時代と価値観が大きく変わろうとしていると語るモーリー氏。

『週刊プレイボーイ』本誌で「モーリー・ロバートソンの挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、セクハラやパワハラの「#MeToo」に対して、拒否感を表明する声の裏に見える不寛容な"層"について語る!

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写真家の"アラーキー"こと荒木経惟(のぶよし)氏の下で長年、モデルを務めていたKaoRiさんが、セクハラ、パワハラを告発したことが波紋を広げています。彼女の勇気をたたえ、アラーキーを非難する声が上がる一方、逆の声も少なくありません。いわく、自ら望んでモデルになったのに、今さら批判するのはおかしいだろう――。

本件に限らず、「#MeToo」に連動した動きに対し、日本では決まってポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)に対する拒否感を表明する声が上がります。そしてその裏には、あらゆる変化に対して不寛容な"分厚い層"が存在する。やや主観の強い見立てですが、今回はこの"層"について思うところを述べます。

今、時代と価値観が大きく変わろうとしています。変化に取り残された人たちは、息苦しさと違和感を覚えているでしょう。「こんなはずじゃなかったのに」という自己憐憫(れんびん)をエンジンとし、チェンジを望む人々を蔑(さげす)むことで、自尊心を守ろうとする作用が働いていると感じます。

その背景に見えるのは「我慢」です。かつて多くの日本人は、若い頃の我慢と引き替えに"約束された未来"を獲得しました。僕が日本で過ごした中高生時代も、受験のために学生は多くのことを我慢しました。

では、その我慢により犠牲となったものは何か。やや陳腐な物言いになりますが、それは「個性」だと思います。自分が本当に何をしたいか考えるよりブランドや名声を目指し、官公庁や大企業に入るために人々は個性を殺して努力した。当時は上から下まで、社会にそれなりの"割り当て"があり、我慢すれば多くの人が豊かに生きていけたので、それが合理的な選択だったのでしょう。

その犠牲と引き替えの豊かさのなかで、"やり放題"にやって成功したオヤジたちのひとりがアラーキーで、他にも建築、音楽など各分野に同じような人々がいました。彼らが才能を振りかざし、わんぱくの限りを尽くせたのは、豊かさに裏打ちされた文化バブル--80年代から90年代に全盛を迎えた"パルコ的""西武百貨店的"な文化バブルを支持した人々がいたからでした。

でも、当時のような割り当てはもうない。"やり放題"が許容されるはずもない。古い世代が新世代を理解できないのはどの時代も同じですが、今回の問題の核心は単なる世代間論争ではなく、社会の構造そのものの変化です。俺も我慢してきたのに、なぜ割り当てももらえず、変化を受け入れないといけないんだ、こんなはずじゃなかった--そんな被害者意識を持つ人々が、新しい風穴にフタをしようとしているのでしょう。

アメリカでトランプ大統領を生んだ極右運動「Alt-Right(オルトライト)」も、そんな"化学式"から誕生しました。なぜ俺たち白人が、黒人や移民、フェミニストやLGBTのために権利を奪われ、しかも貧しくなるんだ、と。

もちろん日米の社会の背景、諸条件はまったく違いますが、白人を「男性」や「日本人」に、黒人や移民を「女性」や「在日」に置き換えてみれば構造はよくわかります(嫌韓本の大ヒットの理由もここにあると僕は感じます)。力を持ち始めた"弱者"に対する恐怖感と嫌悪感を燃料として、いずれ日本版Alt-Right運動が火を噴く...その可能性が、どうしても頭をよぎってしまうのです。

モーリー・ロバートソン(Morley Robertson) 国際ジャーナリスト。1963年生まれ、米ニューヨーク出身。日テレ系情報番組『スッキリ』の木曜コメンテーター。ほかに『教えて!ニュースライブ 正義のミカタ』(朝日放送)、『報道ランナー』(関西テレビ)、『けやきヒルズ・サタデー』(Abema TV)などレギュラー多数。

■2年半におよぶ本連載を大幅加筆・再構成した待望の新刊書籍『挑発的ニッポン革命論 煽動の時代を生き抜け』(集英社)が好評発売中!

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