戦国武将や『スター・ウォーズ』の登場キャラクターまで墨絵パフォーマンスで描く武人画師として注目される、こうじょう雅之氏

こうじょう雅之』という名を知る人はまだ少ないかもしれない。

年齢は39歳、頭はスキンヘッド。元甲子園球児で理容師とトラックドライバーを生業にした時期もあった。現在は墨で戦国武将を描く『武人画師』を名乗る。

3月16日夕刻、京都・東山にある知恩院の国宝建造物・三門に設けられた特設ステージに、この男が仁王立ちしていた。両脇に和太鼓パフォーマンス集団『葉隠(はがくれ)』の奏者を従え、右手には筆、目の前には巨大な壁のごとき真っ白なキャンバス。

“ドンッ!”と和太鼓が打ち鳴らされた瞬間、エレキ三味線や篠笛の音が入り混じったジャズ調の音楽が響き、ゆったりと滑らかな筆づかいで墨の線が描き入れられていく。恰幅のいい身体を上下左右にくねらしながら、長い曲線、短い直線――時折、手首でピッと筆をはじかせ、墨の飛沫(しぶき)をキャンバスに飛ばしていく。

5分経っても作品の全容は見えない。音楽はテクノ調のアップテンポなリズムに変わり、和太鼓の打音が小刻みになっていくのに合わせ、筆の動きも速くなっていく。すると突如、兜に甲冑に日本刀…まるで戦場の霧の中から接近してくるかのように武人の姿がキャンバスに浮かび上がってきた。

開始から14分、太鼓奏者のバチの連打が最高速度に達すると、筆づかいはより早く、攻撃的になっていく。そのまま1分、ドンッと締めの一発が打ち鳴らされたのと同時に最後の筆が入り、太鼓奏者は昇天するかのように空を見上げた。直後、男は初めてこちら側を振り向き、静寂に包まれる観衆に向かって一礼。会場が拍手喝采で沸く中、『三門』の前には馬にまたがり疾駆する伊達正宗公の姿があった。

武人画師・こうじょう雅之が得意とするライブアート。2015年11月には坂本竜馬の墓前で竜馬を、16年8月には国宝・二条城『二の丸御殿』前で新撰組志士を描いた。その前月には格闘技団体『巌流島』の開幕イベントにおいて有明コロシアムで披露したこともある。

頭部から胴体、手足とバラバラに線を描き入れていく技法を採るため、見ている側はライブ中盤まで何が描かれるのかわからないハラハラ感を味わい、その後、突如として武人が浮かび上がる様も圧巻だった。「武人とは“覚悟”を持つ者。真っ白なところから、それぞれの“覚悟”を持った武人が生まれる瞬間を味わってほしい」と、こうじょうは話す。

その迫力ある武人画は今やエンタメ業界でも一目置かれ、昨年にはデビュー50周年を迎えた永井豪氏の『マジンガーZ』や『デビルマン』、同じく放送開始50年を記念して『ウルトラマン』シリーズの武人画を発表。12月には映画『スター・ウォーズ』の新作『最後のジェダイ』の公開を記念し、世界遺産の宇治・平等院でライアン・ジョンソン監督を前に武人画を披露。巨大な屏風にカイロ・レンとCー3POを描き、絶賛された。

こうじょう雅之とは一体、どういう男なのか?

元球児で甲子園…もグラブを持たない名物部員

元甲子園球児、理美容師、トラックドライバー…と、武人画師になるまでの異色の経歴を語る、こうじょう氏

出身は京都府宇治市。京都市・三条にギャラリーを持つ。今から22年前の夏には滋賀県の強豪・近江高の野球部員として甲子園球場にいた。小学1年から野球ひと筋、キャッチャーひと筋。高3の最後の夏に夢を叶えた。

が、彼のポジションは黒土の上、ではなくアルプス席。右手に持つのはメガホンではなく、1本のペン…「応援グッズに監督や選手の似顔絵を描くのが当時の役目」で、県予選時には“絵がウマい名物部員”として地元・びわ湖放送に取り上げられた。

そんな経緯もあって、甲子園でもTV局のアルプスリポートでスポットが当たり、「応援と似顔絵、気持ちはどちらに向いている?」とマイクを向けられると「絵が8割っス!」とドヤ顔で答えた。本人的には「ギャグのつもり」が伝わらず、「全国放送で千切れるぐらい、スベッた(笑)」と高笑いする。

関西人らしく、しゃべりは達者で声もデカい。体重100kg超の体躯も加わって“豪快な男”の印象を受けるが、「万年補欠」の中・高6年間を乗り切れたのもフォア・ザ・チームの精神があったから。地方予選で初戦敗退した高3の春からは「ベンチ入りしたいとか言うてる場合ちゃう!」とミットを捨て、選手のボディケアやタイムキーパー、グランド管理、応援グッズの制作…と自ら進んで裏方に回った。

高卒後は20歳で結婚。トラックドライバーとして京都と名古屋を往復する多忙な日々を送りながらも絵は描き続けた。友人や同僚に借りた古着のデニムに筆とアクリル塗料で昇り竜を描き、和柄のデニムに再生。これが職場や友達界隈で評判を呼び、1枚5千円ほどの副業になったが、所内トップの営業成績が買われて26歳で営業所長に抜てきされると「絵を描く時間も気力もなくなった」という。赤字の営業所を立て直してほしいとの社の期待も重荷になった。

所長時代、ふた言目には会社への不満が出る職場で自分の給与を公開。「全従業員と腹を割って話し、個人の良いところを伸ばして、足りない部分はチームで補い合う“野球部”のような組織を作った」。この職場改革を追い風に数年で業績は黒字に改善。31歳で会社役員に出世し、33歳で幼なじみの女性との結婚も決まって順風満帆な日々を過ごした。

だが、次第に「このままでええんやろか」との思いに駆られるようになる。中学の卒業アルバムには『将来の夢はプロ野球選手か絵描き』と書いていた。野球の夢はとっくに捨てたが、「絵描きを仕事にできたら最高やろな」との思いは漠然と残っていたという。

ある日、家でTVを観ていたら、井上雄彦氏が墨で宮本武蔵を描くカップヌードルのCMが流れた。彼にとっては「衝撃的な30秒」となり、「これや!」と思って翌週には会社に辞表を提出。「同僚に笑われ、両親にはブチ切れられた」というが、妻には「頑張り」と言われ、義父には「飯ぐらい食わしたる。その代わり、5年は続けろ」と背中を押された。

こうじょう雅之の作品、真田幸村公

「5年は続ける」と約束した最終年…

インタビュー中に武人を描いてみせた、こうじょう氏。完成までの制作時間は8分程度

独立後、しばらくは似顔絵で日銭を稼いだが、ライブアートの舞台はもっぱら、家の近所の画材店のレジ横。店主に練習場として提供してもらっていたそうで、数ヵ月後に催事スペースでライブを催す機会をもらった。だがその日、30人ほどの客前で宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘シーンを描き、客席を振り返ったら「客はひとりしかいなかった」という。

理由は明白で「描き上げるのに90分もかかっていたから」。大先輩である墨絵のライブアートの第一人者・茂本ヒデキチ氏なら「たった15分で描く」。そこに追いつけ追い越せと、自宅や画材店で本番さながらの練習を反復し、近所の居酒屋に頼み込んで、酔客を前に武人を描くミニライブを月1回開催。これを2年間、継続した。

すると作業時間は60分、20分と短縮され、見る側に「ハラハラ感を」とあちこちに線を入れながら武人を描く技法も確立。レジ横から卒業すると、歴史館や結婚披露宴でのライブの他、都内・居酒屋チェーンの店に武将の壁画を書く仕事が舞い込み、その活動が地元・京都で脚光を浴びるようになる。16年8月には京都市からのオファーで国宝・二条城で史上初のライブアートを敢行した。

だが、当時は「『上手い』とは言われるけど、先輩方に比べればまだまだアマチュアの絵」。そう話す彼にとってのターニングポイントは、浮世絵や江戸木版画の工房『萌生堂』(東京・大田区)の坂井英治代表との出会いだった。

手塚作品やドラえもんなど人気の題材とコラボさせながら、江戸の伝統工芸を継承する事業に取り組む工房で、知人を介して坂井氏と会う機会を得ると、自分を売り込むプレゼン用に数日をかけて新作を描き下ろし、会合の場に持参。坂井氏から「粗いな、でも面白い」との評価を受け、萌生堂に所属することとなった。

これが独学で技を習得してきたこうじょうにとって、「きちんとした目を持つ方にジャッジしてもらえるようになったことで、作品としての質の向上に繋がった」という。その初仕事は大河ドラマ『真田丸』の公式カレンダーとポストカードのデザイン。これを16年9月に発表した3ヵ月後には、映画『スター・ウォーズ』の仕事が舞い込んだ。

それは、義父と「5年は続ける」と約束した最終年のこと。画材店のレジ横から、わずか5年で一気にメジャーの舞台に駆け上がったこうじょうはその時、こう思っていた。

「ボクの絵が批判されるのは受け止めますが、映画やドラマの原作者がファンの方から『なんでこんな仕事を許したの?』と思われると申し訳ない。そこを思うとプレッシャーでしかありませんでしたが、これでもし自分がダメになってもまたトラックのハンドルを握ればいい。そう考えたら気持ちが少し楽になって、筆を持つ覚悟が固まりました」

こうじょう氏の作品『ウルトラマン』

“絵描きの未来”を変えたい!

昨年、東京・銀座で開催した個展のメインビジュアルとして発表した『宮本武蔵vs.吉岡一門』の決闘シーン

額装用のマットもキャンバスにする大胆な構図が特徴の代表作『武田信玄公』

『真田丸』と『スター・ウォーズ』――ふたつのビッグプロジェクトを成功させた今、百貨店の催事場などで個展を開く機会も増えている。そこでは通常は保護のために使用される額装用のマットまでキャンパスにする大胆な構図が話題を呼んだ。

「時代や常識の枠に収まらない武人を表現するにはどうしたらいいかと考えていた時、あるイタリア料理店で出された料理がアンダープレートにまでソースで装飾されていて、感動を覚えました。そこからヒントを得て、マットも全部使って、枠からはみ出す武人を演出しようという今のスタイルが出来上がりました」

ここまでインタビューが始まって2時間を越えているが、「まだまだ喋らせろ」とばかりに次から次へとエピソードが出てくる…その旺盛なサービス精神が彼の真骨頂だ。

「ボクは“覚悟”をテーマに武人画を描いているつもりですが、作り手側のコンセプトなんて所詮、自己満足だし、押し付けるものじゃない。お客さんが絵を見て感じたことすべてが正解で、アートもサービス業のひとつ。サービスマンとしてお客さんを楽しませようという気持ちは絶対になくしちゃいけないと思っています」

現在は宇治市の観光大使も務め、「平等院とお茶の一辺倒だった故郷をもっと盛り上げたい」と、全く新しい形のライブアートを構想している。その内容も明かしてくれたが、ここではあえて伏せておく。おそらく、茶摘みの時期を迎える頃に話題になるはずだ。

最後に、こうじょうはこんな思いを口にした。

「絵描きになると言った時、『そんなん絶対ムリやん!』って何人かの人に笑われました。だから、子どもや学生にとってのそんな“絵描きの未来”を変えたいと思ってるんです」

その思いは道具にも表れている。仕事で使う筆は「小学生の頃、習字の授業で使っていた筆」、墨入れは「家の台所にあった計量カップ」。こだわっているのは「子どもが少し小遣いを貯めれば買えるような道具」なのだという。

そして、「これは宝物」と画材バッグから1枚の落書き帳を取り出した。昨年、京都で開催したライブアートで織田信長を描いた日、イベント終了後に小学生の男の子から手渡された紙だという。そこには鉛筆で描かれた信長の絵に『こうじょう先生 がんばってください』との文字…。

「前にボクが描いた絵を見て、構図も線もマネて描いてくれてるんです。めっちゃウマいでしょ? その子はこの紙を『おっちゃん、カッコええな』と言って渡してくれました」

かつて、井上雄彦氏に憧れて武人画師になったこうじょう自身が、今では憧れを抱かれる存在になっている。“子どもたちにとっての絵描きの未来を変えたい”。常に持ち歩いているという落書き帳の1枚が、その原動力になっている。

(取材・文/興山英雄 撮影/利根川幸秀)

武人画師 こうじょう雅之公式サイト)1978年7月、京都府宇治市生まれ。筆者とは中学時代に所属した硬式野球チームのチームメイトでもある。2014年より本格的に水墨画で描く武人画アーティストとして活動を開始。作品は武人画公式販売サイト『COLLAB JAPAN』、デビルマンやガッチャマンなどのアニメとのコラボ作品は『ウルトラJ』でも閲覧できる。

武人画展『SOUL OF JAPAN』開催プロデビュー5周年記念イベントとして、4月27日~5月14日、東京・銀座G735 Galleryにて(4月30日~5月3日と火曜は休館)。全作描き下ろしの20~30点を展示するほか、5月5日午後にはライブアートも開催。詳細は公式サイトまで。