販売を伸ばし続けているボルボ・カー・ジャパン社長の木村氏。

昨年、日本国内での外国車販売が20年ぶりに30万台を超えた。

とりわけ販売を伸ばし続けているのがボルボだ。トップの木村隆之(きむら・たかゆき)氏を直撃し、その秘密に迫った。

* * *

―今、ボルボが破竹の勢いです! 昨年、世界で約57万台を売り、過去最高を記録。国内でも絶好調で約1万6000台を販売。どちらも3年連続で伸びています。しかも、昨年末にSUVのXC60が日本カー・オブ・ザ・イヤー、V90がRJCインポート賞を受賞したと思ったら、今年に入ってXC40が欧州、XC60が世界カー・オブ・ザ・イヤーを初受賞。まさに全方位の人気です。

木村 ありがとうございます。とはいえ国内販売は1996年の2万4000台が過去最高。人口が増えているアメリカ、消費が爆発している中国などと比べられるとどうしても日本市場は物足りない部分がありますが、売り上げの中身は3年で5割伸びています。私が就任した2014年の業績を100だとすると17年は台数が120で売り上げが150。あまり言っていませんが、この伸びはなかなかない。

―スゴいですね。いったいどういう日本戦略を?

木村 私が社長になったときからずっと推進してきているんですが、ボルボほど客層のいいブランドはない。顧客の年齢中央値を取ると51歳から53歳で、平均年収が1300万円から1500万円。これって完全にメルセデス・ベンツさん、BMWさん、アウディさんと一緒。それでいてBMWさんやアウディさんの平均購入単価は500万円台。メルセデスさんは600万円台。でも、私が就任した直後のボルボだけが350万円で…こりゃダメだと(笑)。

―当時の日本のボルボは売り方を間違っていたと。

木村 そのとおり。具体的には売りやすいコンパクトカーのV40を中心に安売りばかりしていました。いいお客さんがいるのに自分たちでディスカウントしてブランド価値を下げ、ポテンシャルを生かしていなかった。私が社長に就任してから半年間は完全に敗戦処理でしたね。

―でも、安売りしていた商品を、途中から高くしたら売れなくなるじゃないですか。

木村 プレミアム車を検討するお客さまはディスカウントではなくバリューでありプレミアムを求めている。だから、今までの日本市場を考えない、国産車と違うメチャクチャだった値つけを直すところから見直しました。

―具体的には?

木村 欲しいオプションをつけたら、いらん装備までついてきて80万円高になってしまう。実はそのグレードの売りは本革シートで、通常より50万円高いけど、シートヒーターにフル電動調整もついていますと。だったらいらない装備は削ろうと。そういう地味な見直し作業の積み重ねをすることで自然と上級グレードが売れていきました。今のボルボの販売平均単価はBMWさんや、アウディさんと遜色ないはずです。

―納得できる装備に納得できる価格だと、お客は多少高くても買ってくれると。

木村 ええ。それから私が社長になってから日本で販売する全モデルの安全装備をすべて標準化しました。「おまえら、ボルボのクセに安全をオプションで売っているのか」と(笑)。ありえないだろと。エアバッグはもちろん先進安全の自動ブレーキや最先端の歩行者エアバッグまで、一番安いコンパクトのV40にもすべてつける。でも、そんなの当たり前じゃないですか。ボルボという北欧のプレミアムブランドは、安全が売りですよ。それが安全装備をオプションにしていた。

―けど、それが長らくできなかった理由は?

木村 ボルボ・カー・ジャパンができて32年たちますがその間28年以上も外国人社長なんです。彼らは日本人の感覚がわからないし、外国人社長は基本的に3年で次の社長に交代する。その点、僕は最低でも5年はやると宣言しました。長い目で見ないとブランドは育ちませんから。

―その宣言で何か変わったことはありましたか?

木村 私が社長になってから、全国の全ボルボ販売店を視察しました。そして11のディーラーさんに辞めていただきました。新しく入ったのは3つかな? でも、外国人社長にはそれができない。ディーラーを切ると短期的には台数減という痛みが出ますから。

◆販売店の意識改革は? そして、世界中を席巻するボルボSUV! この続きは『週刊プレイボーイ』19・20合併号(4月23日発売)「黄金期到来 ボルボ・カー・ジャパン社長 直撃60分!!!」にてお読みください!

(取材・文/小沢コージ 撮影/黒羽幸宏)

木村隆之(きむら・たかゆき)1965年生まれ、大阪府出身。大阪大学工学部卒。ボルボ・カー・ジャパン株式会社 代表取締役社長。1987年、トヨタ自動車入社。2003年、米ノースカロライナ大学でMBA(経営学修士)取得。日本でのレクサス事業立ち上げに参画。ファーストリテイリングを経て、08年に日産自動車株式会社入社。インドネシア日産、タイ日産社長などを経て退社。14年7月から現職。