震災のどん底からV字回復したナプロアースの廃車リサイクル工場

ニッポンには人を大切にする“ホワイト企業”がまだまだ残っている…。

連載『こんな会社で働きたい!』第20回は、福島県伊達市で自動車リサイクル業を営む株式会社ナプロアースだ。

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廃車を次々と運ぶフォークリフトが走り回っている。廃車から取り出されたリサイクル部品は丁寧に洗浄され、製品棚にきれいに陳列されている。忙しい中でも、目が合えばどの社員も「こんにちは!」と挨拶をし、作業中でもイヤがらずに質問に丁寧に答えてくれた。明るい会社だ。

だが、ナプロアースの池本篤社長は自身を「ひどい社長だった」と振り返る。社員を罵倒すれば手を出したこともある。売り上げという数字が全てで、儲(もう)けにならないと判断した協力会社とは迷いなく取引きを絶った。

それがガラリと変わったきっかけは、2011年3月11日の東日本大震災と続く原発事故だった。

日頃、叱責を浴びせていた社員が津波で一時期行方不明になる。このまま亡くなってしまったら、なんとかわいそうな扱いをしていたのかという後悔。そして被害者となった自分たちを、切り捨てたはずの協力会社が助けてくれた。そこで覚えた恥ずかしさと尊敬。さらに、残ってくれた社員がいたことへの感謝。

社屋は潰れ、社員の多くは県外避難する中でも、池本社長は「福島から逃げない」と決めた。社員や協力会社を尊重する会社を作ろうと決めた。そこから社員の8割が新人という再スタートでありながら、ナプロアースは震災後、1年で過去最高収益を記録したのだ。

「もう私が怒鳴る必要はない。ただ社員の自主性をいかに高めるかを考え、実践しただけなんです」

元々、池本社長はクリスチャンの両親の影響を受け、幼少時から牧師になると信じて育った。2年生で高校中退したのも、牧師に学歴は不要で布教活動に力を注ぐと思ったからだ。

だが21歳の時、「ある戒律」を破り教会を破門された。自分を支えていた唯一の人生設計が崩れ去る。以後、人生の底辺を何度も歩いた。

中退後、福島県内の部品製造業や品質管理業などの仕事を渡り歩くが、単純作業を繰り返す将来性のなさに退職したり、リストラされたりで長くは続かなかった。

その後、東京で働いた不動産会社はブラック企業。電話で不動産の営業をかける仕事で、成績の悪い社員はアポが取れるまで受話器と手を紐で結ばれていた。社会体験の浅い池本さんは「これが当たり前だ」と思い込み、月100万円以上を稼ぐほどの成績を上げたが、1千万円の不動産をその3倍で売るなどの販売手法に良心が痛んだ。

「このままではダメになる。辞めよう」と決めたが、辞意を知った上司は池本さんを殴り、「辞めさせない」と脅したという。池本さんは夜逃げをして福島県に戻る。

そこでは車のリサイクル部品会社に就職した。やはり優秀な営業成績を収め、2本の受話器を右耳と左耳に当てながら仕事をこなす猛烈な働きで年に1億円以上を売り上げ、最年少で課長に抜擢される。

この時の自分を本人は「数字が全てだ」と傲慢(ごうまん)になっていたと振り返る。同僚や先輩が忙しい時も手を貸すこともなかった。だが、ここも上司たちの一斉辞職で会社が立ち行かなくなり、またも職を失った。

自殺も頭によぎった二度のピンチ

ナプロアースの池本篤社長

どこまで自分は流されるのか。池本さんは前職の知識を活かし、中古アルミホイールの販売業を手掛けようと決意。だが開業資金がない。この時、ドラマさながらの支援の手が次々と差し伸べられる。

とりあえず必要なのは1千万円。このうち、300万円を行きつけのバーのママが貸してくれた。いつも期日通りにツケを払っていたことで信頼してくれたのだ。そのバーの客までやはり300万円を出してくれたことで数人から1千万円を調達できた。

だが事務所でもいい物件はあったもののお敷金や礼金を払う余裕がない。大家のYさんに恐る恐る話すと「敷金も礼金も収益が出てからでいいよ」と言ってくれた。家賃35万円も同条件。さらに、アルミホイールの盗難防止にフェンスがないと相談すると150万円をはたいてフェンスを設置してくれた。

さらに、先に集めた1千万円が初期投資であっという間になくなると、Yさんは「月1万円の返済でいい」と300万円を貸してくれたという。…それだけではない。

会社業務に欠かせないG4ファクスという高性能ファクス機がある。当時は400万円もした。会社の立ち上げに必要としたが、リースの審査に通らなかった。ところが、窮状を知った出入りのリース業者社員が「では、私が保証人になります」と会社で審査に通してくれたのだ。

タイヤチェンジャー、バランサー、フォークリフトなどにも600万円近くかかる。これも出入りの業者が「ある時払いで」と機械を持ってきてくれた。

こうして1996年1月。福島県浪江町でナプロアースの前身となる株式会社ナプロフクシマが創立する。池本さんと高校の同級生のふたりだけのスタートだった。

その後、池本社長が「ここまでか」と追い詰められたピンチは2回ある。一度目は自殺寸前までいった。創立から1、2年もすれば社員も5、6人に増えていったが、月10万円程度の給料しか払えない低調な経営が続いていた。

そういう中、親戚の連帯保証人になったことで300万円の借金を負った。貸金業者からは昼夜を問わず催促の電話が入り、数年前に多大な借金をしたばかりなので身内にも知人にも頼れない。精神的に追い詰められ、会社の裏を走る線路に飛び込もうと決めた。

「あの頃の私の精神状態はまともではなかった。謝罪の証として自殺すれば貸金業者も許してくれると思ったんです」(池本社長)

決行の日…。だが、その日に限り、なぜかひとりの社員が帰宅せずに「僕が鍵を閉めます」と帰宅を促した。ケジメとして事務所の鍵を閉めてから死のうと思っていた池本社長は1日延ばし、では最期の酒をと以前、300万円を貸してくれたママがいるバーに出かけた。

酔った池本社長を不審に思ったママに問い詰められ、「借金が…」と打ち明けた途端、怒声が飛んだ。

「馬鹿野郎! 自分のケツも拭けないのに人の保証人をやるなんて!」。そしてこう言ったのだ。「明日来なさい!」

翌日、果たしてママはまたも300万円を貸してくれたという。

会社も自分も幸せになれると信じていた

ナプロアースでは、社員ひとりひとりの半生を描く漫画冊子を順次制作している。写真は池本社長が自殺を決めた当時のワンシーン

なぜこれほどまでに人の手が差し伸べられるのか。ナプロアースを取材した2月下旬の数週間前、池本社長は20数年ぶりに大家のYさんと再会したそうだ。そこで改めて尋ねたという。

「なぜ20代後半の初対面の私にあそこまでしてくださったのですか?」。

Yさんはこう返した。「あの時の池本君の顔を見たら大丈夫だなと思った」

池本社長は「過去の自分はどうしようもない」と語るが、今回の取材を通じ、その話しぶりからもそうだが「反省すべき点があるにせよ、それ以上に人を惹きつける何かを持っている」と感じた。

実際、話を聞いた相浦光二(さうら・こうじ)副社長も「確かに人を惹き付ける能力に長(た)けています」と、こんな話を明かしてくれた。

相浦副社長は20歳の頃、自動車リサイクル部品会社に就職。そこで5歳年上の池本社長と出会った。おごってくれたり遊びに連れて行ってくれたりとかわいがってもらったという。

その後、退職するが、池本社長とは出社前にサーフィンをする付き合いを続けていた。そして98年、25歳の時、声をかけてもらい、創業3年目のナプロアースに就職する。

だが当時は時給700円の給与払いで、自宅を購入していた相浦さんはWワークを余儀なくされた。すると無理がたたり、半年後には頭痛、めまい、食欲不振に見舞われ、「お金だけでなく体力的にも精神的にも限界です。夜勤の仕事のほうが収入も安定しているので辞めさせてください」と訴えた。

すると池本社長は相浦さんの腕を取り、涙ながらに断言したという。

今すぐはどうにもできない。でも、会社が大きくなれば、必ずおまえを幸せにするから!

この時、相浦さんは体が震える感動を覚え涙したそうだ。

「そういう風に本気でぶつかってくれて、本気で自分を幸せにするなんていう人とは出会ったことがなかった。あれはまさしく私の人生の転換期でした」

この会社だけで生きていくと決めた相浦さんは以後、朝5時に誰よりも早く出社し、誰よりも売り、誰よりも働くことをモットーに生きた。

「そうすれば、会社も自分も幸せになれると信じていました」

社員が辞めると心が寂しくなる

相浦光二副社長(写真はナプロアース提供)

そういった努力が実る時がくる。きっかけは、05年に施行された「自動車リサイクル法」だった。自動車業界ではリサイクル販売はそこそこの収益を上げていたが、部品を取り除いた後の車を分解して鉄やアルミニウムに戻す「廃車リサイクル」は利ザヤが少なく敬遠されていた。

だが、法律ができたことで、廃車を扱っていた少数の会社のひとつであったナプロフクシマは2億の年商が一気に8億になるまでに成長。池本社長も福島県の長者番付に載るほどで、重機を購入し、福島各地に工場や店舗を構え、社員の士気も上がり人数も増えた。

その一方で、会社の雰囲気はどの社員も自身の仕事に熱心な余り、周囲への気配りが「全くない」状態だったという。例えば、電話営業が主な取引きだったとはいえ、たまの来客には挨拶どころか「何しに来た?」との視線を送り、丁寧とは程遠い接客をし、他の社員から呼ばれても返事をしないなどは日常茶飯事。

この状況を見かねた池本社長が声を荒げ、社員と罵声を交すのも日常茶飯だったが、自身も「数字が全てだ」との思いから、常に売上増を社員に強いるトップダウン経営を展開。「やってられない!」と辞職する社員に対しては「辞めるヤツは辞めろ。ついてこれないのが弱いんだ」との尊大な態度になっていた。

だが池本社長自身、そんな言動を続けるうち、徐々に「会社に来る喜び」を失っていた。

「社員がひとり辞めるでしょ。すると心が寂しくなるんです。社員が30人規模になったある朝、突然『会社に行きたくない』とうつ状態に陥りました。いつの間にか楽しい会社じゃなくなっていたんです」

そして、社員が40人になった頃、このいい状況も悪い状況もすべて洗い流す事態が発生する――それが2011年3月11日だ。

福島県を東日本大震災と津波が襲い、会社の施設はすべて倒壊。さらに原発事故が社員を散り散りにさせた。だが、これが池本社長の価値観を変えることになる。

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(取材・文・撮影/樫田秀樹)