北海道や東北地方を除く100台限定という控えめな計画で発売されたフェローバギィだったが、実際の生産台数は100台にも満たなかったとの説もある北海道や東北地方を除く100台限定という控えめな計画で発売されたフェローバギィだったが、実際の生産台数は100台にも満たなかったとの説もある

連載【迷車のツボ】第5回 ダイハツ・フェローバギィ

世界で初めてのガソリン自動車が生まれてすでに140年以上。その長い自動車史のなかには、ほんの一瞬だけ現れては、短い間で消えていった悲運のクルマも多い。

自動車ジャーナリスト・佐野弘宗(さの・ひろむね)氏の連載「迷車のツボ」では、そんな一部のモノ好き(?)だけが知る、愛すべき"珍車・迷車"たちをご紹介したい。

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■フェローシリーズのイメージリーダー

というわけで、今回取り上げるのは1970年2月に正式発表、同年4月に発売されたダイハツ・フェローバギィだ。

フェローバギィは、まず1968年の第15回東京モーターショー(以下、東モ)でお披露目。そのベースとなった「フェロー」は、前年の67年に発売されたばかりのダイハツ軽乗用車で、翌68年にはバンやピックアップなどの商用車も追加された。そんなダイハツが社運を賭けたフェローシリーズのイメージリーダーとして参考出品したのが、フェローバギィというわけだ。

このとき出品されたフェローバギィには3種類あって、高出力エンジンでオンオフ両方の走りを意識した「スピード」と、座席部分のボディサイドが大きく切り欠かれた「ビーチ」、そして、より低速型エンジンを積んでオフロード風味を強めた「カントリー」があった。

低速型エンジンを積んでオフロード風味を強めた「カントリー」低速型エンジンを積んでオフロード風味を強めた「カントリー」

バギィ(=バギー)とは英語の"buggy"のことで、そもそもは1、2人乗りで屋根もない軽装馬車を指す言葉だった。その後、自動車の発展に伴って使われなくなっていたが、1960年代に入って、アメリカ西海岸を中心に砂漠や海岸などで楽しむレジャーカーが誕生。それらが「デューンバギー(あるいはビーチバギー)」と呼ばれるようになった。

■アメリカのデューンバギーが"元ネタ"

デューンバギーは、アメリカで大ヒットしていたVWビートルの廃車などから、ボディだけを取り去って走り倒す遊びから発展した。当時のアメリカでのビートルは小さくて安価なのが特徴であり、また空冷エンジンを車体後方に搭載して後輪を駆動するというシンプルな構造が、そういう無邪気なクルマ遊びに適していたわけだ。

フェローバギィの"元ネタ"も、アメリカのデューンバギーなのは明らかだった。実用シャシーにプラボディをかぶせた構造、屋根もドアもないフルオープンスタイル、丸みを帯びたクラムシェル(貝殻)フェンダー、真っ平のフロントウインドウ......と、フェローバギィのツボの数々は、まさにデューンバギーの典型的なそれだったからだ。

日本だけでなくヨーロッパにも第二次世界大戦の影響が残っていた当時、アメリカ文化はまさに世界最先端。その象徴ともいえたデューンバギーに当時の日本人のツボはビンビンに刺激されたようで、この時期の東モには、ダイハツのみならず、マツダ、三菱、スズキ、スバルなどもこぞって"バギーもどき"を持ち込んでいた。

そのなかで唯一、市販にこぎつけたのがフェローバギィだったのだ。東モでのお披露目から1年半後、ほぼそのままのカタチで100台限定で発売された。参考出品では3種あったバリエーションのうち、市販型は細部のデザインが「スピード」に近く、エンジンが「カントリー」に準じる控えめタイプだった。

フェローバギィの土台となった「フェローピックアップ」フェローバギィの土台となった「フェローピックアップ」

ただ、ダイハツの場合、土台となった「フェローピックアップ」がフロントエンジン車だったこともあり、リヤエンジン車のビートルをベースとした元祖デューンバギーより、フロントフードが明らかに高かった。

そのあたりが良くも悪くも独特で、元祖よりもビミョーにドンくさい(失礼!)デザインだったのは否めない。まあ、好意的に見れば、そこが犬っぽくて愛らしいといえなくもないけど。

■1970年は、「軽レジャーカー」のビンテージイヤー

ところで、フェローバギィが発売された1970年は、今から振り返ると、「軽レジャーカー」のビンテージイヤーともいえる年だった。

4月のフェローバギィに続いて、同年5月にはスズキから初代「ジムニー」、そして11月には以前ここでも紹介した「バモスホンダ」......という3台が、この年に発売されたのだ。バモスホンダも、デューンーバギーから着想を得たことは容易に想像できた。

バモスホンダもデューンーバギーから着想を得たバモスホンダもデューンーバギーから着想を得た

フェローバギィの販売計画は東モでの初公開時には明かされなかったが、ダイハツは当初から販売するつもりだったらしい。実際はそこから1年以上も遅れての発売となり、それは運輸省(当時)の認可が難航したのが最大の理由だったようだ。安全性はもちろん、このような「ただのオモチャ?」にしか見えないクルマが、税金で優遇される軽自動車として認められにくい時代でもあった。

そんなフェローバギィも最終的には登録上は「軽トラック」のあつかいで認可された。当時のプレスリリースには「多様化する軽乗用車需要に対応する~(中略)~レジャー時代のパーソナルカー」と自己紹介しつつも、その直後に「業務用車としてまで、幅広い用途に供せられる」と、あくまでトラックであることを念押しする記述があるのは、いかにもこの時代らしい。

最初から北海道や東北地方を除く100台限定という控えめな計画で発売されたフェローバギィだったが、実際の生産台数は100台にも満たなかったとの説もある。つまりは、売れ行きははっきりと芳しくなかった。やはり当時の日本では「遊べる軽」は早すぎたのか。

ただ、よく考えると、今に残る自動車メーカーが本格的に市販化した"軽オープン2シーター"はフェローバギィが初めてで、歳月は流れて今現在、手に入る唯一の軽オープン2シーターも同じダイハツのコペン......というところに、なんか運命を感じないでもない?

今現在、手に入る唯一の軽オープン2シーター「コペン」今現在、手に入る唯一の軽オープン2シーター「コペン」

そんなフェローバギィは結果的には迷車というほかないが、そこに込められたつくり手の情熱はとことん熱い。今は衝突安全試験の不正で揺れるダイハツだが、この時代の熱い気持ちを思い出して、信頼回復につとめてほしい。ともあれ、迷車と名車は、ほんのちょっとツボがずれただけの紙一重だ。

【スペック】
ダイハツ・フェローバギィ 1970年
全長×全幅×全高:2995×1290×1400mm
ホイールベース:1940mm
車両重量:440kg
エンジン:水冷直列2気筒2サイクル・356cc
変速機:4MT
最高出力:26ps/5500rpm
最大トルク:3.5kgm/4500rpm
乗車定員:2名
車両本体価格(1970年発売時)37万8000円

●佐野弘宗(さの・ひろむね) 
自動車ライター。自動車専門誌の編集者を務めた後、独立。国内外の自動車エンジニアや商品企画担当者、メーカー役員へのインタビュー経験の豊富さには定評があり、クルマそのものだけでなく、それをつくる人間にも焦点を当てるのがモットー。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員

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