約1万平米の庭園に18の客室を備える陣屋。敷地内にはブライダル会場もある

かつて取引先の接待などの法人利用で潤った鶴巻温泉(神奈川県・秦野市)も今やすっかり寂れてしまった。ピーク時に20軒程あった旅館の大半はマンションに変わり、残る旅館は3軒ほどだ。だが、来年に創業100年を迎える老舗『陣屋』には客足が絶えない。

『陣屋』も2000年以降は経営難に陥っていた。近隣の旅館同様、売上げは右肩下がりで赤字の連続、09年時点で借金は10億円になっていた。だが、現在の売上げはその当時から倍増、黒字化にも成功し、社員の平均年収は100万円以上増えた。

一体、何が変わったのか? まず、経営者が先代社長からその長男夫妻、宮崎富夫さんと知子さんに変わった。大手自動車メーカーの元エンジニアとリース会社の元OLという、会社経営も旅館業の経験もなかったふたりが最初に推し進めたのが、旅館のIT化だった。

富夫さんと、元SEの経歴を持つフロントスタッフ2名で日夜、開発に取り組み、形にしたのがクラウド型の旅館情報管理システム『陣屋コネクト』。これがバックヤードの作業を大幅に省力化し、従業員の働き方を劇的に変えた。(前回記事参照

ゲストリレーション係の白野昇氏はこう話す。

「駐車場でお客様をお迎えする時、以前は車を見ても、どのお客様かを判別するのは大変でしたが、今は駐車場の入口に設置したセンサーがナンバーを認識し、イヤホンに『○○様が到着されました』と自動音声が流れる仕組みになっているので、お客様が降りられた時点で『いらっしゃいませ、○○様』と接客することができます」

清掃係の従業員もこう続ける。

「浴室の清掃作業ひとつとっても、今は浴室の出入口のセンサーが入浴客数を感知し、一定数を超えるといつも携帯しているタブレットに通知が届きます。これで清掃やタオル補充が必要かどうかを何度も確認に行かずに済むようになりました」

そんな『陣屋コネクト』の導入効果について、女将の宮崎知子さんはこう話す。

「手持ちのタブレットやイヤホンに届く情報から、今、何をすべきかを自分で判断して動き出すことができるようになり、指示待ち社員がほとんどいなくなりました。例えば、予約情報から以前に来館されたお客様が今月にもご利用になるということがわかれば、『食材やお皿を変えて料理の演出を変えてあげたい。そのためにはどうしたら…?』と自発的に考え、調理場と一緒に事前に相談するなど、従業員それぞれが現場でやっています」

とはいえ、中にはバレないところでサボろうとする従業員もいるのでは…? そんな疑問に陣屋コネクトの保守・管理を担当する滝田翔平さん(31歳)がこう答える。

「人間ですから、楽をしようと考える従業員はいるでしょう。ただ、業務に関連する情報はすべて『陣屋コネクト』内の社内SNS『チャター』上でやりとりされます。従業員が胸元のマイクに『○○様の料理が変更になりました』とか『人が足りないのでヘルプお願いします』と話しかけると、チャットのような形式でタブレットに活字化され、その画面を見れば誰が既読し、誰が未読のままなのかも一目瞭然の仕組みになっています」

これにより『未読』が多い社員や、既読なのに動かないことが多い社員は当然、周りからそういう目で見られる…。『陣屋コネクト』は、業員の働きぶりを可視化するのと同時に、従業員をサボらせない環境を作ることにも繋がったというわけだ。

こうしたIT化で仕事のムダを省き、働き手の機動力を高めることで、少ない人数でも旅館を切り盛りできる体制を作った。09年と現在を比べ、従業員数が120人から40人に減り、社員の平均年齢が44歳から33歳に若返ったことはその証左といえる。

滝田さんは携帯電話ショップの元販売員。『陣屋コネクト』導入当初は主に年配の従業員向けにIT講習会を開くなど、タブレット操作を指導する役割を担った

サービス業のくせに休みをとるのか?

駐車場に設置されたセンサー(左)が宿泊客の車のナンバーを感知。その情報が従業員が持つタブレットに送信される。また、浴室の出入口にあるセンサー(右)では入浴客数の入退場を感知。清掃やタオル補充のベストなタイミングを知らせる

その『チャター』の運用などは、ITを従業員の監視ツールに活用しているように見えなくもない。言ってしまえば、“ブラック企業”にもよく見られる手法だ。某外食チェーンでは従業員が仕事をサボると本部から『働け!』と店に電話がかかってくる。店内の防犯カメラの映像から本部社員が店員の動きを常時、監視しているのだ。

だが、陣屋の離職率はわずか3%と“ホワイト企業”の水準にある。それも宮崎夫妻が経営に参画した初年度(09年度・33%)から大きく改善した成果だ。

「CS(顧客満足度)はもちろん、ES(従業員満足度)を高めていこうというのが理念。経営者がちゃんと従業員を大切にしてくれていると実感できるから、現場の私たちも会社のために頑張ろうと思えるんです」(前出・滝田さん)

この話を裏付けるのが休みの多さだ。年中無休が多い旅館業界では珍しく、常識破りともいえる“週3日”の休館日を設けている。正確には、毎週火曜と水曜が休みで、月曜は宿泊客を受け付けないランチ営業のみという形だから、週休2.5日ということになるが…。

「無休営業の旅館だと休みはシフト次第で、しかも直前になるまでいつ休めるかがわからないから友達と遊ぶ約束をすることもできませんし、習い事もできません。陣屋の場合は毎週固定で連休が取れて、月1回は3連休があります」(前出・滝田さん)

元々は他の同業と変わらず年中無休の営業だったが、14年に週2日の休館日を導入、その2年後には休みをさらにもう1日増やした。

休館日を設けた理由について富夫さんがこう話す。

「私は自動車メーカーで9年、週休2日が当たり前のサラリーマンを経験しましたから、陣屋に参画した当初から休みなしの働き方はオカシイと感じていました。でも、当時は経営難で休館日を設ける余裕がなく、効率化重視の改革を進めざるをえなかった。その状況から11年度に黒字化を実現し、さらには3年間働きづめだった家内(女将の知子さん)が身体を壊したことも重なって、“この際、みんなで休もう!”と」

従業員に「当たり前のように連休を取らせてあげたい」――その思いが旅館業界の常識を覆す“週休3日営業”を実現させた。だが、これに反発したのは一部の客だったという。

「予約の電話をされたお客様に『火曜は休館日で』とお伝えしたら、お叱りを受けました。『サービス業のくせに休みをとるのか?』と。20代の方で悪気はなかったのでしょうが、その言葉を聞いて思ったんです。若い方でもそのように言われるということは、『サービス業は休まない』という考えがいまだに世の中のスタンダードなのだと。だったら、なおさら『絶対に開けるもんか!』と、一石を投じたくなりました(笑)」(知子さん)

そこには、女将のこんな思いがあった。

「旅館で働く方やこの業界を目指す方は、心のどこかに“人に喜んでもらう仕事がしたい”という思いを持っているものです。だからといって、『好きな仕事だから頑張れるでしょ?』と、私たちがその思いに頼り過ぎてしまったら、人は育たないし定着もしません。

そうではなく、結婚したいとか、子どもが欲しいと思った時に、躊躇(ちゅうちょ)なくそのライフステージに上がり、当たり前のように幸せを感じられる…そういう環境を経営者が用意してあげることが大切なんじゃないかと思っています」

休日にいろんなアイデアを思いつく

陣屋の女将、宮崎知子さんも常にパソコンでデータや経営情報をチェックする

休館日とは別にもうひとつ、その思いを形にしたことがある。従業員の昇給だ。

業績が黒字になった12年のこと。当時、黒字化したとはいえ、給与を上げられるほどの余裕はなかったという。だが、「改革の途上で辞めていく人も多い中、せめて残ってくれた従業員は昇給させてあげたかった」と富夫さん。そこで資金的な余力がないところ、どうしたか? 「退職金と賞与の総額を分割し、月給に反映させた」という。

「退職時や年1回のボーナス時のためにお金を貯めておくくらいなら、毎月の給与として支給してくれたほうが嬉しいと、従業員と話し合って決めたことでもあります」

それ以降、年末の個人面談を通じて1月の昇給も実施。査定の基準はノルマではない。会社の業績をベースに前年と比較して、スキルアップの度合いや貢献度、周りからどの程度必要とされているか?といった所定の項目を従業員自身、同僚、上司、女将と富夫さんが査定する360度評価を採り入れている。

その結果、退職金とボーナスの分割払いに右肩上がりの業績も重なり、09年時と比較して新入社員の月給は17~18万円から25万円に、中堅クラスは30万円から40万円に、料理長の給与はほぼ倍増した。トータルで見ると、従業員の平均年収は288万円から400万円までアップしたというから驚きである。

連休が取れるようになり、昇給も果たして、心にゆとりが持てるようになった従業員は今、「仕事が楽しい」と口をそろえる。接客担当の江畑真理子さんがこう話す。

「陣屋の良いところは、何かを変えたいという時、上の人が全部決めるのではなく、現場で提案したことが形になりやすい環境があること。毎週木曜にPDCA報告会という名の全社員参加のミーティングがあるんですが、そこでひとり5分間のプレゼンの場が与えられているんです。今、自分が抱えている課題にどう取り組み、どんな結果が出たのかを3分で発表し、残り2分間は全社員でディスカッション。

5分経つとチリンと鈴が鳴って、次回に回されてしまうのですが(苦笑)、そこでアメニティや食器をちょっと高価なものに変えたり、逆に不要になったものを外したり…業務マニュアルについても効率が悪いと思えば、改訂を提案することができます」

その場には女将もいるが、「私たちは決定者というよりMC」(知子さん)で、現場からの提案を採用するかどうかは社員の総意で決めるという。こうした形で社員が経営に参画できるのも、旅館の全情報が『陣屋コネクト』上で共有されていることが大きい。

「売上から売上原価、利益率、会社の預金額まで社員もパートも閲覧できる状態になっています。なので、『現金が少ない』とわかれば節約意識が高まりますし、『現金が増えてる』となれば、ずっと欲しかったアメニティや食器などの備品調達や、館内設備の更新といった提案も通りやすいと判断できます。やっぱり、自分の提案が形になると嬉しくなりますね。私の場合、休日にいろんなアイデアを思いつくことがよくあるんです」(江畑さん)

IT化と働き方改革を進めたことで、従業員の働くモチベーションもそのパフォーマンスも格段に上がった。これが倒産寸前の老舗旅館を蘇らせた最大の要因である。

今後、陣屋はどこに向かうのか。規模や傘下を増やし、売上アップを狙う?と尋ねると、富夫さんは「陣屋は1館のみと決めている」と即答し、次なる構想についてこう続けた。

「まず、『陣屋コネクト』をもっと進化させなければなりません。例えば、あるお客様が前回にどんな料理を食べ、どんなお酒を注文したかを調べようと思うと、2回、3回と画面をクリックしなければならないのが現状で、従業員によっては2分、3分とタブレットと睨めっこしている状況もあります。このムダを省くために、最適な情報を最適なタイミングで自動音声で知らせるようなシステムを開発しているところです」

業界を救う“旅館革命”の黒子に徹する

そのシステム上で、今は従業員の手作業や感覚に頼っている備品や食材の発注、繁閑期で変動する宿泊費の設定、従業員を適材適所で配置するシフトの作成まで自動化する仕組みも構築しているという。富夫さんは「名女将、名発注担当と呼ばれる人たちが持つ上級のスキルをシステムに落とし込む」つもりだ。

前回も伝えた通り、従業員の働き方を劇的に変えたこの『陣屋コネクト』を他の旅館に低価格(月額利用料3500円)で販売、今や全国250施設に導入されている。もちろん、自社開発で進化させた機能は惜しみなく顧客先のシステムにも上乗せ。「平等にみんなで使えるようにしている」という。

さらに今、そのネットワークを活用して進めているのがこんな取り組みだ。

「まだまだ数は少ないですが、長野県の旅館と連携し、お互いに従業員を交換し合う体制を作っています。その旅館のトップシーズンである夏は、陣屋にとってはお客様の数が減る閑散期。そこでこちらの従業員を長野の旅館に送って昼間は『陣屋コネクト』の講習を、夜は宴会のお手伝いや接客といった形で2週間ほど働いてもらい、逆に陣屋の繁忙期で向こうが閑散期となる冬期にはあちらから従業員を送ってもらうなどしています」

これは、繁忙期に人が足りず、即戦力をすぐに雇えない小規模旅館の泣きどころを解決する画期的な取り組みとなる。人手不足や若い従業員の確保が困難なのはどの業界も同じだが、それを補い合い、陣屋のシステムが浸透すれば、魅力的な職場ともなるはず。

また最近では、車で60分程走った箱根にある宿泊付きのフレンチレストランの名店「オー・ミラドー」とコラボ。一泊目は陣屋で会席料理を、二泊目は箱根で本格フレンチを堪能できる連泊プランを企画すると、ひとり12万円程度と高額ながら約1年で20組以上が利用し、現在も数ヵ月先まで予約があるという人気プランになった。

通常の宿泊プランの販売はその多くがエージェント頼みで、売上げの10%以上の手数料を徴収されることもあるが、近接する温泉地の旅館や割烹、レストラン同士で組めば、その相乗効果で商品の魅力も話題性も増す。エージェント頼みの集客からも脱却できるというわけだ。

同じく『陣屋コネクト』の複数の顧客と組み、アメニティや料理の食材を共同調達する仕組み作りにも着手。単独では仕入れ数が少なく、高コストになるところを“まとめ買い”して安く抑えるための試みで、繁忙期に足りなくなる備品をシェアする仕組みも模索しているという。

こうした取り組みはつまり、大手チェーンに負けない小規模旅館同士の互助のネットワーク作りともいえる。

「この10年で国内の旅館は25%も減少しました。その多くが小規模旅館で、人材の確保が難しい労働力の問題や、閑散期にはロスが増える食材や備品の問題など旅館単独の努力だけでは解決できない問題が経営を圧迫しているのです。今後、生き残っていくためには、旅館の枠を越えてお互いが助け合う仕組みを作ることが不可欠。今後はその“黒子”として、『陣屋コネクト』を土台に互助のネットワークを広げていきたいと考えています」

旅館再生事業の実績で有名な星野リゾートは自社ブランドを前面に押し出し、ハード面の改革を進める手腕に長けているが、陣屋は黒子として旅館のバックヤードに目を配り、ITの力で従業員の“働き方を変える”手法をとる。

「食事や客室、温泉におもてなしといった旅館のカラーは独自色があったほうが面白い。そこは残しながらも、原価管理や予約の受付け、顧客や従業員管理といった裏方の業務はうまくいっている旅館を参考に効率化したほうがいい分野です。『陣屋』がそのお手本となり、システム面から他の経営を助ける存在になれればと。その意味では星野リゾートさんとは別の道を歩んでいきたいと思っています」

富夫さんと知子さん夫婦が目指すのは、“旅館業を憧れの職業にする”こと。現場で働く従業員を尊重して活かし、『陣屋』を再建してみせた“素人目線”のふたりが今後、業界の「働き方改革」を先導する旗手として注目される。

(取材・文/興山英雄)