紛争史研究家の山崎雅弘氏(右)と、自衛隊問題に詳しいジャーナリストの布施祐仁氏(左)

1935年に起きた天皇機関説事件をご存じだろうか。おそらく、歴史の年表のひとつとしてしか覚えていないという人も多いだろう。しかし、その内容を見ていくと、現在の状況と驚くほど似通っていることに気づく。

先頃、その危険性について指摘した新書『「天皇機関説」事件』を書いた戦史・紛争史研究家の山崎雅弘氏と、自衛隊問題に詳しいジャーナリストの布施祐仁氏が「アメリカと北朝鮮の戦争、『負ける』のは誰か?」と題して対談を行なった。その様子をレポートする。

※この対談は、2017年12月5日、神楽坂モノガタリにて行われました。

布施 山崎さんの『「天皇機関説」事件』のあとがきに「日本人は形式を重んじる傾向が強く、その立派な大義名分を持ち出されると、たとえ実質に問題があっても、権威に屈服して従う人が多い」と書かれていましたよね。事件当時だけでなく、現在の日米関係をも言い当てていると感じました。

山崎 「大義名分」は当時も、現在の日本にも通じるキーワードだと思います。上意下達の「命令」であれば、上位の者がやめろと命じれば終わります。しかし「国体」や「愛国」といった大義名分が行動の動機になると、それを共有した人間が自発的に行動し、止められる人間がいないまま、大義名分に基づく行動が際限なく暴走するということになりかねないのです。

1935年に出た、右翼団体の機関誌『勤王』の「天皇機関説排撃号」の表紙には「大義名分の存否は国家興亡の繋がる處」と書かれているのですが、天皇機関説事件が始まった1935年から終戦の45年までの10年間は「国体」という天皇中心の国家システムを守るためならば、他のあらゆるものを犠牲にしても許されるという「国体」思想が事実上、無敵の「大義名分」になっていました。

布施 臣民がどれだけ犠牲になっても、「国体」さえ守ることができれば良いという思想ですよね。現在では日米同盟がそれに当たるのではないかと感じます。日米同盟さえしっかりしていればすべて良し、と思考停止しているように見えます。

山崎 私も同感です。まず天皇機関説事件の当時の様子から見ていきたいと思いますが、前置きしておくと、「天皇機関説」とは、日本という国家を「法人」とみなし、天皇はその法人に属する「最高機関」に位置するという学説です。これについて右派の政治家や退役軍人、そして右翼団体などが「天皇を『機関』扱いするのはとんでもない」と、表面的な言葉をあげつらって言いがかりをつけ、この学説を主張する憲法学者で貴族院議員の美濃部達吉を糾弾したのです。

美濃部は、社会的にも精神的にも大きな打撃を被りました。これは明らかな政治的攻撃です。国体あるいは「愛国」という大義名分を掲げ、疑問をさしはさむ者には「非国民」とか「反国体」などとレッテルを貼って罵倒したのです。

天皇機関説事件から2年後、日中戦争が始まります。平和から戦争へと突入していく背景に「自分たちは絶対的に正しいのだ」という主観的思考の肥大化と「本当に自分たちのやっていることは正しいのだろうか」と常に自省する客観的視点の欠落があったと私は見ています。

当時の図式を踏まえた上で、最近の話になりますが、2017年8月4日の神戸新聞に〈灘中に「教科書なぜ採択」盛山衆院議員ら問い合わせ〉という記事が出ました。灘中学校で、慰安婦問題や南京虐殺問題を事実として認めた歴史教科書を採択したことをめぐって、自民党の盛山正仁衆院議員や兵庫県議の和田有一朗氏が「なぜ採択したのか」と同校に問い合わせを行なっていた。加えて「文面が全く同一」のはがきが200通以上届き、和田校長は「はがきはすでにやんだが、圧力を感じた」と振り返っていると。

布施 同様に、例えば私が日米同盟に少しでも疑問をはさむようなことを言うと、「反日」とか「お前は中国や北朝鮮の味方か」などとレッテルを貼って糾弾してくる人たちがいます。日米同盟も「大義名分」になってしまっている。

山崎 灘中学校の出来事でも、大義名分として「日本の名誉」が持ち出されました。ただ、彼らが守ろうとしている「日本」とは、戦前戦中の大日本帝国のことです。一方で、そうした歴史修正主義的な行動は現在の日本の国際的な評判を落とし続けています。

その典型が、サンフランシスコの慰安婦像をめぐる論議ですが、主観的に「過去の日本」の名誉を守ろうとすればするほど、他国からは過去を反省しない、人権を軽視する国だと「現在の日本」の名誉は下がっていく。そうした乖離を自覚していないという構図も、現在起こっていることと天皇機関説事件は似ていると思います。

日本にとって何が本当の安全保障なのか

布施 「大義名分」を絶対化すると、現実が見えなくなりますよね。まさに、主観的思考の肥大化と客観的視点の欠落です。

現在でいえば、安倍政権は日米同盟を絶対化してトランプ政権の対北朝鮮政策を100%支持すると言っていますが、戦争になったら東京に核ミサイルが撃ち込まれて100万人以上が犠牲になるかもしれないというシビアな現実が見えていないと思います。「この国を守りぬく」と言いながら、見ているのは日米同盟だけで、日本にとって何が本当の安全保障なのか見失っているところがある。

山崎 他にも最近の集団的な攻撃について、山尾志桜里議員が、先日の衆院選で選挙には勝ったものの無効票が多かったと、愛知県選挙管理委員会に抗議や問い合わせが殺到し、一部の人間が「当選は不正」などとネットで騒ぎ立てる出来事がありました。ネットでこういうことを流布する人間の手法は判で押したように同じパターンで、誰が最初に言い出したかわからないように責任を分散し、圧力をかけるのです。

そもそも1万1291票が無効票として多いのか?といえば、他の選挙区と比較して特別多かったわけではなかった。つまり集団的な攻撃による、デマの流布ですよね。デマには事実を変える力はありませんが、それを大量にばら撒くことによって、人々の目から事実を覆い隠す力を持っている。あるいは、特定の標的に間違ったイメージを植え付ける力を持ちます。

デマ攻撃が繰り返されることで、次第に標的となった者の信用を失墜させる、という政治的攻撃です。これも機関説事件と共通するところです。

布施 攻撃する側にとっては、情報の真偽などどうでもいいんですよね。とにかく「大義名分」を守りたいだけなので、それにそぐわない人物を攻撃して排除したい。この件でいえば、山尾さんという野党の象徴的なキャラクターをとにかく叩き潰したい。

機関説事件でも、冷静に議論されている時には美濃部達吉の主張が学会で認められ、定説になりました。ところが、いざ攻撃が始まると、冷静に、論理的に反論すればするほど火に油を注いで燃え上がってしまう。事実や論理の正当性が通じない世の中になっていった。同じ怖さが今も蔓延(まんえん)しつつあります。

山崎 気になるのは、山尾さんや辻元清美さん、朝日新聞など攻撃対象が特定されていることです。同じ敵を執拗に攻撃することで、結束して高揚感を味わうというパターン化された行動が目立ちます。この標的に対してだったら何をしてもいい、というような空気も生まれてくる。

布施 警察庁が公表した今年度の治安報告書で、北朝鮮が日本国内で「親北朝鮮世論の形成」のための活動を強化する見通しを示した、と報じられていました。こういうニュースが流れると、日本政府の対北朝鮮政策を批判すると即、「北朝鮮のスパイ」とレッテルを貼られて糾弾・罵倒される恐れがあります。

そうなると、政府の政策に問題があっても、それを軌道修正するような冷静な議論ができなくなります。今日のような議論をしている我々は真っ先に「北朝鮮のスパイ」ということにされかねません(笑)。

山崎 歴史上、繰り返されてきたことですよね。ソ連は1930年代に大粛清を行なっていますが、その大義名分としたのが反革命罪や敵国のスパイ罪でした。戦後の日本では、最近までそのようなきな臭いことは起こっていなかった。でもここ数年、例えば沖縄の翁長知事が中国の手先であるとか、とにかく現政権に従わない、あるいは批判的な人間に対し、中国の協力者である、北朝鮮のスパイである、といった暴言が次々に出てくるのは憂慮すべき社会状況です。

話を1935年に戻しますが、日本の国体をより明確な形で再定義しようという「国体明徴運動」が天皇機関説事件に並行して現れています。その運動では政府とその支持勢力が「神聖かつ崇高な国体を惑わす不純思想」と見なした考え方を排除しました。つまり、特定思想の弾圧です。例えば、美濃部達吉は現代的な意味でのリベラリストではありませんでしたが、個人主義や自由主義の価値は認めていた。つまり、機関説排撃派が標的にしていたのは、美濃部達吉という個人や、彼の語る憲法学説だけではなく、その背景にある「個人主義」や「自由主義の思想」でもあったのです。

最近、「行き過ぎた個人主義」を放置すると国が崩壊するので統制しなければいけない、というような戦前の国体明徴運動で語られたのと同じ言説が、安倍首相に近い人の口からよく語られています。でも注意深く見れば、それは個人主義ではなく「利己主義」のことです。個人主義の本来の意味は、美濃部が言うように各個人の人格を尊重し、個人としての生存の価値を認め、それぞれが自分の能力を発揮して、国なり社会なりに奉仕するということです。

それから美濃部は、世界中が戦争へと向かう中で「現代の国家は、単に戦闘団体としてのみ存在するのではなく、同時に国民の福利を全うするための団体であり、また列国と親交ある国際社会の一員でもある」と書いています。1934年に書かれたとは思えないほど現代的な価値観だと思います。

軍事には本来、徹底したリアリズムが求められる

布施 行き過ぎた利己主義が問題なのに、個人主義を全否定してしまうというのは、行き過ぎた市場原理主義が問題なのに資本主義そのものを全否定するようなもので、極端でバランスを欠いています。山崎さんの本を読んで興味深かったのは、個人主義を全否定して「日本は天皇を中心とする神の国だ」と国体を絶対化し国防を偏重する方向に流れていった時代背景です。

国家総力戦に向かうための思想動員という側面はもちろんありますが、それよりも、軍人の社会的地位がかつてなく低くなっていたり、社会全体としても経済的な閉塞感があったりして、傷ついた軍人のプライドや日本のナショナルプライドを埋めるために国体思想にどんどんすがっていったという情緒的な面のほうが強かったのではないかと思いました。

山崎 確かに高度国防国家を目指すという大義名分はありましたが、実際にしたことといえば、漠然とした外国の脅威を誇張して、軍備を際限なく増強していくことでした。それが引き起こした結果が日中戦争であり、太平洋戦争であったと思います。

日中戦争の始まりとされる盧溝橋事件は、偶発的な衝突でした。しかしその5日後、1937年7月12日の大阪朝日新聞の朝刊では、その後の軍の対応として「支那側がわが駐屯軍の要求を全部容れたとかの噂があるが、かかる一片の口約束で支那側を信用したならば、またまた煮え湯を飲まされるに決まっている」「支那側の重ね重ねの不信行為のため」武力で対応すると書かれています。要するに相手側を全く信用せず、交渉という問題解決の手段を軽視して、自国の軍事力を過信し、軍事的圧力で解決すれば片がつくという発想です。

布施 今、日本政府が北朝鮮に対して言っていることと全く同じですね。最近、外務省で北朝鮮を担当している北東アジア課の職員と話す機会がありましたが、北朝鮮の金正恩は力の信奉者だから力でわからせるしかない、対話は全く意味がないと断言していましたからね。中国についても同じことを主張している自衛隊の元将官もいて、驚きました。

山崎 外務大臣の河野太郎氏、副大臣の佐藤正久氏、両人とも軍事寄りの思考になっていて、本当に危ない状況だと思います。先日、河野氏は「北朝鮮と国交を結んでいる国々は『断交』せよ」と言いました。外務大臣は外交交渉を司る立場であって、他国の外交関係を絶てなどということは完全な越権行為です。結局、日中戦争も、相手側の言い分を認めずに自分たちは正しい、相手は傲慢だと、独善的な主張を重ねていくことで泥沼化した事実があります。

布施 軍事には本来、徹底したリアリズムが求められます。冷静な目で相手の力とこちらの力を量り、最も合理的な戦略と戦術を立てなければなりません。しかし、日本はそうした合理的な判断力を失った状況で負け戦に突き進んでしまった。

山崎 俯瞰(ふかん)的に状況を分析せず、自分たちの主観を絶対視してしまう。軍事力の過信であり、主観の暴走です。

布施 それは昔の話をしているんですか、今の話ですか(笑)。

山崎 両方ですね(笑)。

●後編⇒アメリカと北朝鮮「負ける」のは誰か?ーー日本は戦争を絶対に回避しないといけない

(取材/角南範子)

山崎雅弘(やまざきまさひろ)1967年、大阪府生まれ。戦史・紛争史研究家。『日本会議 戦前回帰への情念』(集英社新書)、『戦前回帰 「大日本病」の再発』(学研プラス)、『5つの戦争から読みとく日本近現代史―日本人として知っておきたい100年の歩み』(ダイヤモンド社)など著書多数。

布施祐仁(ふせゆうじん)1976年、東京都生まれ。ジャーナリスト。『ルポ イチエフ ~福島第一原発レベル7の現場』(岩波書店)にて平和・協同ジャーナリスト基金賞、JCJ賞を受賞。著書に『経済的徴兵制』(集英社新書)、『主権なき平和国家 地位協定の国際比較からみる日本の姿』(集英社クリエイティブ)など多数。