セリエ・コーポレーションの岡本昌宏社長(写真は同社提供)

ニッポンには人を大切にする“ホワイト企業”がまだまだ残っている…。連載企画『こんな会社で働きたい!』第18回は、神奈川県横須賀市にある鳶(とび)専門会社「セリエ・コーポレーション」だ。

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「償ったら誰でも同じようにチャンスがある」「手に職つければなんとかなる!」

鳶専門会社「セリエ・コーポレーション」(以下セリエ)の岡本昌宏社長(43歳)はこの言葉を全国の少年院や刑務所で伝え続け、目の前に広がっているまっとうな人生に飛び込めと檄(げき)を飛ばしている。

口先だけではない。セリエで働きたいという入所者がいれば、健康でやる気さえあれば、自らが身元引受人となり、住まいも用意し採用する。その数、13年間で約70人。とはいえ、その多くが定着せずにセリエを去る。「それでもいい」と岡本さんは思っている。

「セリエに残るもよし。ここを辞めても、その後の人生に繋がる場であればいい」

絶対に立ち直る――その信念は、自らの少年時代がベースになっている。

小学校からサッカーが好きな普通の少年だった。それが、つい大人の真似をしたくなり、中1で喫煙を始めた。

中2でサッカー部を辞めた。3年生になると喫煙はやがて薬物へとエスカレートし、給食時間を除き、学校にも行かなくなった。

修学旅行にだけは行ったら?との周囲の大人の勧めで渋々参加したが、その一泊目で事件を起こす。翌日の早朝には母に連れ戻され、学校や教育委員会からは「もう学校に来ないでくれ」と言われた。

途方に暮れた親が知人である大谷恭子弁護士(一般社団法人・若草プロジェクト代表理事)に相談したところ、大谷弁護士は岡本少年に「じゃあ、うちにおいで」と居候を提案する。早速、その実家である米屋の2階で7月から8月にかけての居候生活が始まった。

ぶらぶらしているわけにもいかず、近くの蕎麦屋で働いた。中学生の就労は今なら児童労働でアウトだが、岡本さんはこの時、「働くことは楽しい」と思った。そして、びっくりしたことがある。

「昔から読書好きですが、その時、ある本で初めて大谷さんがあの死刑囚、永山則夫の弁護士だと知ったんです」

永山則夫は1968年に日本各地で警備員やタクシー運転手など4人を射殺した「連続ピストル射殺事件」で逮捕され、97年に死刑執行されたが、獄中から多くの小説を発表したことで知られる“伝説の死刑囚”だ。さらに、これは後日知るが、居候していた部屋の隣に住んでいた「誰か」が永山死刑囚と獄中結婚した女性であったことにまた驚く。

大谷弁護士宅に居候していたのは、今でいえば保護観察のようなものだが、岡本さんは蕎麦屋での経験から「自分でしっかり働いて食っていこう」と決めた。

やり直そう。兄が単身赴任していた岩手県宮古市に身を寄せ、10月から地元中学校に編入、高校にも進学しサッカーも再開した。そして猛勉強の末に都内にある私立大学の福祉学部に入学した。目標があったのだ。

社長の人生を変えたある女性のひと言

「福祉を学びたかった。小さい時に通った学童保育には障がいのある子も当たり前にいて、いわゆる統合保育が行われていました。その子たちの勉強や遊びの相手をする職員は不思議といつまでも覚えていたんです。自分もいつかは『人の役に』との思いが頭の片隅に刻まれていたんですね」

だが――。

一所懸命勉強した末に入学した大学で目にしたのは、学生たちが学業そっちのけでサークル活動でチャラチャラと遊ぶ姿だ。その学業にしても、どの大学もそうだが、初めの1年や1年半は一般教養の授業に追われる。それが面白くなかった。

入学後、わずか2ヵ月で退学。昼も夜もバイト漬けの生活になり、そして再び悪い道に入っていく。

「これといった目標のない毎日に戻ると、また悪い血が騒ぎましてね…危ない系の遊びに染まっていきました。同じような仲間が事件に巻き込まれ、次々捕まる。オレもいつか捕まるんだなぁと、判断能力がなくなるまでに身も心もボロボロになっていきました」

その頃だった。10歳年上の女性と出会い、ひと目惚れした。告白すると、彼女は言った――「悪いことから手を引いたら付き合う」

この言葉を境に、岡本さんはピタリと悪さをやめる。彼女との将来を考え、今度こそまじめに働こう、自分の力で食っていくために職人になると決めた。どうせなら稼げる仕事がいい。選んだのが鳶だった。

23年前の1995年、岡本さんは19歳で鳶の会社に入社する。翌年には結婚。金がなかったので親にも言わず、披露宴も挙げず、安い指輪をプレゼントしただけだった。

鳶職はすぐに覚えられる仕事ではない。足場の組み立てと解体、鉄骨の組み立て、クレーンやエレベーターの組み立てと解体等々…。当時は、職人には元ヤクザもいれば覚せい剤の常習者、指名手配犯も当たり前にいたという。

「だから、高いところが怖いのではなく、そういう人と仕事をするのが怖かった(笑)」

現場によっては、殴られ蹴られもあり、耐え切れなくなると退社したが、鳶職人になることだけは諦めなかった。大変だった修行時代も経験を重ねると楽になっていく。入職から10年経った2005年6月に独立し、セリエを創立した。

前述のように「人の役に立ちたい」と思っていた岡本社長は独立と同時に早速、行動に移す。

独立するあたりから、児童虐待に関する本を熟読していたというが、その犠牲者ともいえる子どもたちに何かできないかと、まず神奈川県内の児童養護施設を直接訪ねては話を聞いた。

鳶をやりたいとは思わなかった

そこにいる児童たちは虐待を受けただけではなく、虐待をした親がふたりとも刑務所で服役中、家庭からの引き取りを拒否されている…など様々な背景を持っていた。さらに、施設に住めるのは18歳まで。それを過ぎると少年や少女はそこを出て、独力で住まいも仕事も見つけなければならない。

岡本社長は就職に困っている少年をインターンとして受け入れることを始めた。

「彼らは、『住まい』『親代わりになれる人間=身元保証人』『仕事』の3点セットを求めて巣立つのですが、中にはそれが確保できずにどこにも行けない子もいる。じゃあ、私がその3点セットを提供しようと申し出たんです」

その結果、年に2、3人の受け入れを続けていると、口コミでそれを知った児童相談所からも直接、声がかかるようになる。

また、全国の更生保護協会や保護司会などの有志が「犯罪は社会の荒波の中で生まれた。罪を犯しても社会の中でこそ立ち直る。民間の立場から出所者の雇用を支援しよう」との目的で2009年、認定NPO法人「全国就労支援事業者機構」(以下、事業者機構)が設立され、各都道府県にも支部を置いた。

事業者機構は、刑務所から出所したばかりのお金のない人たちに当面必要な衣服や生活費を支給したり、身元保証人になるなどの活動を続けている。今、その拡大を図っているのが「協力雇用主」(出所者を雇用する企業)だ。

法務省が出所者への雇用支援の一環で「協力雇用主」が出所者を雇用すれば奨励金を支払う制度。満期出所は対象外だが、就労を継続すればその企業に12カ月間で最大72万円が支払われる。セリエもこれに登録し、以後、少年院や刑務所からの出所者の受け入れを始めた。

セリエの社員、林陽太さん (20歳、仮名)は半年前まで少年鑑別所に1ヵ月間入所していた。19歳の時、自転車の窃盗で逮捕され収監されたのだ。

高校は1年留年した後に中退。以後、様々なアルバイトをしながら過ごしていた。

逮捕後、家庭裁判所での審判を受けて収監された鑑別所では、その高校中退という学歴に加え、軽犯罪とはいえ罪を犯したことで、自分の将来は一体どうなるのかとの不安ばかりを覚えたという。

鑑別所では社会復帰が認められない場合は、少年は少年院に入らねばならない。そんな時、国選付添人(少年の立ち直りを援助する活動を行う弁護士)から「セリエ・コーポレーションという鳶の会社がある。社長に会ってみる?」と勧められ、受諾した。

面接時間の40分間、岡本社長は「自分がどういうことをやってきたか。働くとはどういうことか」を話した。その社長の熱意とは裏腹に、林さんは鳶をやりたいとは思わなかったという。

「正直にいえば、とにかく1日も早く外に出たい。それだけの思いで入社を決めました(笑)。でも、社長からは安心感を覚えました」

消えた彼らはどこに行ったのか?

岡本社長(右)と社員の林陽太さん(20歳、仮名)

半年経った今は?

「今もこの仕事を好きだとは言えません(笑)」

それをそばで聞いた岡本社長が笑った。

「そうだよな。俺だって初めは辛くて好きにはなれなかったから。まずは、とにかく働くことが目的だった」

この言葉に林さんは頷(うなず)いた。岡本社長はそんな彼を高く評価している。

「ひとつにはこの半年間、無遅刻無欠勤であること。そして、自分に仕事が合う合わないをグタグダ考えるんじゃなく、仕事に自分を合わせようとしている。絶対にいい職人になれます」

実は、林さんは家庭裁判所で第一回少年審判を受けた頃、親から「縁を切る」と言われていた。だがまじめに働く今、その親との交流が戻ってきた。

「1日1日をまじめにやる。今はそれしかありません」

今、セリエでは社員25人のうち、刑務所や少年院からの出所者は9人を数える。もちろん、出所したばかりの社員には岡本社長が身元引受人になり、寮(シェアハウス)という住居も提供する。

だが、冒頭で書いた通り、過去13年間で約70人を採用しているが、その多くが今はいない。彼らはどこに行ったのか? なぜいなくなったのか? それでも、なぜ社長はめげないのか――。

★後編⇒出所者、非行少年の「過去も全て受け入れる」鳶(とび)の専門会社が再犯・離職しても見捨てない理由

(取材・文・撮影/樫田秀樹)