事務所の応接室、移動の車内、時には行きつけのバーで…小泉純一郎は1年にわたって自らの政治遍歴を語った

「変人総理」と呼ばれた元首相・小泉純一郎氏が76歳にして初めて自らの政治遍歴を振り返って語った『決断のとき――トモダチ作戦と涙の基金』(集英社刊)。2000年代を彩った大物政治家による「聖域なき回想録」ということで注目を集め、発売から10日足らずで重版が決まるほどの反響となっている。

取材・構成を担当したノンフィクションライターの常井(とこい)健一氏はこう語る。

「2016年の末に本人から話があり、その後、1年をかけてずっと取材を続けました。サプライズ人事のポイント、北朝鮮電撃訪問の際の“秘密交渉”、靖国参拝を巡って中国側が水面下で伝えてきたことなど、初めて明かされたエピソードが満載の1冊です。

意外なところでは、2005年8月の郵政解散の記者会見の前に日本酒を二合飲んでいたなんて話にも触れています」

あの会見は“酒気帯び”だった!?

「そのようです。本人は緊張がほぐれてかえってよかったと言っていました(笑)。その流れで、小泉さんが中曽根(康弘)さんへ引退勧告をした際のエピソード(2003年)も詳しく聞けました。中曽根事務所でふたりきりになった時に、中曽根さんがいきなり“あること”をしたと言うんですね。

後に、中曽根さんは記者会見で“一種の政治テロだ”と小泉さんを批判しましたが、その前に起きていたことがわかったのは非常に興味深いことでした」

中曽根元総理と小泉総理(当時)。ふたりの超大物は密室でどんなやり取りをしていたのか? 先の“酒気帯び”会見の裏側など、赤裸々に明かされる生々しいエピソードを『決断のとき』からピックアップ、抜粋して紹介しよう(以下、小泉氏が綴った文章)。

■酒は二合まで

参議院の採決は2005年8月8日月曜日にありました。森さんがやってきたのが6日土曜日だから、あの「干からびたチーズ」の2日後です。

午後、参議院の本会議場で否決されて、私は夜8時半から記者会見を開いて衆議院の解散を宣言しました。ガリレオ・ガリレイの名言「それでも地球は動く」を借りて、「それでも郵政民営化は必要だ」と言いました。

あの日、夕方から奥田碩さん(トヨタ自動車会長、当時)ら経団連の幹部10人ぐらいと食事する予定が入っていました。忙しい人たちを相手に何か月も前から決めていたのに、キャンセルしたら申し訳ない。「夜に記者会見があるから、官邸で弁当を用意する」と言われましたが、官邸で弁当食べるくらいなら、みんなと食っても同じだろう。だから「弁当は要らない」と言って、ニューオータニに行きました。

目の前には、うまそうなつまみがいっぱいあります。これは酒がないと寂しいなと思いました。私は多少飲んでも顔に出ません。2合までなら赤くならない。平気な程度は自分でよくわかっています。記者会見は8時過ぎ。いま7時過ぎだからゆっくり飲める。迷わず日本酒を頼みました。みんなに「もうやめたほうがいいよ」と言われながら、30分ほど同席して、2合飲みました。

いまだから言える話です。あの頃、「酒気帯び会見」なんてばれたら、相当騒がれたでしょう。あの記者会見はメモもほとんど見ないで酒を飲んで臨んだから、結果的に緊張感がほぐれて良かったと思っています。

中曽根親子との因縁

「郵政解散」時の記者会見。確かに、顔が赤らんでいるように見えなくもない…?(写真/首相官邸ホームページ)

■中曽根親子との因縁

一方、亀井静香さんは万歳していました。

衆議院では5票という僅差で可決しました。参議院では中曽根グループ(参議院亀井派)が反対している。その結果、参議院では自民党は反対22人、棄権8人を出し、17票差で否決されました。小泉が衆議院を解散しても、参議院議員の人数は変わらない。郵政民営化法案は永遠に通らないから、抵抗勢力も安泰だと誰もが思っていたのでしょう。

森さんが公邸にやってきた前日(8月5日)に参議院議員の中曽根弘文さん(参議院亀井派会長)が「法案に反対する」と公言しました。中曽根康弘元総理の息子さんです。亀井派、つまり旧中曽根派の造反が決定打となりました。私もそれを知って、「参議院では通らない」と覚悟しました。

私は弘文さんの父、中曽根康弘元総理に2003年10月の衆院選の公示直前に引退勧告しました。あれには、中曽根さんの支援者は怒ったでしょう。私が引退勧告しなければ、尾崎行雄が持つ当選25回の記録を破っていたかもしれなかった。当時、中曽根さんは当選20回。お元気ですからあと10年はできたでしょう。

中選挙区時代の旧群馬3区は定数4のところに、中曽根さんと小渕さんと福田康夫さんが争っていました。自民党の大物どうしがしのぎを削るその構図は「上州戦争」と呼ばれて、選挙のたびに全国的な注目を浴びました。それが、小選挙区制になってふたつの選挙区(群馬4区・5区)に分かれたとき、3人ともみんな譲ろうとしませんでした。小選挙区制でのはじめての選挙になろうとしたとき、総裁は橋本さんだった。だから橋本派の小渕さんは新5区に決まって、いち早く小選挙区に残ることが確定しました。

一方、残る新4区は、福田か中曽根かで、最後まで決着がつかなかった。福田さんは当選2回で、まだ若いから総理になる目がある。そこで、橋本総裁、加藤紘一幹事長は、中曽根さんに小選挙区から降りてもらうため、比例代表(北関東ブロック)の「終身一位」にしたという経緯がありました。

われわれはあの頃、清和会の仲間である福田さんの公認が決まらないなら、無所属で出して派閥が一丸となって全力で支えようという覚悟をしていました。もし中曽根さんが小選挙区で自民党公認をもらうことになれば、福田さんを比例区に回さない。無所属で出てもらう。私は「自民党から除名されてもいいから絶対応援に行く」と公言していました。

中曽根さんと福田さんが戦ったら、おもしろかったでしょう。福田さんが勝ったと思います。執行部はそれに気づいたから、中曽根さんを比例区、福田さんを小選挙区に決めた。ようやく調整がつき、小選挙区制で初の解散総選挙を行う準備が整いました。

「政治テロだ」怒りの会見

■カセットが動く

だから、私の時代ではなく、中曽根さんがもう少し若いときに引退を促すべきタイミングがあったのです。中曽根さんもまさか、あの小泉が引退勧告なんかするとは思っていなかったでしょう。中曽根さんは終身一位だから現職でいられるのに、私が尾崎行雄の記録を破る可能性を絶つわけです。あのときは、中曽根さんになにを言ってもダメでした。誰が行っても、跳ね返されました。もう誰も行きたがらない。当時幹事長だった安倍晋三さんが行っても断られました。

結局は、総理が行くしかないとなり、私が説得することになりました。できれば、私が行くときには中曽根さんがすでに引退を決意していて、私は「勇退していただいて、ありがとうございます」の一言だけ、言いに行くのがいいと思っていました。

あの頃、衆議院比例代表候補の73歳定年制の関係で、政界引退をお願いした総理経験者は中曽根さんと、宮沢喜一さんがおられました。中曽根さんは85歳、宮沢さんは84歳。ひとりにだけ会いに行って、もうひとりに会いに行かないわけにはいきません。あのときほど気が重かったことはありません。

たしか、「73歳」という規定は森さんの時代に決まりました。比例単独で選挙しないで議員になれるのは良くない。長老議員が高齢を理由に小選挙区で出るのを避けるようになって、ますます引退しなくなる。そこで、党の方針としてもともと決めてあった規定を、私が総理のときに厳格に適用しようと決めました。

2003年10月23日、朝九時過ぎ。砂防会館にある中曽根さんの個人事務所に向かいました。もう、江藤隆美さんや亀井さんら中曽根さんの派閥の人たちが入り口でにこやかに迎えるわけです。まさか、勇退勧告するとは思っていません。マスコミもたくさん来ていました。頭撮りだけにしてもらって、「もういいだろう」と言って、全員、外に出てもらいました。

中曽根事務所の一室でふたりきりになりました。秘書も同席していません。中曽根さんが机に「あるもの」を置いた。録音機です。中曽根さんは目の前で、バチーンと音を立ててボタンを押しました。

「それで、なんの用だね」

カセットが動く。私の話が録音される。将来歴史に残る。いい加減なことは言えないと思いました。

私は「総理、辞めてください。議員でなくても立派に活動できるじゃないですか。政治家としての影響力は肩書きがなくなっても残ると思います。ぜひとも引退を」ということを伝えました。中曽根さんは「君が決めることじゃないよ。橋本さんの時代に決まっていることだ」「断じて了承できない」と怒られてしまいました。私はもう、「お願いします、お願いします」とひたすら頼むしかありません。

その後、宮沢さんのところに言いに行きました。宮沢さんは「総理・総裁に恥をかかせるわけにはいかない。それでけっこうです」と淡々と語られました。

中曽根さんは記者会見で怒りに震えながら、「いきなり爆弾を投げるようなやりかたは、一種の政治テロだ」と批判されておられました。私も、あのときほど気が重くなったことはありません。そういうことがあったので、息子の弘文さんが郵政民営化に反対すると決めたとき、「仇を取られたな」と思いました。

* * *

このように、郵政民営化法案が参議院で否決され郵政解散をすることになった背景には、その2年前、ふたりの総理の間で起きた“確執”があった。前出の常井氏は語る。

「小泉氏がこれほど饒舌に政治家時代を語るのは初めてのことで、本書では他にもブッシュ大統領との“本当の仲”や、野党から強く批判されながらもイラク戦争を支持した理由などを明かしています。

次々に飛び出す裏話を前に、私は“小泉節”の語りをそのまま文章にすることに徹底してこだわりました。ぜひ多くの方に触れていただきたいですね」

行間から小泉純一郎のオーラが立ち上がってくる本書だが、その他のエピソードも気になる!

(取材・構成/常井健一)

●『決断のとき――トモダチ作戦と涙の基金』(集英社新書 800円+税)小泉純一郎は政界引退後、原発ゼロを強く訴え、東日本大震災の救援活動後に原因不明の病に伏した元アメリカ兵のために「トモダチ作戦被害者支援基金」を設立した。政治の表舞台から身を引いたはずなのに、なぜそんな活動を続けるのか──。「変人」と呼ばれた元総理が「決断のとき」に貫いてきたものをとことん自問自答。喜寿を前にして世に問う、初の回想録。