駅西口のヤミ市(現在の小田急百貨店、新宿パレット)からやって来た台湾人も多かったという記述にはとても驚きました。

稲葉 私もそこがつながっているとは思いませんでした。いろいろ話を伺っていくうちに、歌舞伎町にいた台湾人の多くが、終戦直後は西口のヤミ市で様々な商いをやっていたことを知ったんです。ちょうど西口ヤミ市の整理と歌舞伎町の発展期が重なっていました。東口にも同様にヤミ市はありましたが、区画整理の時期が早かったこともあり、そこの人々はゴールデン街や柳町、センター街などに小さなお店を開いていきました。

意外かもしれませんが、こういった「ヤミ市」の研究は、若手の都市工学、建築系の研究者の間で注目されています。これまでは研究対象にもならない分野だったのですが、戦後70年を経て新たな視点が持ち込まれました。私も、若い研究者のヤミ市研究の成果を多いに参考にさせてもらいました。

―その後、昭和30年代の歌舞伎町で、彼らが劇場や名曲喫茶、キャバレーなどを続々とオープンさせました。今の歌舞伎町では想像もつかない光景ですよね。

稲葉 経営をしていた彼らは、戦時中に台湾から統治国の日本へ“内地留学”をしていたような人たちですから、台湾でも裕福な家庭や地主の出身が多かった。加えて、医学や薬学など高等教育を受けた人もいたので、演劇や音楽にまつわる高い教養を持ち合わせている人が多かったと思います。

―なるほど。しかし彼らは、昭和40年代以降から今まで、歌舞伎町一帯から姿を消してしまいました。なぜでしょうか。

稲葉 一番大きな要因は、バブル崩壊。バブル期の歌舞伎町の地価は信じられないくらい高騰したので、投機や相続税対策のために、みな土地を担保に借金をしました。だからバブル崩壊と同時に多額の負債を抱えてしまった台湾人も多かったんです。

また昭和50年代から風俗店が増えて、街の環境も変わりました。終戦後に建てられた建物が建て替えの時期を迎えます。歌舞伎町で商売をしていた住民の中には、新しいビルをテナントに貸して、郊外へ移り住んでしまう人たちもいました。その結果、最近のイメージにあるような風俗の街になっていったのです。

とはいっても、台湾人の人々の功績なくして、今の歌舞伎町、“じゅく文化”は成立しえませんでした。そのことを、より多くの人に知ってもらえたらうれしいですね。

(撮影/五十嵐和博)

●稲葉佳子(いなば・よしこ)1954年生まれ、東京都出身。法政大学大学院デザイン工学研究科兼任講師、博士(工学)。都市計画コンサルタントを経て、2008年よりNPO法人かながわ外国人すまいサポートセンター理事。12年から新宿区多文化共生まちづくり会議委員。著書に『オオクボ 都市の力―多文化空間のダイナミズム』(学芸出版社)、『外国人居住と変貌する街』(共著、学芸出版社)、『郊外住宅地の系譜―東京の田園ユートピア』(共著、鹿島出版会)ほかがある

■『台湾人の歌舞伎町―新宿、もうひとつの戦後史』(稲葉佳子、青池憲司著、紀伊國屋書店 1800円+税)戦後、焼け野原と化した東京・新宿に立ち上がった町の復興計画。間もなくしてその一画は「歌舞伎町」と名づけられ、紆余曲折を経つつも、次第に日本を代表する興行街、歓楽街のひとつに数えられるようになる。その昔日の復興のなかには、戦前に“内地留学”をし、戦後はヤミ市で財をなす台湾人たちの姿があった。キャバレーに名曲喫茶、旅館など、これまでの歌舞伎町の礎をつくり上げた彼らの知られざる姿が、貴重な証言を基に明かされる