『コードギアス』『無限のリヴァイアス』『プラネテス』など、数々の話題作を手がけた谷口悟朗さん

2017年に誕生から100周年を迎えた日本のアニメ――。日本が世界に誇る一大コンテンツのメモリアルイヤーを記念して、週プレNEWSでは旬のアニメ業界人たちへのインタビューを通して、その未来を探るシリーズ『101年目への扉』をお届けしてきた。

第9回は、アニメ監督の谷口悟朗さん。『無限のリヴァイアス』『プラネテス』といった話題作を手がけた後、2006年にTVシリーズの『コードギアス 反逆のルルーシュ』が大ヒットを記録。16年には放映から10周年を記念して、劇場版総集編3部作とそれに続く完全新作の発表も行なわれた。

3部作の最終作『コードギアス 反逆のルルーシュⅢ 皇道』が5月26日より公開中の今、あらためて『コードギアス』という作品について振り返っていただいた。

■ルルーシュは「正しいヒーロー」

―『コードギアス』はシリーズの内容を再構成した劇場版3部作に加え、完全新作となる『復活のルルーシュ』の制作も決まっています。初放映から10年以上が経つにも関わらず、なぜこんなに支持されると分析されていますか?

谷口 ふたつあると思います。まずは長期のシリーズ展開も見込めるものにしてほしいというオーダーだったということです。そのため、大河内一楼を始めとする脚本家のチームとも話して、時代で消費されない、骨太な物語構造を探そうということで、長い時間に耐えて残ってきた普遍的な物語を世界中から探っていきました。短い期間で消費される物語を否定するつもりはありません。それはそれで必要なものだと思います。ただ、今回のオーダーはそういうものではなかったということです。それが功を奏したのだろうと。

もうひとつは、そういうオーダーをしたプロデュースチームがシリーズとしてきちんと長く続くようにしようとプランニングして動いてくれた。ここまで続いてこられたのは営業の方もひっくるめたプロデュースチームの動きがあってこそだと思います。作品は両方の車輪が回らないと長く続いていかないんですよ。もちろん、ファンの方々の支持があった上でですけどね。

―その「普遍的な物語構造」として見出したものはどんな要素だったのですか?

谷口 『反逆のルルーシュ』篇に関していえば、社会的に虐(しいた)げられている主人公がなんとしても自分の居場所を確保しようとする。そのために必要であれば世界を滅ぼしても構わないくらい頑張るのだというが大きな柱で、ここは絶対にズラさないと決めていました。

変化を加えたとすれば、通常の立身出世ものの作品は、物語が進むに従って主人公が有名になっていくんですが、この作品は構造上、物語の途中まで主人公は仮面を着けて記号として動くしかないところですね。

―主人公のルルーシュ・ランペルージはオーソドックスなヒーロー像である「正義の味方」とは違う複雑なキャラクターとして描かれています。こうした「ダークヒーロー」のようなキャラクター造形はどこから生まれたものだったのでしょう?

谷口 私としては「正しいヒーロー」という感覚でルルーシュを捉えています。虐げられていた人物が這(は)い上がろうとする時、当然、最初は支持してくれる人がいるわけではないですよね。しかし行動していくと自然に仲間ができていく。さらには、自分が知らないところでも支持が広がっていくということが起こるわけです。つまり、社会的に「責任」というものがついてくる。

こうした自分が望んで背負ったわけではない責任というものに対して、キャラクターは「知らないよ」と言うこともできると思うんです。しかしルルーシュは責任を捨てることができなかった。

そもそもヒーローという存在は何か? 私の考えでいうと「私がヒーローです」と立候補するだけではダメで、第三者が認めてくれない限りは成り立たない存在だと思います。そこには当然、責任が生じます。その意味で責任を背負うことを決めたルルーシュは間違いなくヒーローだと思っています。

「挑戦という意識はない」

■「挑戦という意識はない」

―しかし、時にルルーシュは非情に仲間を切り捨てたりしますし、最終的には元々「何があっても守る」と決めていた妹のナナリーとも決別してしまいます。こうした行動の背景にある彼の思いとは?

谷口 責任を背負わなければならなくなったことで行動の目標がズレていったという風に捉えていました。妹に関しては作品の中でルルーシュにも言わせていますが、本人が自立した以上は、もはや自分が彼女の意志に介入する必要はないという判断です。

ルルーシュというのは本来、相手の人権をすごく大事にする人物です。ただ、人を操る「ギアス」という能力が手に入った時、結果的に相手の人権を踏みにじる行動をとってしまった。物語を通じて自分のそうした行為を反省し、その苦い経験を踏み台にして成長を遂げていきます。その過程で次第に自身の目標が変わっていったということです。

―これは作品のネタバレに関わることなので、すでに知っている人にだけわかるようにお聞きしますが、結果的にルルーシュは自身の行為の責任を引き受ける決断をしたから、あのラストに至ったというわけですね。

谷口 そうです。自分なりの責任のとり方としては「これしかないだろう」と判断したということですね。これは私の作り方なんですが、基本的にキャラクターは成長するものだと思っています。成長するがゆえに、行動の結果によって考え方も変わっていく。これは長期のシリーズを前提にしたタイプの作品ではタブーとされている作り方です。『反逆のルルーシュ』篇は最初から「ここで終わり」と放映期間の区切りが決まっていたので、そこに向かってキャラクターの成長を組み立てていくことができました。

―『コードギアス』は異色のヒーローものというだけでなく、その周囲のキャラクターもしっかりと描いたり、重要な人物があっさりと死んでしまったりとかなり挑戦的な内容だったと思いますが、こうした展開は狙ったものなのでしょうか?

谷口 挑戦という意識がほとんどないんですよね。当たり前のことだから。まず前提として、この業界でご飯を食べている限りは、預かった制作費はなんらかの形でお返ししなきゃならんと思っています。それが金なのかそれ以外のものなのかは置いておいて…。ただ、同時に偉い人の言うことだけを聞いて作っていくのであれば、私がいる必要はないよねっていうのもあるわけです。

もちろん、プロデュースサイドの理屈は私もプロですからわかっています。でもね、時代や制作の都合に合わせて作るのは、もっと得意な人が他にいるでしょう?

監督になったばかりの頃の作品に『スクライド』がありますけど、あの時は時代が美少女ものに移りつつありました。私としては「今、売れたければ女のコのパンツ見せたほうがいい」というのはわかっていて(笑)、でも「自分は『空手バカ一代』みたいなものがやりたい」ということで真逆のものを撮ってしまった。あの時は女のコのパンツなんかより殴ってるとこが見たかったんだからどうしようもないですよ、そういうの(笑)。

「こうすれば売れる」というのはわかりますし、実際にそれをやれというオーダーがきたら真面目に考えます。ただ、幸か不幸かそういうオーダーが私のところにはなくて「何か面白いことやってよ」という話ばかりで今までやってきたというわけです。

罠にハマった先輩たちを見てきた

■罠にハマった先輩たちを見てきた

―しかし、「挑戦という意識はない」というお話でしたが、『コードギアス』に限らず、谷口監督の作品はいつも意欲的なテーマが込められているように感じます。

谷口 後から言われて「そうかもしれないな」と思うことはありますが、似たような作品はあまり作らないようにはしています。

―ご自身としては意識していない、と?

谷口 ええ。私が最も影響を受けた監督は高畑勲さんなんです。高畑さんはいろんなタイプの作品を手がけられていましたが、それがよかったんだと思っていて、ずっと決まったジャンルの作品ばかりというのは表現者として何かの幅を狭めてしまうのではないかと危惧しています。そのジャンルの専門家だと思われてしまうということが起きるんですね。

あとね、怖いのが罠。90年代からファンの声がネットに上がり始め、直接、制作側が見られるようになってきました。それまでアニメのスタジオというのは熱烈なファンレターくらいしかお客さんの反応を知る手段がなくて、つまりファンの声といえばラブコールを送ってくれることだったわけです。しかし90年代になると、パソコン通信あたりをきっかけに「このアニメはクソだな!」というマイナスの感情がまずぶつかるようになってきた。

結果、作り手のほうも自分のファンに向けて次を作るようになる人が出てきました。そうすると、どんどん作品が狭くなってしまうわけです。これをベテランの方がやるんだったらまだわかります。ひとつの味としてね。ところがデビューしたばっかりの若手監督がそれをやったらダメじゃないですか。もうちょっといろんなことをやろうよって。

私はその罠にハマった先輩たちを見てきたんですよね。それで自分としては、常に違うジャンルのものをやろうって心がけるようになりました。そこから結果的に共通した部分がたまにあるみたいで、それが自分の中にある「何か」なんだろうなとは思います。

―先ほどルルーシュを「社会の底辺から這い上がってくる存在」と説明されましたが、そういうキャラクターを描いた作品が比較的に多い印象もあります。

谷口 それでいうと、私は文化庁の賞みたいなものをひとつもいただいたことがなくて、なんでだろうと考えてみたんですが、「主人公がテロリストかその関係者な場合が多いから、それがいかんのかな」と(笑)。特に意識したわけじゃないんですけど、自分の作品のキャラクターは社会的にあかんところから始まるからそうなってしまうのかもしれない。それが共通する「何か」かなとは思いましたね。でも、それにこだわる気もないですけど。こだわってしまったら、それはもはや内在的なテーマではない。ビジネスです。

エンターテインメントのあり方

■エンターテインメントのあり方

―もうひとつ、谷口監督の場合は初期の『無限のリヴァイアス』や出世作となった『プラネテス』、そして『コードギアス』もそうであるようにロボットや宇宙といったSF的な要素と集団劇を掛け合わせるのが見事で、これもご自身の作風なのかなと。

谷口 「社会ってそういうものだよね」とは思っています。主人公の思惑とは別に、他の人は他のことを考えて、主人公の意図通りには動かない。そういうものじゃないのかと。だから反対にある種のライトノベルはよく理解できるんです。

―ライトノベルですか?

谷口 構造として真逆だから。日常で苦しんでいる人が、小説を読む時まで苦しい思いをしたくない。それで社会という余分な要素を落とすんだろうなと理解しています。

―いわゆる「セカイ系」のことですね。

谷口 そうですね。そこに法律がどうとか道徳がどうとか過剰に入れ込んでいったら、写実的ではあるかもしれないけど邪魔じゃないですか(笑)。そういう気持ちはわかるということです。ただ、やっぱり私は「社会」というものを考えちゃうタイプなんですね。そこを抜きにしてやるとしたらコメディくらいしかない。

―つまり、ラノベ的なものを否定しているのではなく、あくまでも谷口監督のタイプとして社会を描いたものに惹かれる?

谷口 そうです。昔、エロゲーをいくつか作った有名なプロデューサーの方とお話した時に「なぜ純愛のエロゲーが売れるのかよくわからない。鬼畜系のほうがまだわかる」と言ったら、「キミはね、幸せなセックスをしているからそういうことが言えるんだ」と怒られて。彼が言うには、「世の中の男はセックス以前に女性と話したり、手を繋ぐことすらできない。しかし、オレのエロゲーであれば純愛を経験して、なおかつセックスまでできるんだ」と言われて、「そうか!」と。

そこで思いだしたのが学生時代の話。新聞配達をしていたんですけど、販売所の30代の先輩がスナックに連れて行ってくれたりしたんですよ。でも、当時は何が楽しいのかさっぱりわからなかった。しかし、エロゲーのプロデューサーに説教された時に「そうか、こういう環境で働いている人たちは若い女のコと話をする機会すらないんだ。だからスナックに行くんだ。エンターテインメントとは、つまりそういうことなんだ!」と気が付いて(笑)。

―「オレはわかったぞ!」と(笑)。

谷口 全部入ったみたいな。間違ってる気もするけど(笑)。それまで私は今村昌平さんの学校(日本映画学校。現在の日本映画大学)で実写の勉強をやっていたのにアニメ界に来ちゃったりとかで仕事と理想の着地点を探っていたんですけど、エンターテインメントがなんのためにあるのかやっときっかけがわかったんです。

ただ、ここにはもうひとつあって。エンターテインメントはお客さんが楽しむためではあるんだけど、やはり作り手にとってもエンターテインメントでなければイヤだよねっていうのもあるわけです。それは何かって言うと「まず私が楽しくなきゃダメじゃん」ということです。

そうやって考えていった時に、先ほどの社会の集団を描くというのが売れる要素なのかそうではないのかということはひとまず置いておいて、それは私にとってのエンターテインメントでは間違いなくあるわけです。だとするならば、「それはやめてくれ」というオーダーがなければ、わざわざ捨てる必要はないよねと思っています。

―では、こだわっているというわけではなく、オーダーがきたらそれはそれで考えると。

谷口 ええ。悩むと思うけど考えますよ、間違いなく。

―そもそもオーダーが来ないだけだと。

谷口 そういうことです(笑)。

●第2回⇒『コードギアス』谷口悟朗監督が警鐘を鳴らす「アニメ業界の幼稚性はここまできた」

(取材・文/小山田裕哉 撮影/山口康仁)

■谷口悟朗(たにぐち・ごろう)1966年生まれ、愛知県出身。アニメーション監督、演出家。『コードギアス 反逆のルルーシュ』では監督・ストーリー原案・絵コンテを担当。監督としての主な作品に『スクライド』『プラネテス』『アクティヴレイド』『ID-0』などがある

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