墨絵師・アートディレクターとしてマルチな異才を発揮する東學さん。大阪ミナミ・千日前の路地にて

あの国民的バラエティ番組のスピリットを引き継ぎ“友達の輪”を!とスタートした『語っていいとも!』

第57回のゲストで歌舞伎役者の尾上右近さんからご紹介いただいたのは墨絵師・アートディレクターの東學(あずま・がく)さん。

京都生まれ、父親が扇絵師という環境で幼少時から絵筆に親しみ、アメリカに留学したハイスクール時に描いた『フランス人形』がメトロポリタン美術館に買い上げられるという早熟の天才ぶりを発揮。

帰国後、舞台・演劇シーンで数多のポスターデザインを手掛け、墨絵師としては遊女シリーズなどで異才を発揮。ライブパフォーマンスなどでもジャンルを超越し活動する“平成の浮世絵師”である。

日常から作務衣姿の風体で大阪ミナミを拠点とする、その素顔とはーー。(聞き手/週プレNEWS編集長・貝山弘一)

―毎回、こうしてガチでご紹介いただき、お話させてもらうシリーズでして。いつもドキドキしてるんですけど、東さんがめちゃ怖い人だったらどうしようかなとか(笑)。

 あはは、全然怖くないですよ。僕もドキドキしています(笑)。いやもう、よく言われるんですけど、見た目がね、こんなやから。

―「ミナミの帝王」みたいな強面(こわもて)だったり、アーティストで気難しい方なのではと…。

 いやいや、難しくないですよ。もう全然、阪町のおじさんでございます。ここ阪町っていうんですけど(笑)。

―いきなり、尾上さんからこういう紹介があるなんてちょっと驚きでした?

 驚きましたね。たぶん3回くらいしか会ってないのに。撮影の現場で一緒に仕事して、この間、久しぶりに次の芝居の撮影で会うて。まだ一緒にお酒飲んだことないですから、右近ちゃん。

―あっ、そうなんですね。ずっと忙しいってのもあるんでしょうけど。

 大阪いてる間に行こか~って話はしてるんですけど。そやから、なんで俺なんやろって。この間、一緒に仕事したわ、それでかな? 嬉しい~って(笑)。

―東さん、意外とお茶目な(笑)。その前に繋いでいただいた彫金デザイナーの青山正隆さんもですが、右近さんの中で最近、他の世界に興味を惹かれる欲求が強いようで…。

 今ね、僕、ボディペイントもやってるんですよ。その作品を見て、すごいそそられたみたいで「自分も描いて!」って。僕、男は描かんから、女形のメイクしてならいいよってことで、今度撮影しようかって話はありますね。で、いろいろ喋って、仲良しになって。

―右近さんからも「お友達、とお呼びするのにはおこがましいですが…これからも仲良くしてください! いつかボディペイントしてもらえますように!」というメッセージをいただいてます。そもそも、一番最初のきっかけは…。

 (歌舞伎の)『ワンピース』の撮影ですね。そのポスターを僕が作って。あのキャラの衣装で来て「この人が右近ちゃんなんだ~」みたいな。で、よろしく~って仕事して、そん時はそん時ですよ。じっくりはまだないけど、もうなんか勝手に「おぉ~、仲良し~!」みたいな(笑)。

―そういう歌舞伎以外の広がり、外の刺激や付き合いに興味を持ちつつ、今まで自分からいけなかったのが最近ようやく殻を破ってと仰ってました。

 そうなんでしょうね。すごくグイグイくるから。僕もびっくりするくらい(笑)。

―東さんのほうがグイグイじゃなくて?

 そうそう。僕は絵を描きながらデザイナーでお芝居の仕事してるし、そんないちいちワーッて言うとったら大変ですから。しょっちゅう役者さんに会うんで、そういうミーハー的なところをやめてるというか。抑えてるので、そんなにいかないんですよ。

「オネエちゃん好きやから描いて…」

―なるほど。東さんも肩書がいろいろあって、マルチなイメージというか。多方面でおつきあい広そうですもんね。

 えっ…僕、2コしかないじゃないですか。絵師とアートディレクター。

―そのアートディレクターの範疇もプロデューサー的なとこまで入ってるのかなと。

 まぁそうですね。確かに東京パフォーマンスドールの衣裳とかも作ってたり、プロモーションビデオの監督までやってますから。ちょっと欲張りですね(笑)。すいません。

―いえいえ(笑)。ですからダ・ヴィンチ的な万能人の印象があって。

 いえいえ…でもね、もう無茶ぶりなんですよ、みんな。「PVの監督してよ」「えっ、そんなんやったことない」「學ちゃんならできるわよ」「んじゃ、やる~」とか。「アイドルの衣裳作って~」「俺、衣裳は無理やで」「できるって、學ちゃんやったら」「そう? なら、やる」みたいな(笑)。ほんま無茶ですよ。

―自分にやらしてみたらええやん、とグイグイいかれるほうかと思いきや…。

 やらされてるんですよ。で、「なんや、できるやん」みたいになって。次から俺もやりたいやりたいってなるんですけど。もっと絵を描く時間をくれって感じですけどね。

―本業は絵師だし、と。でもそこにこだわりはないというか、面白いことはなんでも手を出してみようっていう?

 そうなんですよ。で、中途半端な…(笑)。

―そもそも、扇子画の絵師だったお父さんの影響で、絵を描くのは当たり前の環境に育ってこられたんですよね。

 親父はね、花をずっとメインに描いてるんで、僕はやめとこうと思って。オネエちゃんにしようと、オネエちゃん好きやから描いてたんですよ。それがある日、気づいたんですね。花っていうのは、性器むき出しなわけで、まぁ女ですよね。

だから一緒のことをやってたんやと。それでなんか気が楽になって、花を描くようになったんです。割とここ15年くらいですけど。

―ちなみに、そのお父さんの扇絵師というのは、扇子を専門に描かれるんですよね?

 そうですね。元々、俵屋宗達の時代から家具とか作ってた中に扇子もあって、日用品みたいな括(くく)りで最初始まって、だんだん高価なものになっていき、みたいな。

でね、親父は戦争に行ってないんですよ、肺結核で。家系を支えなくちゃいけないのに、肉体労働とかできないから、小っちゃい頃に習ってたこれがあるわって扇子に絵を描き始めたんですよ。

―では、それこそ俵屋宗達の頃から綿々と繋がって、代々、家業だったというのでもなく?

 ではない。もう仕方なしに戦時中にそれで飯食ってた。

―やはり京都には多いんですかね。絵師であり、職人といってもいいような。

 親父はね。だから、結構いたんですよ。松の絵だったら、そればっかりとか。途中から骨を通さない扇子の形のキャンバスに絵を描いて、それを売ってましたけど。

「そのままアメリカ居れ居れ~って」

―では歌舞伎の世界とも違い、一子相伝で流派を継がなきゃとかでもなく。血筋やDNA的なものは?

 まぁDNAはあったんでしょうね、手先が器用とか。環境が環境やから絵を描くことに対して苦痛とかもないですし。けど、小学校の頃、僕、目指してたのは漫画家やったんですよ。永井豪の『デビルマン』が好きで(笑)。

―そういう時代ですよね(笑)。

 小学校6年くらいかな。卒業アルバムにも漫画家なりたいって書いてあるんですよ。で、中学1年生で「よし! 描いてみよう」と思って、ペンを持ったんですけど、ストーリーが何も浮かばなかった。これ無理だって。

―俺にストーリーを考える才能、素質はないかもと(笑)。

 そうそう。昔は原作がいて漫画家がいてって『あしたのジョー』ぐらいじゃないですか。手塚治虫に石ノ森章太郎、松本零士さんとか錚々(そうそう)たるメンバーがあの時代いて、みんな自分で考えてオリジナルでやってはったから。それでやらなと思って、できなかった。

―皆さん、作家性も備えていてね。ではある意味、それが最初の挫折?

 そうそう。中学1年生で「俺には漫画家、無理だ!」って。で、絵やったらできるわみたいなことになって、なんやかんやしてるうちに高校はアメリカ行ったんですよ。中3の時に親父と遊びに行って、向こうの新学期は9月なんで、そのまま夏休み終わってすぐもう入学しちゃったんです。それから3年半、ずっとアメリカで。

―それもいきなりというか…遊びで行って、そのまま居ついて学校に?

 「俺だけ残るわ」つって。向こうは受験ないから、もう入っちゃえみたいな。面倒くさい手続きとかは、なんかうまいこと大人たちが(笑)。

―お父さんもええよみたいな感じで?

 そのまま居れ居れ~ってノリでしたね。好きにしたらええわみたいな。

―(笑)京都の絵師の職人さんとか厳格なイメージですけど。お父さんが自由人で放任主義という。自分ではこっちが性に合うな、面白そうやなっていう?

 その頃はまぁ…。行ってよかったなと思ってはいるんですけど、英語そんなに得意じゃなかったんで。その中3の時とか、嫌いな教科のひとつやないですか。最初の一学期かな…午前中は英語学校に行くんです。他の異国のコたちがいっぱいいて韓国人とかベトナム人、ポルトガル人とかと一緒に。ほんで昼から普通の高校に行って授業を受けて。

―それって喋れない人間は義務づけられているんでしたっけね。それこそ絵を勉強しようとかデザインをといった目的意識は?

 全然ないです。サンタクララってとこの普通の高校ですしね。ただ美術は成績良かったんですよ。難しいのが物理とか専門用語のオンパレードでなんにもわからへん。日常会話くらいしかできひんから。で、(外国語は)フランス語をとったんですよ。英語でフランス語を習って、何言うてはるんやろみたいな(笑)。

んで、友達もそんなにいるわけじゃない。だから家帰って絵ばっか描いてました。

「メトロポリタンのお金で帰ってきた」

―それで逆に集中できたというか、絵に籠もるようになったと。そもそも日本での学生時代はつまらなかったんですか? 

 いや、別にそんなこともなかったような気はすんねんけど…。まぁ向こうのほうがワクワクはありましたよね。

―さっさとこの国なんか出たるわと思ってたとか…。

 そんなことでもない。きまぐれです。

―子供の頃からずっと衝動的というか、変わってる子やなぁって見られてたとか?

 え~、どうなんやろ。まぁそうかも。おとなしい子やなぁとは言われましたけど。

それでずっと描くようになって、サンノゼっていう隣町の新聞でアートコンテストみたいなのがあって、それに出したら優勝したんですよ、たまたま。

―それがいきなりメトロポリタン美術館に所蔵されている「フランス人形」ですか?

 それはまだ次の段階があるんですけど。ほんで、2年後くらいに美術の先生がこんな展覧会あるから出す?って言って、4つくらい近所に高校がある合同展に作品を出したら優勝したんですよ。ほなら、メトロポリタンがお買い上げしたんです。

―いきなりですか? メトロポリタンってそういうものなんですかね。

 僕も全然わかんないです。いきなりですね。

―そこで高校生の作品にお買い上げするような価値を見出したなら、それからも要注目でしょうし。一気に美術界の寵児なのではと…。

東 だから、え!?ってなるじゃないですか。で、その頃に親が離婚したんです、日本で。仕送りストップなったんですよ。ほんでまぁお金ない、どうしよ~ってなって。留学生やからバイトもできないじゃないですか。

―やっぱりお父さんもだいぶ傾(かぶ)いてますね(笑)。

 傾いてますね(笑)。その時、ちょうど兄貴が遊びに来てたんです。で、僕が絵を描く、兄貴が色を塗る、それを学校に持って行って先生に売りつけるっていう(笑)。日銭を稼いで、買い物行ってご飯食べて…。

―それもスゴい! 買ってくれるんですか、先生も? メトロポリタンが買い上げたくらいだから、価値が出るだろうみたいな…。

 そうそうそう。かもしれん(笑)。でもメトロポリタンどうこうっていうのはみんな知らなかったと思うんですよ。その頃、僕も高校生やったから、よくわかんないですけど。ただ、それで食いつないで。

―それこそ一流のキュレーターみたいな人がアプローチしてきても不思議はないような…もしや語学力のせいで、すごい機会を逃してたとか(苦笑)。そのまま絵で食っていける感じにはならなかった?

 それはなりますよ。有頂天なりますやん。ほんでね、ちょっと戻すと、帰る飛行機の切符代がなかったんですよ。さすがに日銭では稼げなくて、だからそのメトロポリタンのお金で兄貴のとふたり分、買って帰ってきたんです。

「中1くらいからヌード描いてた」

―帰国するしないの最中にお買い上げだったんですね。そのチケット代くらいということは、当時の航空運賃で結構な額だったのでは。

 いや、もう全然覚えてない。まぁそんな感じで帰ってきて…向こうの学校は卒業してね。単位さえ取れば、3年でも卒業できたんで。一応、なんか美大みたいなのに行きたいなとは思ったんですよ。でもすごいお金がかかるんで。あ、これ無理だって帰ってきた。

―仕送りには頼らず、絵で稼いで食っていこうという野望とか…スカラシップ(奨学生制度)もあったのでは?

 あったかもしれないですけど。でも、もうよくわかんなくて帰ってきちゃいましたね(笑)。まぁ別に後悔はしてないですけど。

―そこまでの執着もなく、自分が無頓着だった?

東 そうそう。だって最初からそのまま居ついたくらい無頓着ですからね。そんなもん無頓着ですよ(笑)。

ほんで帰ってきて、イラストレーションの専門学校行って、就職時期にはたと気づくわけです。「あ、イラストレーターって人に言われて描くんだ」って。それで、たまたま『レミング』っていう寺山修司の舞台のチラシを見て「俺、これやりたい!」ってデザイナーになったの。お芝居のチラシを作るぞって。それから今はもうお芝居の仕事がほとんどですからね。

―アートディレクターとか広告デザインの仕事や肩書もいろいろありますけど、舞台メインでピンポイントってなかなかないですよね。

東 うんうん、珍しいですよ。やっぱり横尾忠則さんとか宇野亞喜良さんとか、あの頃の時代のカッコいい人たちに憧れてるんですよね。

―前衛的というかアバンギャルドな人たちが舞台とか芸術に集まって。ある意味、それもミーハー的ではあった時代ですけど。

 そうですね。憧れがあって、絶対、宣伝美術やりたいって。

―でも、その頃から女性しか描きたくないってのはあったんですか?

 えっと…その漫画家になりたい時代は男も描いてるんですよ。松本零士とかあのへんのSF的なのを真似て描いてたんですけど。でもね、中学1年生の時に履修授業があって、なんかそん時に僕、ヌードの絵を描いて、黒板に貼ってね。みんな、うわぁ~ってなっとったんですよ。

そこにバーンって体育の先生が入ってきて、誰やこれ描いたんって職員室に呼ばれて、1時間くらい怒られるんですよ。で、家帰ったら、父親が「おまえ、どんなん描いたんや? 描いてみい」って。おいおい、親父に言われてるやんみたいな(笑)。

―親にまで連絡されてた(笑)。それを別に父親は怒るわけでもなく?

 怒るよりも、もう喜んでました(笑)。だから、割ともう中学1年くらいからヌードとか描いてたんですよ。漫画家を諦めてからね。もうオネエちゃんでいいやみたいな。

続編⇒語っていいとも! 第57回ゲスト・東學「メトロポリタン永久保存とか…ほんまに俺の絵、あるの?って」

(撮影/塔下智士)

ミナミ・千日前の路地裏にある事務所にて柴犬のまめも

■東學(あずま・がく)1963年12月9日、京都生まれ。日本の舞台・演劇シーンで数多のポスターデザインを生み出す異端的アートディレクター。墨を糸のように操り、森羅万象における命の美を描く絵師としても活動。03年にN.Y.のレストランの装飾画として描いた遊女シリーズを皮切りに多くのファンが生まれ、07年には墨画集『天妖』を出版。14年、歌舞伎役者・片岡愛之助とコラボし墨絵のライブパフォーマンスを行なうなどジャンルを問わず様々な分野で活躍を続ける。