セリエコーポレーションの岡本昌宏社長

本人が健康でやる気さえあれば、少年院や刑務所からの出所者等を積極的に採用する鳶(とび)専門会社「セリエコーポレーション」(神奈川横須賀市)。

セリエでは2005年8月から18年1月までの13年間で出所者に加え、就職の選択肢が少ない養護施設や児童相談所一時保護所(非行児童や被虐待児を一時的に保護する施設)にいる少年ら70人を採用してきた(前編記事参照)。下は16歳から上は55歳まで、その6割を10代が占める。

だが一方で、素朴(そぼく)な疑問も覚える。社員数25人のうち、今、そうした経歴を持つ少年らは9人。つまり61人はいなくなったことになる。セリエの内部資料を見せてもらうと、入社後「3日目で失踪」「1週間後に退社」などの記録が並ぶ。就職辞退も含め、半数以上が1年以内で辞めている。

セリエで少年らの受け入れ準備等を担当している白岩こずえさんはその理由をこう推測する。

「すぐに辞めるのは、鳶の仕事が考えていた以上に大変だったからではないかと。遠い現場に朝8時に着くには早朝から重い道具を持って始発電車に乗ることもあり、仕事も頭で考えていた以上に大変だったのでしょう。慣れて余裕が出てきても、インターネット上で弊社より給料の高い求人を見つけ、おいしい話には裏があるということを考えないで転職してしまう人が多いかと思います」

そして岡本昌宏社長(43歳)は、若い社員が辞めるのには「3つの理由」があると語る。

「まず、情報を読み解く能力がない。少年院や刑務所から数年ぶりに外に出ると、それまでなかった情報が一気に入ってきます。ネットに溢(あふ)れる『短時間で高収入』とか『日給5万円』というあり得ない情報に心奪われる子もいる。

ふたつ目には、社会復帰前後の理想と現実とのギャップを受け入れられない。ギャップはあって当たり前。現実は厳しくて当たり前。そこから楽なほう、楽なほうへ流れてしまう。3つ目が、弊社は日給8千円スタートですが、これを『安い』と不満に思っていることですね」

岡本社長は入職したての少年を「守る」ため、いろいろと方策を講じている。

新入社員には、無用なネット情報から隔離するために岡本社長名義のガラケーを与える。そして、無遅刻無欠勤を1ヵ月続けたら日給を9千円にしてスマホも与える。2ヵ月続けたら9500円、3ヵ月続けたら1万円へと徐々に昇給するインセンティブも用意している。それでも、スマホを入手した途端、「日給5万円」のニセ広告に惹(ひ)かれ退職する少年もいる。彼らが今どんな人生を歩んでいるのかはわからない。

一度、悪い流れに入った少年たちをまっとうな道に戻すには並大抵ではないエネルギーが必要だ。岡本社長が疲れ切ったのは一度や二度ではない。

「日々、大なり小なり“地震”が起きています。昨年はとうとう身体が壊れかけました(笑)」

セリエがやるべき「仕事以前」の課題

セリエ・コーポレーションの鳶の現場にて。前列中央で立っているのが岡本社長(同社提供)

数年前にはこんな“地震”が起きた。ある女性刑務所で500人の受刑者を前に職業講話したところ、出所後、「是非、鳶職人になりたい」と飛び込んできた女性がいた。

問題は彼女がアルコール依存症であったことだ。何段階かある依存度のうち、最も重度のレベル。飲酒で「気づいたら」殺人を犯し、9年間服役するが、出所後半年で今度は酔った勢いでコンビニ強盗を犯して再入所。そこで岡本社長の話に触れて「今度こそやり直そう」と決めたのだ。

だが、昨年1月、セリエに就職し初仕事の後に早速飲んでしまったという。そこで本来、新入社員は入寮しての出勤となるが、岡本社長は彼女を県内のアルコール依存の治療センターに入所させた。3ヵ月超の治療を受けた後、改めてセリエの社員寮に入ると、彼女は仕事も頑張った。

それでも、やはり治っていなかった。夜になると飲み出し、あちこちで自殺まがいのことを繰り返しては騒ぎを起こして交番の厄介に…。そのたびに身元引受人である岡本社長、スタッフ、鳶の先輩たちが警察にまで引き取りに出かけては何度も頭を下げた。

それが週に何回も起きる。無銭飲食も犯してしまい、ついに岡本社長は本人と話すと「まだ無理だよね。まず治療だね」と、セリエをひとまず退職させ、再度治療センターへ送ることにした。ところが、その時はベッドが空いていなかった。

その日も夜になると飲んだ彼女は、泥酔してカッターナイフを所持、カラオケボックスで強盗未遂を犯すと再び収監された。

この経験から依存症者には仕事よりもまず治療を最優先すべきということを痛感させたというが、女性社員と向かい合った日々に後悔はない。岡本社長のスタンスは「その人の過去も含めて全てを受け入れる」ことで、とにかくやるべきことをやる。その先にある結果は現実として受け止めるしかない、と。

セリエがやるべきこと――そのひとつが、仕事だけではなく「仕事以前」の課題にも取り組むことだ。

少年たちをただ採用するだけではない。食事つきの寮(シェアハウス)を用意し、社長自らが身元引受人となるなど社会的に生きるための必要条件を提供しているが、それだけでは足りない。中には社会常識が欠落している少年も見受けられるからだ。

「体が健康でも社会常識がなかったり、意志が弱い子もいるんです。朝起きられない、部屋の片付けができない、同僚や現場の人たちに挨拶ができない、箸が持てないなどはザラです。私たちはそこから教えなくてはならない。

鳶の現場は朝8時からなので、早朝5時に起床する日もあります。そういう時に寮母さんが起こしに行くと『てめえ、殺すぞ!』と逆に怒鳴られたこともありますが(笑)、その子を起こして最寄り駅まで送るなど生活のサポートもやらなくてはなりません」

また、肝心の現場は高所での作業となるため、安全な作業の仕方を先輩社員が徹底して教える。人によっては倍の時間がかかる社員もいるが、決して怒鳴らない。何度も同じことをゆっくりと教える。

取材中、岡本社長がひとりの社員を指さした。

「ほら、あそこにいる社員。彼はそうやってもう9年も働いています。この取り組みをしていて一番大変なのは一緒に現場へ行く先輩たちなんですけどね」

ひとりでもいいから可能性のある未来に…

長岡市にある新潟少年学院を訪れた岡本社長。全国各地の刑務所や少年院を訪れて職業講話を行なう地道な活動で、受刑者たちの“社会参画の道”を切り拓いている(セリエ提供)

昨年1年間でセリエには17人が入社したが、今も就労中なのは5人。そのひとりが前編記事に登場した林陽太(20歳、仮名)さんだ。少数でも、まっとうな道を歩き始める若者たちがいる。この事実が岡本社長を走らせている。そして、もうひとつのやるべきことは「セリエからいなくなる少年たちにも可能性を提示する」ことだ。

もちろん、できれば働き続けてほしい。それは社長としての本音だが、多くの少年がセリエを去る現実。それはニセの高給話で転職するだけではなく「鳶職が合わない」少年もいるからだ。

13年の活動を通じて、岡本社長が認識した根本的な問題がある。出所後、いざ就労しても厳しい現実に「やっぱり俺はダメだ」と自己否定する子が多いことだ。ひと言でいえば「打たれ弱い」。この傾向はどう形成されたのか?

「過去70人を受け入れてわかったことがあります。それは、彼らの多くの生まれ育った家庭環境がまともではなかったということです。児童虐待を受けた子もいれば、幼少期から我慢ばかり強いられた子もいる。自分が受けてきたことを、少年になった時に他人に還す。たまたまそういう家庭環境に生まれ落ちたことで悪循環に陥っていたんです」

「だから、私は手に職をつけさせて、この悪い流れを断ち切る」と岡本社長は語気を強めた。それは鳶職に限定しない。

少年らの採用を始めた当初、鳶職が長続きしない少年らを岡本社長は怒鳴っていた。だが途中から考えを変えた。

「考えてみれば、10代の子たちにずっと鳶をやれと言えるはずがなかった。合う子も合わない子もいる。ひとりひとりにそれぞれの人生があるから、むしろここで積んだ社会経験を活かして自分の歩みたい道に飛び込んでいってほしい。そして、これまでは私ひとりが頑張っていたことも、私以外の大人の目が加われば、セリエを辞めてもまっとうな道の選択肢を用意できるはず。そう思ってからは楽になれました」

この思いを具現化するために実行に移したのが、2016年に設立したNPO法人「なんとかなる」の取り組みだ。少年たちに幅広い職業の選択肢を持ってもらうことが目的のNPOで、その機関紙第一号にはこう書かれている(抜粋)。

「鳶職だけにとらわれず、さまざまな職業の可能性を模索しながら、個々にあった仕事を探し、同時に生活面の支援も行うとNPO法人を設立いたしました。(中略)鳶職が合わなくても寮に住んだまま、別の職場を体験できる仕組みづくりを進め、介護施設・不動産会社など30社に受け入れてもらう体制づくりを横須賀市と整えています」

具体的には、食事付きの寮を用意して、パソコン、読み書き等の基礎学力の向上、過去の経験で自身が負った「傷」のメンタルケア、「あって当たり前の困難」を乗り越えられる捉え方を学ぶ講座…などを開催すると同時に、3日から半年の間で本人が納得するまで協力企業での職場体験を繰り返すというものだ。岡本社長だけではなく、元教師、臨床心理士、少年院経験者なども関わることできめ細かい社会参画への道を用意する。

そして、これまで3人がこの制度を受けて巣立っていった。

岡本社長の本業は鳶職だが、ここ数年間はネクタイを締めて全国の少年院や刑務所で講話することが増えてきた。12年6月から17年末までに行なった職業講話は延べ104回。

「私、本当はヘルメットを被った現場が大好きなんですが、講話を請われれば喜んで伺います。だって、私の話でひとりでもいいから可能性のある未来に飛び立ってくれる人が出てくれば、こんな嬉しいことはないですから」

(取材・文/樫田秀樹)