ぜんち共済の榎本重秋社長(中央)の隣に社員の田平さん(右)と安齋さん。日本唯一の障害者のための保険会社の職場は今、とにかく明るかった

障がい者のための日本唯一の保険会社、ぜんち共済株式会社(東京・千代田区)

社員数17人の小規模な会社だが、ほとんどの保険会社が引き受けをしない知的障がい害者、発達障がい害者、ダウン症者、てんかん者とその家族のために個人賠償、入院、死亡など幅広くカバーする保険を扱っている。

社風はとにかく明るい。取材中、榎本重秋社長はよく笑うし、同席した社員との間でも何度か爆笑が起きた。残業は少なく、社員の意見も反映され、何より社会貢献を果たせる会社で働いているのは「本当に幸運です」と話す社員もいる。

だが、こうした会社になるまでの道のりは平たんではなかった。

榎本さんは勤めていた保険会社を退職し、『全国知的障害者共済会』(以下、共済会)の事務局次長に就任。障がい者を対象相手に会員数2万人まで増やしたまではよかったが、2006年4月、共済団体に『生命保険会社か損害保険会社になる』『少額短期保険業者になる』『事業をやめる』のいずれかを義務付ける改正保険業法が施行されたことで存続が危ぶまれる事態に晒された。(前回記事参照

それまで障がい者のための保険を扱っていた共済会は任意団体だったので、商品内容は自由に設計できた。だが改正保険業法が施行された以上、今後は国が認めたものしか保険商品にならない。その商品の保険料も数理専門家が算出したものでなければならない。

同年11月、改正保険業法に対応するため「ぜんち共済」が設立され、榎本さんが社長に就任する。

やる以上はニーズに応える商品を作りたかった、という榎本社長。例えば、障がい者が虐待や詐欺などに巻き込まれた時に弁護士が必要な場合がある。その弁護費用をカバーできる保険などが求められていたのだ。

それを実現するためにやるべきことは、まず「少額短期保険事業者」としての登録を受けることだったが、これがひと筋縄ではいかない。

「金融庁や財務省との折衝がやたらに壁が高いんです。毎週、金融庁に通って、金融庁の担当者である約款担当の課長補佐、保険数理担当の課長補佐、事務方の3人から毎回課題を与えられました。例えば『他の法律に影響がないかを調べましたか?』と問われたら、その回答を1週間後に用意しなければならない。

すぐに法律を調べるために、国会図書館や福祉団体などから情報を集め、土日もずっと机にかじりついて資料を作り直して、また折衝に臨む。でもOKが出ない。また新たな課題が出される。その繰り返しでした」

苦労したのは折衝だけではない。会社作りに必要な出資金、そして社員も集めなければならない。一緒に働かないかと知人に声をかけても、給料も決まっていないどころか登録もされていない会社に入る人間はいなかった。

設立当初、社員は榎本社長が以前勤めていた保険会社B社で働いていた女性と、彼女が連れてきた女性のふたりだけ(いずれも30代)。

「みんな僕の話を聞いても、『志はわかるけど…ごめん』と答えるだけ。そんな会社できっこないと思われていたんですね」

駅のホームで「飛び込もうかな…」

榎本社長は自殺まで考えたというどん底からいかに這い上がり、障害者を救う保険を作ったか?

同時に、共済会の理事である障がい者の保護者からは「いつできるんですか?」との連絡が頻繁に入る。この当たり前の期待がプレッシャーとしてのしかかってきた。

当時、大手ベンチャーC社が少額短期保険に参入しようと、保険会社出身の5人(全員60代)を集めていた。経理、保険金支払い、システムなどのスペシャリストだ。ところが、参入中止で5人が行き場をなくす。これを「千載一遇のチャンス」と捉えた榎本社長は5人に会社が登録されるまで力を貸してほしいと依頼。すると全員が快諾してくれた。

そのうちひとりの会計担当者は計算の結果、「7500万円集まれば事業を開始できる」とはじき出した。しかし、ぜんち共済にあったのは1千万円だけ。榎本社長は残り6500万円をかき集めるために、金融庁との折衝の合間を縫い、文字通り全国を奔走し、協力会社や代理店に頭を下げることになる。

だが出資を依頼しても、「そんな会社できるの?」と金は思うようには集まらなかった。商社にも企画書を持ち込んだが、全く相手にされない。出先から会社に定期連絡の電話を入れると、いつも同じ会話に終始した。

「社長、どうでした?」「今日もダメだった」「あ~」ーー受話器の向こうからのため息は重かった。

社内もギクシャクしていた。理由のひとつが、榎本社長が常日頃口にした「若い世代の会社を作るよ」との言葉を信じてふたりの女性社員は頑張っていたのに(ひとりは一緒に金融庁への折衝や資料作りにも協力していた)、突然やってきたのは能力の高い60代のベテランばかり。その5人が主な業務を担うとなると、彼女らにすれば「話が違う」となるのは当然で、険悪な雰囲気が流れていたという。

休日のない資料作成と社内の空気に疲弊した榎本社長自身、寝るとうなされるようになった。資金も集まらず、昔、仕事ができた自分が今は何もできない。笑いが失せ、体調もおかしくなって、整体院にかけこんだら整体師が驚くほど脂汗がダラダラ出た。

否定的な対応が待つだけの毎日に体が拒否反応を起こし、移動中の駅では幾度もしゃがみこむ。そしてある日、JR御茶ノ水駅のホームで、行きかう電車にふと「飛び込もうかな」との思いが頭をよぎった。楽になれる…。だが、脳裏に浮かんだ障がい者やその親御さん、協力者たちの顔に「なんとか踏みとどまった」そうだ。

知人に薦められ、心療内科を受診すると、やはりうつ状態に陥っていると診断された。処方された薬は徐々に効き始めるが、しばらくの間はフラフラの状態で金融庁との折衝、さらに金策に臨んだ。

必要な7500万円まで、5千万は集まったが、あと2500万がどうしても工面できない。最後に訪れたのは、共済会作りに協力してくれた取引先だった。

「取引先なので、出資してくれたら株主になってしまう。だから出資先候補からは外していたんですが、土壇場になるともう頼るしかありませんでした」

社長を救った取引先社長と元同僚の叫び

話を聞いた取引先の社長は、ドヨーンとした顔つきの榎本社長を見て尋ねたという。

「榎本、いくら集まったんだ? いつできるんだ?」「いやぁ、全然だめで…」

そこで社長が一喝した。

「ふざけるな! おまえがやることは金を集めることではないだろ! 1日も早く保険会社を作るんだ。金なら俺が全部出してやる。明日、用意するから!」

一気に開いた道ーーただただ感謝したと榎本社長は振り返る。そうして、その会社から2千万円、加えて義父からは500万円を出資してもらい、07年11月、ついに起業に必要な7500万円を確保するのである。

その3ヵ月後の08年2月、1年以上に及ぶ折衝の末、ようやく関東財務局から少額短期保険事業者としての登録が下りた。やっと事業を開始できる。ところが…「誰も喜ばなかったんです(笑)」(榎本社長)

それほど会社の雰囲気は悪化していた。それでも登録をとった以上はと、共済会時代に同僚だった清水治弘さんや田平恵美子さんにも来てもらい、祝杯をあげることになる。だが、「乾杯」の声は暗く、雰囲気はドンヨリしたまま…そこで後ろ向きの発言ばかりする榎本社長…。

「なんなの、これは!」と田平さんが泣きながら叫んだ。「社長! あなたがしっかりしなくてどうするの!」

保険事業開始と同時に、田平さんは共済会からぜんち共済へと籍を移すが、行く末を案じたという。そんな中、08年4月に「ぜんちのあんしん保険」販売を開始する。

その後、共済会の会員2万人が保険期間の満期を迎えるごとにぜんち共済に保険を切り替えた。その膨大な事務作業にしばらくは土日もなく働き、その頃には榎本社長の精神状態も落ち着き、以前の明るさを取り戻していた。だが、女性社員ふたりは退職することになる。辞める前にこう榎本社長に泣きながら訴えた。

「『新しい会社を一緒に作っていこう』との言葉が嬉しかったし、そういう会社を作りたかった」ーー榎本社長は「彼女らの思いに応えてあげられなかった」と反省する。

だが、ギクシャクしていたのは女性社員だけではない。60代の男性5人も元々、登録までの在籍ということだったので後任が見つかると退職したが、それまでの間は榎本社長が他社から引き抜いた幹部社員が「上から目線ですぐ怒る」ことで対立していたのだ。さらに…

「実は田平と僕も共済会時代から…」(榎本社長)「全然合わなかった…(笑)」(田平さん)という、ふたり。

社長が変わらなければ社員も変わらない

榎本「A社やB社にいた時は外部の人間としての関わりだからそこそこの付き合いができたけど、内部の人間として上下関係ができると仕事に口を出すでしょ。僕は仕事に正確さを期すため、やたら細かかったんですね」

田平「共済会時代、その細かさと奔放な性格とが合わず、『あなたは私の上司なんですか!』と批判したら…」

榎本「『上司だよ!』と口論したよねえ(笑)」

今ではそれを明るく振り返ることができるが、障がい者のための保険という高い理想を掲げても、足元の社内の空気は好転しなかった。そこに転機が訪れたのは、代理店から誘われて出かけた神奈川県中小企業家同友会(以下、同友会)で経営理念の講座を受けたことだった。

同友会は、「良い会社」「よい経営者」「よい経営環境」を実現するために中小企業の経営者が集って研さんをする場だが、この講座が意識を変革させたという。自分に足りないものにここで榎本社長が気づいたのだ。

「経営理念です。それまでは余裕がなかったこともあるけど、この時、初めて自分を見つめ直すことができました。保険会社出身なのでエリート意識もあったし、いかに自分の思いだけで経営してきたかの傲慢(ごうまん)さに気づいたんです」

思い返せば、それまでは社員の給与にしても自分の裁量で決めていた。給与規定もあるにはあったが、他社のコピーで不満の声も少なくなかった。その講座で心に響いたのが「社員を最も信頼できるパートナーと考え、共に育ちあう」経営の実践の必要性だった。

社員を大切にするとは…。例えば、榎本社長は同友会の先輩から幹部社員との対立についてこう批判された。「その人の責任じゃないだろ。追い込んだおまえの責任だろ!」

目から鱗(うろこ)が落ちる思いを覚えた榎本社長は、その瞬間から徹底して人を大切にする会社を築き上げると誓う。自分がなんのために会社を作るのか、どんな思いで会社を経営したいのか、真剣に考えた末に、それを成文化した経営理念が以下である。

“すべての出逢いを尊び 心を尽くし 誰にも優しい社会を創造します”

この実践のため、まず取り組んだのが「自分を変える」ことだ。社長が変わらなければ社員も変わらない。講座終了後、幹部社員を会議室に呼び、詫びた。

「今まで申し訳ありませんでした。一緒にいい会社を作ろうと思っていたのに、それが実現できませんでした。やり直しましょう」

もっとも、一度ぎくしゃくした人間関係が修復されるには至らず、彼は2年前に社を去ったというが…「その人、今はウチの代理店をやっているんです。ここに来た時も『明るい会社になったねえ』と言ってくれた。嬉しかったですね」

続いて、榎本社長はこう明言した。「社員はお客様と同じくらいに大切な存在です」

★後編⇒日本で唯一、障がい者のための保険会社に笑いが絶えないワケ「社員を大切にしてこそ、お客様に優しい会社になれる」

(取材・文/樫田秀樹)