前列が運営母体NPO代表の村上さん、後列左がスタッフの金野さん、右が平田さん。

人々が家を失い、携帯の電波も届かず、情報が行き渡らない。

そんな被災地で、生きるために必要な情報を伝えるための「臨時災害FM局」が各地に誕生した。あれから7年、最後に残った岩手県陸前高田市の小さなラジオ局もついに閉局を迎える。

その思いを知るべく、自身もかつて災害支援放送局を運営した経験のある近兼拓史(ちかかね・たくし)氏が現地を訪ねた。

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2011年3月11日の東日本大震災後、福島、岩手、宮城、茨城の4県に30局以上の臨時災害放送局(臨災FM局)が開局。被災者にきめ細かい生活情報や支援情報を送り続けたが、最後まで活動を続けていた3局も、この3月末までについに閉局することになった。そのひとつ、「陸前高田(りくぜんたかた)災害FM」にメールでコンタクトを取ったのは2月末日のことだ。

被災地の取材はデリケートだ。興味本位の取材であれば断りたい気持ちは痛いほどわかる。僕自身も被災経験があり、同様に災害ラジオ局の活動を行なっていたこと、皆さんの今の気持ちや状況を伝えたいということを記し、待つこと2日。取材を受けてもらえるとの返事が届いた。

■ナビにない未舗装路は進むたびに行き止まり

今から23年前、阪神・淡路大震災が発生し、震源のすぐ近くの兵庫県神戸市長田区にあった僕の自宅は全壊した。

メディアではしばしば専門家が「タンスやテレビに転倒防止の固定器具を!」などと声を上げるが、家ごと倒れたり流されたりするとき、そんなものは役に立たない。まず生き残る、次に生き延びる。それから少しずつ人間らしい暮らしに戻っていく。それをやり遂げるには、継続的な情報と周囲からの愛情が必要だ。だから僕は、なけなしの私財を投じて兵庫県西宮市に災害支援放送のラジオ局「FMラルース」を作った。

電話も通じず、知った人もいない。ただひとり取り残されたとき、信頼できる情報を得られるのがラジオだ。スマホの動画視聴はあっという間にバッテリーを消耗してしまう。ネットが通じなくとも、ラジオは聴ける。やはり今でも、有事に最も有効な情報伝達手段はラジオだと僕は思う。

陸前高田災害FMは、2年前から国の被災者支援総合交付金(約1000万円)を受けて事業費を賄ってきた。しかし、「現在の放送内容は災害放送といえない」と突如、今年度限りでの交付金打ち切りを宣告された。恒常的な地域放送局であるコミュニティFM局へ移行するという選択肢も考えられたが、運営母体とスポンサーのメドが立たず、閉局という苦渋の選択になったのだという。

現地入りは3月2日金曜日。東北新幹線で一ノ関(いちのせき)まで行き、JR 大船渡(おおふなと)線に乗り換え、2両編成のワンマン運転車両で気仙沼(けせんぬま)へ。その先はBRT(バス高速輸送システム)区間だ。一ノ関から盛(さかり)までを結ぶ大船渡線は、津波で駅舎も線路もズタズタにされ、現在も一部区間はBRTの運行が行なわれている。

すでに日は暮れ、周囲には漆黒の闇が広がる。以前はたくさんの人家に明かりが灯(とも)っていたはずと思うと胸が締めつけられる。やがて、ボンヤリとライトアップの明かりが見えてきた。まるで慰霊塔のように空に向かって細い枝を伸ばした“奇跡の一本松”だ。

グーグルマップによると、宿泊先のホテルは陸前高田駅の少し先、「高田高校前」が近いらしい。ナビを信じて下車すると、そこは何もない工事現場のど真ん中だった。

盛り土された高台の上にホテルは見えるが、ナビに記された道は工事中で通行止め。ナビにない未舗装路があるが、城下町の袋小路のように進むたびに行き止まり。ここは日々、復興に向けて戦い続けている最前線なのだ。

体が芯まで冷えてきたので、覚悟を決め、土砂の側壁をよじ登る。ようやくホテルへ通じる仮設道路へたどり着き、チェックインを済ませた。

ノウハウも金もなかったけれど、今困っている人の力になりたくて、ひたすら放送を続けた

BRT下車からホテルにたどり着くまで30分ほど歩いただけで、靴はこのとおり泥まみれに。まだまだ復興は道半ばだと感じる。

目が覚めたのは朝の5時過ぎ。窓の外は見渡す限り、真っ平らな土の平原だ。山を丸ごと削り市街地を嵩(かさ)上げする大工事は、予定の60%まで完成しているというが、一度海水に浸かった大地にはいまだ雑草すら生えていない。

7年前のあの日、陸前高田市の衝撃的な映像を繰り返しニュースなどで見た人は多いと思う。押し寄せる津波にすべてがのみ込まれる様子を、なすすべもなく市庁舎の屋上で見る市職員の姿には、胸を引き裂かれる思いだった。

これは僕自身が感じたことだが、あまりにも大きな災害が起こり、目の前で家族や友人や知人が死んでしまうと、自分の無力さを恥じ、生き残ったことに罪悪感すら感じてしまう。何か自分にできることをやるしかない、そんな衝動に突き動かされる。僕の場合、それがラジオだった。

ノウハウも金もなかったけれど、今困っている人の力になりたくて、ひたすら放送を続けた。資金が枯渇し明日の食費がなくても、放送を止める勇気がなかった。家を売って運営資金を作り、嫁には愛想を尽かされ家族も失った。でも、最後のひとりが仮設住宅を出られる日まで、小さな力でも背中を支えたいと放送を続けた。震災直後、劫火(ごうか)の中から助けを呼ぶ声には何もできなかったけれど、今度こそは途中で手を離したくなかった。そんな思いは、災害放送に携わった人なら多かれ少なかれ持っていると思う。

家族や大切なものを失った喪失感やストレスは、緊急時の緊張が解け、平穏に向かう過程であふれ出す。仮設住宅の孤独死や、やり場のない怒りからの家庭内暴力。これらを和らげるには、血の通った人の言葉しかない。本当の復興に必要な時間は、少なくとも10年。まだまだラジオの役目は重要なはずなのに…。

そんなことを考えていると、「会って聞きたい」と思っていたことがどんどん「とても聞けない」に変わっていく。気がつけば時計は約束の20分前を指していた。

やはりラジオしか方法がないんじゃないか

■リンゴ畑の中にスタジオがあった頃も

プレハブの陸前高田市役所の外れに、陸前高田災害FMのスタジオはあった。小さなプレハブコンテナの引き戸を開けると、スタッフの金野由美子さんと平田宣恵さんが迎えてくれた。

「この局の母体はNPO(特定非営利活動法人)『陸前高田市支援連絡協議会(AidTAKATA)』です。私たちはその3代目のスタッフなんです」

6畳程度のスタッフルームと、同じく6畳ほどのスタジオ。たったそれだけの小さな放送局だが、自分には懐かしい空間だ。壁には各所から送られた感謝状と、同じ岩手県奥州(おうしゅう)市出身の大谷翔平のエンゼルス入団時の新聞写真が大きく飾られている。

スタジオは陸前高田市役所の敷地内に。

金野さんはこう語る。

「開局は2011年12月10日、ちょうど震災から9ヵ月経過した頃です。当時、大きな問題だったのは、日々必要な炊き出しや物資の配給情報が伝わらないということでした。市は広報紙をどんどん発行して情報発信していましたが、多くの人が住む家を失っていて、すべての人が広報紙を手に取ることはできない。街全体が津波にのまれたので、基地局もなくなって携帯電話も通じません。そうなると、やはりラジオしか方法がないんじゃないか、と…。

しかし、相当な人数の市職員が失われてしまいましたから、行政機能もパンク寸前。臨時災害FMをやりたくても、とても市ではできないという状態でした。そこで、うちの代表の村上(清氏)がNPO法人を立ち上げ、臨時災害FMを開設しようとなったようです。当時、私は市の嘱託職員をやっていて、そんな苦労を横で見ていたんですが、2年ほど前にスタッフの入れ替わりもあって、パソコンは得意でしたので、お役に立てるかなと思って局に勤めることになったんです。

7年の間に、スタジオは3度引っ越しています。リンゴ畑の真ん中にあったこともあるんですよ。皆が被災して住む場所もないようなときに、放送のためのスペースをいただくことは本当に大変でした」

◆後編⇒閉局が決定した3・11臨災FM局の7年間「最後のひとりが仮設住宅を出られるまで見守りたかった」

(取材・文・撮影/近兼拓史)