メディアが膨大な時間を割いて報道する理由は「視聴者もメディア自身も一連の政治スキャンダルに退屈しているから」と指摘するマクニール氏

日大アメフト部による「悪質タックル」事件は騒動が拡大し、日本大学そのものの体質が問われるまでになっている。

ニュースや情報番組は連日、森友・加計問題や米朝首脳会談の報道と同程度かそれ以上の時間を割いてこの問題を伝えているが、外国人記者の目にはどう映っているのか? 「週プレ外国人記者クラブ」第119回は、アイルランド出身のジャーナリスト、デイヴィッド・マクニール氏に話を聞いたーー。

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─最初にあの悪質タックルを見た時、マクニールさんはどう思いました?

マクニール 明らかに汚い反則行為で、後方から足をすくわれた選手を気の毒に思いました。日本大学の対応は皆さんが指摘しているように酷(ひど)いものです。これまでも日本のあらゆる組織で同じような事例を見てきました。こうした事件が起こると、発覚後すぐに事実関係を明らかにして落ち度を認めるよりも、まず本能的に隠蔽(いんぺい)しようとすることがよくありますよね。

─問題の本質は、内田監督からの指示があったかどうかもですが、タックルをした宮川選手が精神的に追い詰められ、指示を拒めないという歪んだ関係にあるともいえます。欧米のスポーツ界にも「上の言うことには絶対服従」という厳しい上下関係は存在するんですか?

マクニール アメリカでは過去に同様のスキャンダルがありました。2015年、テキサス州の高校アメフトの試合でジョン・ジェイ高校の選手が試合中、立っているレフェリーに背後からタックルし、さらに別の選手が倒れたレフェリーの体の上に頭からダイブしたという事件です。

このレフェリーは、その直前にジョン・ジェイ高校チームの選手ふたりを退場にしたのですが、それに腹を立ててのことだと当該選手たちは話しています。プロのレフェリーが加盟する全米レフェリー協会でさえ、過去にこうした行動は見たことがないと発言しました。問題の選手は部活動だけでなく高校も停学になりましたが、「タックルはコーチの指示だった」とも主張していました。

コーチからの厳しいしごきが原因で、若いアスリートがスポーツへの意欲を失ったり、試合を楽しめなくなったりすることはよくあります。アメリカでは極端なしごきが目立つコーチの見分け方を学ぼうと呼びかけているウェブサイトがあるほどです。そこではスポーツ選手としての自信や目標、自尊心、動機、喜びが損なわれないよう、コーチに対してどう物申していくかを学ぼうと促(うなが)しています。

ヨーロッパのスポーツ界では、これと同じような事件は記憶にありません。マンチェスター・ユナイテッドのアレックス・ファーガソン監督は選手の動きを徹底的にコントロールすることで知られていましたが、選手たちは彼のしごきに抵抗していました。しかし、日本に顕著なのは若年男性が年長の男性の機嫌を窺い忖度(そんたく)する…それが歪んだ上下関係を形成してしまうのではないでしょうか。

―昨年から大相撲の暴行事件、レスリングのパワハラ事件、そして今回のアメフトとスポーツ界の不祥事が続いていますが、これらに共通するのはやはりそういった上下関係の存在でしょうか?

マクニール そう思います。日本社会では、指示系統がトップダウンになりがちです。私は現在、日本の大学で教えていますが、学生たちは目上の人の話を行儀よく聞くことには長(た)けていますが、独自の意見を持たず、意見があってもそれを他人と共有しようとしない、あるいは共有することができない。マジョリティに協調するという柔軟性は持っていますが、教員としてはもどかしさを感じています。

スポーツ界では特にこの傾向が強いため、いじめやハラスメントに繋がることが多いのでしょう。監督やコーチは選手を管理し拘束しようとします。日本では目上の者への忠誠心や自己犠牲精神などが尊ばれますが、それには利点もある一方、あまりに規律の厳しい主従関係は時代錯誤で危険な関係でもあるというのが私の意見です。

宮川選手が内田監督や井上コーチにNOと言えなかったのも、権威ある者に服従するという古い慣習にアメフト部が縛られていたからでしょう。日本では多くの場合、スポーツに限らず、学校や職場においても教師や上司は絶対的な存在という厳格なヒエラルキーが存在します。

自分の良心や尊厳を捨てたとしても、上司に忠誠を誓うことで勝利することもあります。日大の選手にとっては内田監督の存在は絶対でした。だから反則だとわかっていてもNOと言えずに、あのような行為に及んでしまったのでしょう。

まさに政界で起こっている事件の鏡

―ところで、他に大きな話題もある中で、ニュースや情報番組はアメフトの問題に時間を割き過ぎだと思いませんか?

マクニール まさにそうですね! メディアがこのスキャンダルに膨大な時間を注いでいること自体が驚きです。信じられません。アメフトは日本でもほんのひと握りの人しか視聴しないスポーツなのに、夜の報道番組でも何回もトップニュースとして取り上げられているし、先週あるニュース番組はこれについて12分間も放送していました。世界中ではもっと深刻な問題が日々起こっている。そこに時間を当てるべきではないですか? メディアというリソースの無駄遣いです。

それなのに、なぜここまで報道するのか…その理由のひとつは、メディアの競争意識と「群がる」習性です。どの報道機関もこの問題で他メディアに遅れをとることを恐れています。もうひとつは、視聴者もメディア自身も一連の政治スキャンダルに退屈しているからです。ひとつの試合の中での反則プレーが日大そのものへのバッシングに繋がっているのは過剰反応だと思いますし、問題の本質を見失うのではないかと懸念しています。

―内田監督は反則行為の指示を否定したまま責任をとって辞任しました。「誤解」を与えたことは詫びるけれど、疑惑は否定し事実関係をウヤムヤにするという、このパターンは昨今の「釈明・謝罪の流儀」になっていて、政治の世界でもすっかり見慣れた光景になりました。

マクニール 日本社会では、事実を明らかにしないことが社会的な摩擦を軽減する手法になっていると思います。言葉と言葉の合間に膨大な空間があり、忖度に代表される言語によらないコミュニケーションこそが日本の諸問題の根底にある。

例えば、日本では行間を読まなければ、政治家の発言の意味を理解できないという声をよく耳にします。家庭内でも、家族がお互いに向き合うことを恐れて多くの問題を語ろうとせず、未解決で放置するというのはよくあることでしょう。そして悪質タックル事件をメディアがこれほど大きく取り上げているもうひとつの理由は、この問題がまさに政界で起こっている事件の鏡だからです。

安倍首相は園児に教育勅語や愛国的スローガンを唱えさせるような森友学園の元理事長との甘い関係を否定し続け、長年の友人のために加計学園獣医学部を開設するよう官僚を直接促したことはないと主張し続けている。

世論調査では安倍首相の主張を信じる人は少ない。それなのに、このアメフト事件のように責任の所在を特定できずにいます。そして結局、最も権威ある人間が、自分が発した言葉の責任をとらずに済み、得をするという構造があるのです。

(取材・文/松元千枝 撮影/長尾 迪)

●デイヴィッド・マクニールアイルランド出身。東京大学大学院に留学した後、2000年に再来日し、英紙「エコノミスト」や「インデペンデント」に寄稿している。著書に『雨ニモマケズ 外国人記者が伝えた東日本大震災』(えにし書房刊 ルーシー・バーミンガムとの共著)がある