フランス人の父との思い出を語った宮澤ミシェル氏

サッカー解説者・宮澤ミシェル氏の連載コラム『フットボールグルマン』第37回。

現役時代、Jリーグ創設期にジェフ市原(現在のジェフ千葉)でプレー、日本代表に招集されるなど、日本サッカーの発展をつぶさに見てきた生き証人がこれまで経験したこと、現地で取材してきたインパクト大のエピソードを踏まえ、独自視点でサッカーシーンを語る――。

今回のテーマは、フランス人の父から教わった、プロサッカー選手として役に立った様々な考え方について。アコーディオン奏者であるフランス人アーティストの父のものの見方や行動はプレーにどのように影響を与えていたのか?

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Jリーグが開幕して少しずつ春の気候になり、スポーツシーズンが到来。野球もオープン戦まっさかりだけど、実は、私は子どもの頃はサッカーをやりながら少年野球チームにも入っていたんだ。当時、家で素振りをしていると、フランス人の父が「棒っ切れを振り回して何が面白いんだ?」って質問をしてきたことをよく覚えているよ。フランス人だから、息子にはもっとサッカーをやらせたかったんだろう。

父はアコーディオン奏者で、1956年頃に来日して日本人の母と結婚。各地でコンサートをしていたんだけど、アーティストとして父として、とても面白い人だった。普段の服装はカジュアルにセーターを着ているくらいなのに、家にお客さんが来ると、演奏でステージに上がる時と同じようにメイクをしてばっちりキメてね。人前に出る仕事だからそれが普通だったのかな。朝からワインを飲んで、文鳥やインコや雑種から血統書付きのまで飼っている動物を可愛がる人だった。

子どもの頃、父から「楽器は何がやりたい?」と聞かれたことがあった。「ピアノ」と答えたら、父はもう次の日にはピアノを買ってきていた。しかも、箱型のアップライトピアノじゃなくて、グランドピアノが応接間にドーン! そこから猛特訓開始だ。マンツーマンで1年くらいやったけど、あまりに厳しいからピアノ教室へ入って父から逃げたぐらいだ。その後、ピアノはフェードアウトしてサッカーと野球を始めたというわけ。

ちなみに、ピアノと同じように父は私の筋力アップに対しても厳しかった。小学1年の頃、父がボディビルディングの雑誌を私に見せてきた。そして「どうだ、こんな体にならないか」と。私も子供心に「仮面ライダーみたいだ!」と感動して、毎朝、腕立て伏せや腹筋を始めた。

そうすると、父は毎朝「元気か?」と言いながら私の腹筋をチェックするのが日課になって、6つに割れているのを見て嬉しそうにしていたよ。自分は体重100kg超でとても恰幅がよくて、腹筋なんてないのに(笑)。そのことをツッコむと「鍛え抜くと腹筋はひとつになるんだ」とジョークでかわされる。

そうやって筋トレを続けて、ある日、私が熱を出して病院に行ったら「筋トレのやりすぎで疲労が溜まり過ぎて心臓に負担がかかっている」と診断された。小学生が、だ。成長期にさすがにそれはまずいということで筋トレはやめてしまったけど、心なしかあの時の父は寂しそうだったな。

でも、その後に私が小学校でサッカーを始めた時もとても嬉しそうだった。父は戦時中に受けた銃弾が残っていて足が悪かったから、サッカーをやらなかったけれど、見るのは大好きでね。ミシェル・プラティニがサンテティエンヌでプレーしていた頃のことや、フランスのサッカーのことを事細かに知っていたよ。

そんな父だから、私のサッカーの試合がある時は仕事そっちのけで観戦に来ていた。母からは「あなたの試合があるとパパが仕事しないからスケジュールを教えないように」と何度も釘を刺されて(笑)。そういう母も、父が試合を観に来ると一緒についてきていたけどね。

父は私が高校生になっても試合を観に来ていた。今では当たり前のことだけど、当時は親が子どもの試合を観に来ることなんて少なかったから、ちょっと恥ずかしくてイヤだったけど、やっぱり愛情を感じたよね。

日本の学校のことやサッカー部についていろいろと聞いてきた

家では日本の学校のことやサッカー部についていろいろと聞いてきて「なんでサッカーをするのに髪型が丸刈りなんだ? 軍隊に入るわけでもないのに」、「なんで監督はあんなに怒鳴るんだ? 論理的に説明すればいいだろう」、「制服の詰め襟は首が苦しくないのか? 苦しいならやめればいい」…すべてを疑問視するような人だったから、当時は「うるさいなぁ」と思ったけれど、質問されるたびにひとつひとつの理由を考えさせられたよ。

そういう「自分の頭で考える習慣」がサッカー選手としてのプレーに役立ったと思っている。監督やコーチに言われたことを言われた通りにプレーするだけなのか、教わったことを理解した上で、さらに自分で考えるのか。この差は大きい。だから、今でも父には感謝しているよ。

そんな父は日本食がちょっと苦手で、家にいる時の食事はいつもフランスの家庭料理。でも、父がコンサートツアーなどの仕事で留守の時は日本の家庭料理が食卓に並んだ。父がほとんど口にしなかったお刺し身やお寿司を食べられることもあったから嬉しかったな。

フランス人らしいというべきか、仕事が終わるとすぐ家に帰ってきて、家族でご飯を食べて、お酒を飲む人だった。あれは食べられない、これは食べたくない。自己主張がはっきりして、わがままな父を見ていたせいか、私は逆に嫌いな食べ物はほとんどないけれどね。つまり、反面教師でもあった。

ただ、サッカーはわがままを言わない「いい人」でいたら、あっという間に相手FWに点を取られてしまうから、グラウンドではフランス人の父を見習って自己主張をはっきりして。父ほどではないにしても、わがままを言っていたよ(笑)。

まぁ、世界中のプロサッカー選手は超がつくわがままな人が結構いるけれど、私がこれまで一緒にプレーしたり対戦した選手に父ほどのタイプはいなかったから、選手として対応がうまくできたし、そこも感謝しなくちゃいけないかもね(笑)。

父が亡くなったのは、もう29年前の1989年。日本で暮らしながら、最後までフランス流を貫いた。

82年W杯スペイン大会の準決勝で、フランスが西ドイツ(当時)からリードを奪った時は、夜中に私の大学の寮まで「3−1だぞ、TV観ているか」と電話してきた。結局、逆転負けしたんだけど、そうしたらなんの音沙汰もなし。後日、母に聞いたら、相当落ち込んでいたらしい。

フランスサッカーを愛していた父には、98年フランス大会でのフランス代表のW杯初優勝を見てほしかったとも思う。父が亡くなってからもW杯でフランス代表の試合を観るたびに「生きていたら大会前は意気揚々と優勝を宣言して、できないと大会後は肩を落とすのだろうな」と思う。

私が今年のW杯で日本代表の次に注目しているのは、やはりフランス代表。日本代表がいい結果を出して私が喜ぶのと同じくらい、フランス代表も活躍して父を喜ばせてほしい。

■宮澤ミシェル 1963年 7月14日生まれ 千葉県出身 身長177cm フランス人の父を持つハーフ。86年にフジタ工業サッカー部に加入し、1992年に移籍したジェフ市原で4年間プレー。93年に日本国籍を取得し、翌年には日本代表に選出。現役引退後は、サッカー解説を始め、情報番組やラジオ番組などで幅広く活躍。出演番組はWOWOW『リーガ・エスパニョーラ』『リーガダイジェスト!』NHK『Jリーグ中継』『Jリーグタイム』など。