松岡ゆみこ氏の自宅にある立川談志師匠の写真の前で
希代の天才落語家・立川談志が亡くなって10年となる今年、娘の松岡ゆみこが「父親としての立川談志」について語ってくれた。

高座だけでなく、政治・テレビ・文筆と幅広い分野で活躍し、ビートたけしや爆笑問題・太田光、女優の坂井真紀、DJ KOOなど、ジャンルを超えた著名人たちにも多大なる影響を与えた、まさに型破りな芸人である。

そんな立川談志が、家庭では父としてどんな存在だったのか? 没後10年経った今だからこそ話せる、家族しか知りえないエピソードを明かしてくれた。

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――まずは松岡ゆみこさんの経歴から教えてください。

松岡 元々は銀座でお店をやってたから「クラブ経営者」だね、コロナでお店はなくなっちゃったけど。あと、以前は芸能事務所に所属してたから、タレント・コメンテーターとか。時々講演会に呼ばれるときは「先生」って言われる(笑)。まあ今は専業主婦で、つまり「立川談志の娘」だよ。

――4月12日(月)より、立川談志師匠との思い出を書いた連載『しあわせの基準 ―私のパパは立川談志』が「週プレNEWS」で始まります。連載を始めようと思ったきっかけはありますか?

松岡 月並みだけど、パパが亡くなってから10年という時間が経って、やっとフタを開けられるっていうかね。その時間があったからこそ新たに思い出せたりとか、忘れようとしていたことをやっと振り返ることができたりとか。パパの命日が11月だから、それまでになにかできたらなと。

師匠が松岡ゆみこ氏に書いた色紙

――10年は長いようでもあり、あっという間でもあります。

松岡 手塚先生の娘さんのるみちゃん(手塚るみ子。漫画家・手塚治虫の長女)が、お父さんが亡くなったあとのデスク、20年間誰も触れなかったんだって。だから20年でも遺族にとってはあっという間なんじゃない? 特にウチは荷物が多くてゴミ屋敷みたいだから、家1軒の遺品の整理に1年9ヶ月もかかったからね。パパはなんでも捨てずにため込むから。よそん家の遺品までもらってきちゃう。

たとえば、知り合いのおとなのおもちゃ屋がつぶれたときに、もったいないからってトラックいっぱいの売れ残りの在庫を全部もらってきちゃった。エロビデオからセーラー服にダッチワイフ、ありとあらゆるものがあって、それで1部屋つぶれちゃう。どうなることかと思ったけど、遊びに来た人に少しずつあげてたら、あっという間になくなっちゃった。みんな好きなんだね(笑)。

――確かに遺品整理が大変そうです。

松岡 とにかくパパのコレクションはハンパじゃなくて、自分がキセルした電車のキップまで取ってあるんだよ(笑)。じゃあ全部捨てればいいのかと思ったら、手塚治虫さんのベレー帽もあれば、古い寄席のネタ帳が出てきたり。とにかく大変。

映画評論家のお友だちが亡くなって、レーザーディスク数百枚と大量のVHSビデオを「彼の思い出もあるだろうから」って全部もらってきちゃった。銀座にあったマンションがそれだけでいっぱいになった。私がそこに住むことになったとき、「レーザーディスク捨てるね」って言ったらば、すごい機嫌が悪くなって。あとで電話かかってきて「さっきの件だが、捨てるというなら家はやらない」って言われた。それでウザッと思ったけど(笑)、はいはいわかりましたって言って、内緒で1枚捨て、2枚捨て......(笑)。

この棚にレーザーディスクがいっぱいに入っていた

――先ほどの手塚治虫のベレー帽じゃないですが、他にも貴重なものが?

松岡 古い金庫が出てきたわけ。鍵もない、開かない。お弟子さんの誰かが「師匠が夜中に金庫から通帳出して、ニヤニヤしていたのを見た」とかいうから、期待しちゃうじゃない(笑)。でも、どうしても開かないわけよ。だから業者呼んで開けてもらったら、テレホンカードとタイピンが出てきたの、ダイヤの。

それをママと鑑定に持って行ったら、10円だか100円ですって言われて(笑)。パパはきっと本物のダイヤモンドだと思ってたんでしょう、でも偽物でもなんでもパパが金庫に大事にしまってたものだから、ママがプラチナで台を付け替えてネックレスにして使ってる。そうやって使うと、本物のダイヤに見える。

――活躍されるお父さんを見て、自分も表舞台でやりたいと思ったことは?

松岡 (食い気味に)まったくない。でも、18歳の頃にパパに内緒で六本木のクラブでアルバイトをしてたことがあるのよ。当時、プロダクションの社長さんたちがよく飲みに来てて、面白くて可愛い子だからオーディション受けてみろって言われたの。その時は談志の子だってことは隠してたんだけど。そうしたら受かっちゃうのよ。ラジオの月~金のレギュラーの帯番組で、21時から24時の生放送。昔のTBSのパノラマスタジオっていうところで、相手はエド山口さん。

最初の生放送のとき、ガラス張りのブースでヘッドホン付けておしゃべりしてたら、パパがいきなりスタジオに入ってきたの、(立川)志の輔さんがカバン持って。「え~っ!」て思って。スタッフはもっとビビったでしょうね(笑)。その話は志の輔さんも覚えているみたいで。弟子入りしたばっかりで前座の頃、パパから「おう、TBS行くぞ。今日からウチの子、芸能人になるんだ」って言われて、なんのこっちゃと思ってついて行ったんだって。

――すごい話ですね。

松岡 いいんだけど、こんな話ばっかりでいいわけ(笑)

――そうでした。質問は、師匠の連載を始めようと思ったきっかけについて、でした。

松岡 10年前パパが亡くなった後に、誘われて芸能事務所に入ったのよ。そうしたら、芸能人の2世たちが並ぶひな壇番組に呼ばれたり、「Nスタ」(ニュース番組)で週一回コメンテータやったりで急に忙しくなっちゃった。でも去年からコロナで急に暇になったじゃない? だからいろいろ思い出したり、モノや自分の気持ちの整理もしたくなったわけ。まあ、自分勝手だね、それもパパに似てるけど(笑)。

それと、パパが晩年に言ってたの。「お前、テレビに出て来いよ、本も書けよ」って。「銀座のママだよ? なにを書くことがあるのよ」って私は言ったの。そうしたら「思ったことを書きなさい、テレビに出るのが恥ずかしかったら、メガネをかけなさい」って。

結局、パパの言うとおりになったわけ。テレビには出る羽目になったし、今回はこういう機会を得て、パパのことを書くことができる。でも、そのどっちもパパに見せてあげられてないんだよね。月並みだけど、連載だってパパに読んでもらいたかったし、テレビに出てるのだってパパに見せてあげたかった。でも、本当にパパが言ってた通りになった。神がかりっていうか、パパがかりっていうか(笑)。何か形に残せたら、パパがいちばん喜んでくれるんじゃないかと。

――連載には、松岡さんがまだ幼い頃の師匠の話も出てきます。

松岡 私はあんまりだけど、パパは本当に昔のことを覚えてた。それを弟に言ったら「日記付けてたからね」って。パパの15、6歳の頃の日記があるんだけど、それには毎日「腹へった」しか書いてないんだって。私はまだ読む勇気もないけど、亡くなる直前に書き綴っていたものとか、鬱っぽい時期もあったからそういう時に書いてたものとか。晩年は筆談だったから、処方箋の裏に書いたものだったりとか、そういうのがデパートの袋3杯くらいある。

メモ一つとってもそれだけの数があって、そのほかにVTRがあり、アルバムをやっと開くことができ、パパを思い出す作業を少しずつできるようになるっていうのは、まだまだこれからなのかなと。何かきっかけがあると、今回みたいに動き出せるんですよ。

若き日の立川談志師匠と松岡ゆみこ氏

――師匠の「父としての顔」を描く連載、これを師匠が知ったらなんとおっしゃいますかね?

松岡 大喜び。私がテレビやラジオに出たり本書いたりなんか、誰よりも喜んだから。この連載は誰のために書く? といわれたら、自分かパパのためです。連載を読んで、ママや弟たちからはダメ出しがあるかもしれないけど、パパは大喜びだと思う。それがあるから、書けるんだと思う。

――「俺の恥ずかしい話をするな」みたいなことを師匠は言わない?

松岡 ないんです、だからそれもカッコいいんです。晩年、痩せてしまって老いてしまって、立川談志ですって人前に出られないくらいの時でも「俺を撮れ、撮っていいぞ」「選挙に行かなくていいのか、二つ目のお祝いに行かなくてもいいのか」って。いじらしいくらい、本当に何も隠さない。浮気とかは隠してたかもしれないけど(笑)。

入院すると病院で「松岡さん(立川談志の本名)」って言われるじゃん。何よりそれを嫌ってた。一事が万事で「立川談志」として生きてた。人生ずっと立川談志。家でもあのまんまいるんです、さすがにそれはウザいですよ(笑)。

松岡ゆみこ氏。パーカーのデザインは、師匠が大切にしていたぬいぐるみのライ坊

松岡ゆみこ(まつおか ゆみこ)
元タレント、クラブ経営者。落語家・立川談志の長女。現在は自称・専業主婦。著書に立川談志が息を引き取るまでの9ヶ月間を記録した『ザッツ・ア・プレンティー』(亜紀書房)がある。

週プレNEWSにて立川談志の長女・松岡ゆみこによる連載『しあわせの基準 ―私のパパは立川談志』が配信中です。