2024年3月11日午後2時46分。福島県双葉郡楢葉町のポニーリーグならはスタジアムで黙祷する福島レッドホープス監督の岩村明憲 2024年3月11日午後2時46分。福島県双葉郡楢葉町のポニーリーグならはスタジアムで黙祷する福島レッドホープス監督の岩村明憲

【連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第3章 福島レッドホープス監督・岩村明憲編

かつては華やかなNPBの舞台で活躍し、今は独立リーグで奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第3章はNPB、MLBで活躍し、WBC日本代表としても活躍した現・福島レッドホープス監督、岩村明憲。輝かしい実績を持つスター選手だった岩村は、なぜ今福島で独立リーグ球団の監督をしているのか。その知られざる奮闘ぶりに迫った。(全4回の第1回)

■大切にしているのは「人間教育」

2024年3月11日、午後2時46分――。

福島県双葉郡楢葉町のポニーリーグならはスタジアムに防災サイレンの甲高い音が鳴り響く中、福島レッドホープス監督の岩村明憲は帽子を持った右手を胸の中央に添えた。

岩村にとってそれは、福島の地で捧げる10回目の黙祷だった。

「東日本大震災で亡くなられた方々に対して、まずはご冥福をお祈りする気持ち。いまだに消息不明の方々もいる中で、そのご家族に対しても、自分なりにですが少しでも寄り添えたらと思いながら祈りを捧げました」

防災サイレンが鳴り響く中、岩村監督以下全員で東日本大震災の犠牲者の冥福を祈った 防災サイレンが鳴り響く中、岩村監督以下全員で東日本大震災の犠牲者の冥福を祈った

同日はベースボール・チャレンジ・リーグ(以下、BCリーグ)の2024年シーズン開幕に向けたキャンプ初日。朝8時に球場入りした選手たちの早出練習に始まり、9時から全体練習、11時から短いランチタイムを挟んで12時からはシートノック、紅白試合、そしてミスプレーの確認、最後は個人練習と、夕方4時30分の終了まで、メニューは隙間なく詰まっていた。

返事は大きな声。指示を受ければ迅速に移動。練習用のネットやグラウンド整備の道具など、使用した用具は泥を落として戻す。短いランチタイムの後、手の空いた選手はボール磨きに精を出した。

「道具は借りたときよりも綺麗にして返すのが当たり前。それができないならば、施設の管理者の方から言われなくても、チームとして使用禁止にします。それくらい責任感を持って行動するように、という話は1年目から言い続けています」(岩村)

プロ野球というよりは、どこか高校の野球部のような雰囲気。NPBを目指すための技術はもちろん、岩村は若い選手に対して、「人間教育」の部分を大切にしていた。

ハードで密度の濃い福島レッドホープスの練習風景 ハードで密度の濃い福島レッドホープスの練習風景

■「常に選手のことを第一に考えてくれる監督」

筆者はキャンプ初日の前日、福島レッドホープスOBの畠山侑也(ゆうや)氏にお会いした。畠山氏はキャンプ地、楢葉町の隣にある双葉郡富岡町出身で、現在は富岡町役場に勤務している。2018年、大学卒業後に福島レッドホープスに入団した畠山氏は、右肘の怪我の影響もあり、翌19年に自ら退団を申し出てそのまま引退した。

畠山氏に、岩村の下で過ごした1年間について聞いた。

「(岩村監督と)初めてお会いしたとき、まず何よりオーラがすごいなと。WBCやメジャーでの活躍も見ていたので、最初は気軽には話しかけられませんでした。でも実際お話しするとすごく優しい方でした。男気のある、常に選手のことを第一に考えてくれる監督でした。打席に立つときも、ベンチから気持ちのこもった熱い声がけをしてくださいました。岩村監督と出会って初めて、野球に取り組む姿勢、細かな部分までのこだわり、分析など、学生時代の自分の取り組み方がいかに甘かったかを思い知らされました」

畠山氏は「泥まみれになりながらノックを受けたり、ティーバッティングのトスをしてもらったことが特に印象に残っています」と話した。また、他の独立リーグチームに比べて練習内容は厳しく、ランニングなど体力づくりの時間も長かったが、その分「精神的にも磨かれました」と振り返る。

■地元に貢献したい。誰かの笑顔をつくりたい

畠山氏は引退後、「町の復興の力になりたい。避難した人たちが戻れる町、移住者にとっても魅力ある場所にしたい」と考え、20年春、臨時職員として富岡町役場に就職した。業務終了後に試験勉強に励み、秋に正規職員の採用試験を受けて合格。現在は企画課に在籍し、移住定住促進のための活動に日々勤しんでいる。

13年前の福島第一原発事故の影響で、福島県では最大およそ16万人が避難生活を強いられた。畠山氏は当時中学2年生。富岡町では全住民に避難指示が出され、一時は住民ゼロの町になった。今なお町の一部は帰還困難区域に指定されたままだ。

原発事故以前の人口はおよそ1万6000人。現在は実質2100人程度が暮らしているとみられるが、半数は原発廃炉関連の仕事に就く新規の移住者で、震災前にいた住民はまだ大半が戻っていない。国と東京電力は2051年までの廃炉完了を目指すが、さらに長引くとみる専門家もいる。

「岩村監督の下で学び、仲間と切磋琢磨して厳しい練習をしていた頃を思えば、今、仕事で多少大変なことがあったとしても、『たいしたことないな』と前向きに乗り越えられる自分がいます。ただ、今も野球選手を引退したという実感はなくて。バットを振るか、町役場の職員として働くかの違いだけであって、『地元に貢献したい、誰かの笑顔をつくりたい』という目標や生き方は、野球をやっていた頃と変わらず今も持ち続けています」

■「絶対に見せましょう、東北の底力を」

翌日、畠山氏に会って話を聞いてきたことを岩村に伝えた。

「畠山だけでなく、引退した選手も含めて自分の息子と思っています。チームが誕生したときから関わり、一期生から指導してきました。それは全員、かわいいですよ。ただし、かわいいからこそ厳しいことを言わなければいけないときもあります。この子たちがうちを辞めたら、とりあえず最終経歴は『福島レッドホープス』になります。野球選手を引退して就職先を探し、面接担当者が履歴書を見たとき、『福島レッドホープス? 岩村が監督をしているチームか』と思うわけです。社会人として非常識な行動をすれば『岩村の下で何を学んできたのか!?』と言われてしまう。それは自分としても恥ずかしいことです」

野球を通じて福島復興に協力してほしい――。

10年前の2014年10月、岩村は当時福島に誕生したばかりだった「福島ホープス」のゼネラルマネージャーから熱烈なラブコールを受け、「監督兼選手」という立場で入団した。

14年シーズン終了時、ヤクルトを戦力外になった時点ではNPBの他球団移籍、あるいはメジャー復帰と、「1パーセントでも可能性がある限り挑戦したい」と現役続行を希望していた。

タンパベイ・レイズ(入団時はデビルレイズ)時代、セカンドの守備についていた際、走者の危険なスライディングを受けて左膝を大怪我して以降、繊細な感覚を取り戻すことができずにいた。とはいえ当時まだ35歳。気持ちはもちろん、肉体的にも老け込む年齢ではないように思えた。

チーム環境や起用の方法、そしてヤクルトの若手時代に中西太という打撃の師との出会いで大きく成長したように、良き理解者や指導者との巡り合わせ次第では、復活できる可能性はゼロではなかったはずだ。しかし独立リーグで監督兼任となれば、事実上選手としては、メジャーはもちろんNPB復帰の道も閉ざされることを意味していた。

岩村はそれでも要請を受けた。

「楽天に入団して迎えた最初のシーズン、2011年3月11日に東日本大震災、そして福島第一原発事故が起きました。1ヵ月間、オープン戦の遠征先から東北に戻ることができない状況が続き、ようやく戻ることができてからは被災地に入り、各地で支援活動を行ないました。

4月22日に千葉マリンスタジアムで開幕戦を迎え、4月29日、仙台で地元開幕戦を迎えました。選手会長の嶋(基宏)が『絶対に見せましょう、東北の底力を』とスピーチし、監督、コーチ、選手全員で野球を通じて勇気づけ、復興に貢献しようと誓いました。

でも僕自身は、気負いすぎて空回りしてしまった部分や怪我の影響もあって、ファンの期待には応えられなかった。『プレーで勇気づけたい』『喜んでもらいたい』と思い、しっかり準備はしてきたつもりでしたが戦力になれず、厳しい野次も浴びました。

2シーズン楽天でプレーして、ヤクルトに移籍してからも当時の悔しさ、『いつか見返したい』という思いは残ったままでした。やり残した気持ちがある中でヤクルトから戦力外を告げられたとき、福島に独立リーグ球団を設立した運営会社から『野球を通じて福島復興に協力してほしい』と話をいただきました。『震災から立ち上がり懸命に生きる福島県民の希望の光に』と言われ、その言葉に強く共感して『自分でよければ』とむしろ感謝をして要請を受けました」

■「レイズの心臓」と呼ばれた男

ヤクルトではミスター・スワローズの象徴でもある「背番号1」を背負い、日本一を経験した。WBCにも2度出場して連覇達成。特に2009年大会では、内野手のリーダーとしてまとめ役も担った。

そしてレイズ時代は名将ジョー・マドン監督から「レイズの心臓」と呼ばれるほどの絶大な信頼を得て、チーム初のワールドシリーズ出場にも貢献した。

2008年、レイズのア・リーグ優勝、ワールドシリーズ進出に貢献した岩村(写真/アフロ) 2008年、レイズのア・リーグ優勝、ワールドシリーズ進出に貢献した岩村(写真/アフロ)

震災直後にプレーした楽天時代、東北のファンの期待に応えられるような成績を残せなかった悔しさがあったとはいえ、これだけ輝かしい野球人生を歩んできた男が、現役選手として最後の舞台に、誕生したばかりの独立リーグのチームを選ぶことは、並大抵の覚悟ではできなかったはずだ。

岩村の背中を押したものは何かーー。

地震、津波、原発事故、そして風評被害。

同時にいくつもの災難に見舞われた福島という場所で何を成し遂げようと考えたのか。

独立リーグで新たな野球人生を歩み、挑戦を始めた岩村。しかし、「野球を通じて福島復興に協力してほしい」と請われて来たはずの男を待ち構えていたのは、復興や野球とは関係のない、思いもよらない災難だった。

(つづく)

●岩村明憲(いわむら あきのり)
1979年2月9日生まれ、愛媛県出身。宇和島東高校から96年ドラフト2位でヤクルト入団。ベストナイン2度、ゴールデン・グラブ賞6度受賞。2007年にデビルレイズ(現レイズ)に移籍。パイレーツ、アスレチックスでもプレーし、11年から楽天、13年からヤクルト、15年からBCリーグ・福島で選手兼任監督。17年に現役引退して以降も、監督兼球団代表として福島で奮闘の日々を送っている

会津泰成

会津泰成あいず・やすなり

1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。

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