(左から)切腹ピストルズの隊長・飯田氏、西方商工会青年部の針谷氏と荻原氏

蔵の街・栃木市の北端にある西方町(以下、西方)。人口約6千人で、65歳以上が3割を超える過疎化が進む地域だが、地元の若者たちの活動が今、注目を集めている。

田舎を都会っぽい新しいもので上塗りするのではなく、その地に伝わる古き良きものを発掘し、現代に伝え、そこに立ち返ろうという取り組み──彼らに言わせれば、「ど田舎、バリバリ出させていただきます」という時代に逆行する活動ともいえる。

その中心にいるのは西方商工会青年部に所属する大工の荻原大輔(34歳)、畳職人の針谷(はりがい)伸一(34歳)ら、西方に生まれ育った職人など10数名だ。

「西方というと、『それ、どこ?』『あ、なんにもないとこね』なんて言われるけど、みんなどこかに『なめんな!』って気持ちは持っている。『いっちょ、かましてやろうぜ』の精神で尖(とが)ったことをやりたがるのが西方のDNA」(針谷)と語るが、その青年部員らと活動を共にするのが飯田団紅(だんこう)である。

昨年3月、週プレNEWSで配信した飯田のインタビュー記事が反響を呼んだ和楽器パンクバンド『切腹ピストルズ』の隊長だが、5年前に東京からこの地に移住し、普段から野良着と半纏(はんてん)をまとって野良仕事に従事。今年は明治維新から150年となる年として騒がしいが、「明治維新のバカ野郎」の反骨精神で江戸時代の庶民の文化を体現する生活を送る。

その両者が邂逅(かいこう)して最初に取り組んだのが半纏作りだった(前編記事参照)

その後、彼らが半纏をまとって始めたことは──。

まず西方の生き字引、中村良一(りょういち)氏に会いに行ったという。70代後半で、元町役場の職員。現役の頃から取り壊しが決まった蔵から古い民具や半纏などを救出し、役所の中の"秘密基地"に保管する活動を続けていた人物で、青年部員らは「りょうちゃん」と呼んでいる。

町の全ての石碑について調べ、まとめ上げたという分厚い冊子を中村氏から見せてもらい、18歳の姿で800年生きたという八百比丘尼(おびくに)様の生誕地とされる西方町真名子(まなご)が、実は日光東照宮と並んで家康公の埋葬候補地に挙がっていたというような話を聞かされ、飯田も青年部員らも目から鱗(うろこ)が落ちたという。

地域の人達で供養を行ない、伝説を偲(しの)んでいる八百比丘尼堂

だが、話をし終えると浮かない表情の中村氏がいる...。

「これまで周囲から変人扱いされ、資料や民具の価値を認めてくれる人も少なくて...自分が死んだら集めたものが全部ゴミになるかもしれないって」(荻原)

こんな面白い人を地域に埋もれさせるのはもったいない。そこで、中村氏を表舞台に引っ張り出すべく『寺子屋』を開催することに決めた。

場所は市民ホールだが、寺子屋感が出るよう畳職人の針谷がフロアを畳敷きに拵(こしら)え、飯田は開会の合図で打ち鳴らす太鼓を用意した。開催当日(17年6月11日)、先生役の中村氏が『八百比丘尼伝説』にまつわる話を披露すると、会場を埋めていた聴衆は釘付けになったという。この後、寺子屋は2回、3回と続く西方の恒例行事となる。

会場を埋めた聴衆が釘付けになった寺小屋

地域で一躍、脚光を浴びる存在になった中村氏も喜んだ。飯田らはその西方の重鎮に『俺が死んだら秘密基地にあるものは全部オマエらに託す』と、半ば脅迫されたことを意気に感じ、蔵を巡って"地域の宝"を救出する活動を引き継ごうと決めた。

行く先々の蔵で見つかるのは、まず野良着だった。

「野良着は江戸時代の庶民の普段着でした。今見ても色とりどりの補修が施されていてお洒落なんだけど、昔は縫製も全部、手作業だから、同じものでも少しずつ見栄えも寸法も違う。お気に入りの一着を修繕しながら着続けていくうちに自分の形になっていって、一張羅になっていくわけです。そこが面白い」(飯田)

"古き良き物"を使って完成させた江戸部屋

この救出活動が始動して3ヵ月も経つ頃には、嗅覚が冴えていった。

「蔵には必ず古箪笥(ふるだんす)があるんだけど、大体その奥にある木箱やカビだらけの風呂敷の中からカッチョいいものは出てくるんです」(荻原)

ある蔵では、こんな雪駄(せった)が見つかったという。

「形や革のなめし方が今のと全然違っていて、鼻緒には藁(わら)が入っていたりする。こんなの見たことない!と思って仲間の雪駄職人に見せたら、どうやら江戸時代のものらしく、『こんなところにあっちゃいけないやつ』だって(笑)。どっかの博物館に持って行ったほうがいいらしいんですけど、地域の証拠品として今もここにあります」(飯田)

地域の証拠品として見つかった雪駄

「知れば知るほど、面白い土着のものがわんさか出てくる」(飯田)のが地域の蔵。その蔵を見かけるだけで「中から声が聞こえる」(荻原)ほどになり、持ち寄っていくうちに飯田の家に設けていた仮置き場が満杯になると、活動をセーブせざるをえなくなった。

そこで飯田の家の敷地にある古い納屋を改造し、新たな保管場所を作ることにした。今、流行りの古民家再生にも似ているが、改装を手がけるのは地元の職人で、なおかつ建材から家具、畳、1本のビスに至るまで、地域の廃材や蔵からの救出品を使用するという点で一線を画する──いわば、"地産地消の古民家再生"ともいえ、それが『江戸部屋』と彼らが呼んでいるものだ。

地域の廃材や蔵からの救出品を使用して作られた江戸部屋

江戸部屋作りに着手する荻原氏(左)と針谷氏(右)

これにもまた、西方の若手職人が"これぞ職人仕事だ!"と奮い立った。

まず大工の荻原が木材を発掘・吟味して小上がりを組み、その上には畳職人の針谷が由緒ある寺から引き取ったという藁床(わらどこ)の畳を修復して敷いた。現代の新築住宅に出回る畳は、針谷に言わせれば「藁を1本も使わない"畳"」。稲藁(いなわら)を何層にも積み重ねて圧縮する藁床に、い草を編み込んだ畳表をかぶせるという100%天然素材の畳を再現した。

元々、窓もなかった土壁には、荻原が光取りと眺望を熟考した上で木製の古い窓を移設。さらに、江戸部屋に祀(まつ)られる神棚は元々、山に捨てられていた祠(ほこら)で、荻原が傷んでいる箇所を修復、再びゆかりのある神社のお札を張って祀った。

雨ざらしで捨てられていた祠を修復し、神棚として祀った

細部へのこだわりも強い。例えば、電気の配線には戦後以降、建築様式の変化で姿を消しつつある碍子(がいし)を使用。電気技師の青年部員が現場で見つけて保管していたという白い陶器製のレトロな碍子に電線を張り巡らせた。ネジやビスも全員が「当然でしょ」とばかりに今や絶滅危惧種に近い存在となった「-(マイナス)」のものを使用している。

姿を消しつつある白い陶器製の碍子

その働きを間近に見ていた飯田はこう話す。

「彼らは毎日、本業の仕事を終えた後、小躍りするようにここにやって来ては楽しそうに江戸部屋を作っていました。その手に持つのは、効率重視の現代の工法では廃棄されるような材料ばかり。実は彼らも、以前から静かに救出していたんです。僕が野良着を着るのも一緒で、近代化の中で洋服に取って代わりましたが、本来は何百年という月日の中で培ってきたこちらの形のほうが日本人にはしっくりくるはずなんです」

田舎には「こんなお宝があるんだぜ!」

こうして地元の"古き良き物"を使って完成させたこの建物は、地域で見つかる野良着や道具の保管場所に加え、寄合いの場や来客者用の宿としても活用することになった。

青年部と飯田が出会ったものの中で、一番驚いたのは60~70枚に及ぶ襖(ふすま)だという。いつの時代のものかは調査中というが、すべての襖の片面に鶴、もう片面には虎の身体の一部が描かれている。これを横一列に並べると、鶴が空を飛び交う1枚の絵が出来上がり、パタンと裏返せば、迫力ある虎の絵に変わるという仕掛けだ。

江戸時代から大正時代にかけて一部の地域で盛んだった農村芝居の背景画に使われていたらしい「襖からくり」の一種で、その襖絵が60~70枚も出てくるというのは全国的にも珍しいそうだ。前出の中村氏がひそかに救出していたものだが、西方に眠っていた貴重な文化財を見せられ、驚愕するほかなかった。

西方の若手職人が作り上げた江戸部屋

そして、彼らは──。

これが他の地域なら役所のロビーや民俗資料館に展示されて終わり...だったかもしれないが、西方のDNAがそれを許すはずもない。「ここはいっちょ、かましてやろうぜ!」と、地域で人気のお祭り『ど田舎にしかた祭り』でお披露目しようと画策する。

この祭りは毎年12月に「道の駅にしかた」と、裏の田んぼに設けられた特設会場で開かれる。芸能やお笑いライブ、ちびっ子相撲やトラクター試乗体験などで盛り上げるのが例年の流れだったが、昨年は江戸部屋を手掛けた職人衆が集まり田んぼの真ん中に農村舞台を復元、襖絵をサプライズで披露し、来場者をアッと驚かせた。

ど田舎にしかた祭りで披露された「襖からくり」の一種

「会場を訪れていた市長でさえ、こんなものが西方に眠っていたことなんて全然知らなかったから、かなり驚かれていましたね。西方の議員さんも『キミたち、これどうしたんだ? どこで買って来たんだ!?』って信じられない様子で(苦笑)」(荻原)

さらに飯田の号令で全員集合した切腹ピストルズが農村舞台でライブを披露し、乱痴気騒ぎ──人口と同じ6千人を動員し、例年にない盛り上がりを見せたという。

農村舞台で演奏をした切腹ピストルズ

こうした活動を経て、「西方がはっきりした」と荻原と針谷は感じている。

「半纏を着るようになって、ラーメンより蕎麦を食うようになったし(笑)、青年部の寄合いでは土着のものに寄せた提案しか出なくなっている。江戸部屋を取り上げてくれるメディアも増えました。

別に有名になりたいわけじゃないけど、西方の歴史や文化財の価値が見直され始めている点は嬉しくて、近々、東京の某博物館の館長が直々に視察に来るという話で町はちょっとした騒ぎになっています。でも、俺たちはずっと前から目を付けてたんだぞ!って、つまんない優越感に浸っているわけですが(笑)」(荻原)

「今までは地域で活動する僕らを『また何かやってる』と冷めた目で見る人も少なくなかった。でも、ど田舎にしかた祭りの準備をする頃から青年部以外のサラリーマンの先輩とか後輩とか...仕事帰りにスーツ姿でふらっと田んぼに来て、舞台の設営を手伝ってくれる人が増えていったんです。

地元愛に飢えていたような人たちが、『なんか面白そうだ』とひとり、またひとりと自発的に参加してくれるようになって。老若男女関係なく、地域のことなんだから、みんなでやろうよって雰囲気が芽生えてきていることが嬉しく思いますね」(針谷)

生き方を考え直す時期に来ている

とはいえ、容赦ない過疎化と高齢化の波は押し寄せている。

飯田が住む集落では「子供がウチの子しかいなくて、小学校の送迎バスが来なくなった」ことがその一例で、最近は「山仕事してたあそこの爺さんが入院した」「あそこのお宅のご主人は亡くなった」などと会話を交わす頻度も増えている。「5、6年後、この辺りは空き家だらけになっている...」(飯田)という危機感がリアルな問題になってきているのだ。

地域の活動でどうこうできるレベルの話ではないが、「僕たちだけ楽しい思いをして、子どもや孫の世代が苦しむみたいなのは絶対にイヤ」(針谷)というのが青年部一同の共通する思いでもある。

そこで今、着手していることのひとつが2軒目の江戸部屋作り。

町の飲食店店主が所有する長屋の空き家で、夏までには完成するそうだが、飯田らは「町の空き家をどんどん江戸部屋として蘇らせ、移住者を呼び込むようなことをしていきたい」と考えている。

前述したが、今年は"明治150周年"の年。全国各地で政府や自治体主催の祝賀イベントが開催されているが、彼らが推進しているのは、近代化の起点ともなった明治という時代をも突き抜けんとする取り組み──それが、西方の"ど田舎化"である。

「江戸時代の庶民に伝わっていたはずの文化や伝統や地域の繋がりは近代化の流れの中で縁遠いものになってしまいましたが、そこにこそ日本人の身の丈にあった"方法"というものがあるはず。だから『明治150周年』とか浮かれている場合じゃなくて、これを機に生き方を考え直す時期に来ているんじゃないかって思うんです。

西方では今、"ど田舎感"を前面に押し出し、さらに磨きをかけているところですが、その原動力になっているのは『西方にはこんなお宝があるんだぜ』っていう、田舎特有の気概やノリだったりする。それは株価が暴落しようが大地震に襲われようがビクともしないものですよ」(飯田)

(取材・文/興山英雄 撮影/利根川幸秀 写真提供/針谷伸一 荻原大輔)

●西方寺子屋「第四話 感じる西方城」が6月17日(日)に開催! 詳細は『ど田舎にしかた』公式サイトにて。