「私を男にしてください」と土下座し、取引先に値上げを頼み込む。そんな営業が昔は実際にあった。では、久々の物価上昇局面を迎えた今の日本において、最新の「値上げ交渉」の現場はどうなっている? 「私を男にしてください」と土下座し、取引先に値上げを頼み込む。そんな営業が昔は実際にあった。では、久々の物価上昇局面を迎えた今の日本において、最新の「値上げ交渉」の現場はどうなっている?
あらゆるメディアから日々、洪水のように流れてくる経済関連ニュース。その背景にはどんな狙い、どんな事情があるのか? 『週刊プレイボーイ』で連載中の「経済ニュースのバックヤード」では、調達・購買コンサルタントの坂口孝則氏が解説。得意のデータ収集・分析をもとに経済の今を解き明かす。今回は「値上げ交渉」について。

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年収を10倍にする方法を教えよう。と、昔の橘玲(たちばなあきら)さんみたいな書き出しで始めてみた。橘さんすみません。方法は、あなたが売る商品の価格を10倍にすればいい。現在は値上げがトレンドだ。ただ現実的には顧客との交渉をためらうかもしれない。現場で何が起きているだろうか。

話題のドラマ『不適切にもほどがある!』は1986年が舞台だ。阿部サダヲさん主演で宮藤官九郎さん脚本の同作品について説明は不要かもしれないが、登場人物が約40年のタイムスリップを繰り返すことで文化と常識のギャップをコメディとして描く。過去人は現代に、現代人は過去に驚く。印象的なのは過去人の主人公・小川市郎が現代人の遵守する厳格なコンプライアンスに呆(あき)れる点だ。

とくに40代~60代にウケているようだが、同ドラマが指摘するまで、この世代は過去の現実を忘れていたのだ。思い出してみると、昔はひどいことばかりだったかもしれない。それはどこでもガンガンに喫煙するといったことだけではない。

私はビジネスの現場で、取引先から見積書を入手したり、価格査定をしたりすることをずっと続けてきた。24年前は企業の担当者として。現在はコンサルタントとして。価格決定という企業収益と利益の決定に直結する場に立ち会ってきた。問題になるのは、取引先が値上げしたいといってきたときだ。もう時効だが、24年前は当コラムで以前書いた通り、「居留守を使え」「雑談でごまかし帰ってもらえ」といわれた。

いっぽう現代では、取引先が困っているのに価格を据え置けば、独占禁止法における優越的地位の濫用(らんよう)になりかねない。討議は必要になった。ただ実際には、まともな討議にならないケースが多い。100円の製品を110円に値上げしたいと取引先がいってくる、としよう。その10円の根拠を語れない営業担当者が多いのだ。「なぜ10円なのですか?」「はい、社内からそう言われました」というレベルだ。君は幼稚園生なのかにゃ。

以前は激怒するか、灰皿を投げ飛ばすか、見積書を破っていた。しかし営業担当者も負けてはいない。「私はバカかもしれません。でも値上げを認めてもらうまで帰ってくるな、と社長からいわれています。私を男にしてください」と土下座する人もいた。かつて土下座は身分の高い人への敬意を示すものだったが、それが謝罪に使われるようになった。では、値上げのための土下座とは社会学的に何を意味するのだろう。

しかし現代では、ビジネスの場で怒ったらハラスメントだ。当局にタレ込みがあるかもしれない。大企業の調達部門は傍若無人で下請けいじめばかりしていると大衆は思っているが、それは昔の姿。今はむしろ「値上げ根拠の妥当性」を両社が探して妥協点を探るようになっている。値上げ計算の代行までやっている大企業の調達担当者がいるほどだ。

それでも「たしかに理論的には110円ではなく105円が妥当かもしれません。でもこれまで儲からなかったから取り返したいんです」という人までいる。ここまでくると、ニコニコ笑ってその場では値上げを認め、そして発注先を変えるしかない。結果、海外の取引先を選ぶしかなくなることもある。侃々諤々(かんかんがくがく)の議論をした時代とどっちが良かったか。過去人なら「不適切」というだろうか。

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坂口孝則

坂口孝則Takanori SAKAGUCHI

調達・購買コンサルタント。電機メーカー、自動車メーカー勤務を経て、製造業を中心としたコンサルティングを行なう。あらゆる分野で顕在化する「買い負け」という新たな経済問題を現場目線で描いた最新刊『買い負ける日本』(幻冬舎新書)が発売中!

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