松岡が指導をしていた2007年、リーグ戦で戦う天津ライオンズのベンチ風景(写真:共同) 松岡が指導をしていた2007年、リーグ戦で戦う天津ライオンズのベンチ風景(写真:共同)
【連載⑩・松岡功祐80歳の野球バカ一代記】

九州学院から明治大学へ入学。そしてかの有名な島岡吉郎監督の薫陶を受け、社会人野球を経てプロ野球の世界へ飛び込んだ。11年間プレーした後はスコアラー、コーチ、スカウトなどを歴任、現在は佼成学園野球部コーチとしてノックバットを握るのが松岡功祐、この連載の主役である。

つねに第一線に立ち続け、"現役"として60年余にわたり日本野球を支え続けてきた「ミスター・ジャパニーズ・ベースボール」が、日本野球の表から裏まで語り、勝利や栄冠の陰に隠れた真実を掘り下げていく本連載。今回は前回に引き続き、中国プロリーグの強豪『天津ライオンズ』のコーチを務めていた頃の裏話を聞いた。

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食文化も衛生観念も全く違う国・中国で、松岡はどんな生活を送ったのだろうか?

「日本人が一番苦労するのは食事でしょうね。おいしいとかおいしくないとか以前の問題で。まず食堂自体が汚い。食べ物を平気で捨てていくから、テーブルの上もその下もそう。掃除をする人もいるんだけど、全然きれいにはならない」

それでも食べなければ体がもたない。

「毎日毎日、パンと牛乳と炒り卵だけを食べるという、そんな食事ですよ。小さな虫が入っていることもよくあるけど、そんなことを気にしていたら食べるものがなくなってしまう。生きていけないですからね。

衛生的にも料理の味も厳しいけど、僕はまったく気にしなかった(笑)。でも、日本から一緒に来た若いコーチは全然食べられなくて、どんどん痩せていきましたよ」

そして、時間に対する感覚も日本とは違っていた。

「日本であれば練習時間の20~30分前にグラウンドに出てきて自分なりに準備をするのが当たり前。でも、彼らは開始時間ぴったりに現れる。合理的と言えばそうなんでしょうね」

そして、寮やグラウンドにゴミが落ちていても、誰も拾おうとはしなかった。

「僕は明治大学野球部でしつけられましたから、そういうのは見逃せない。でも、みんな知らんぷりです。『どうして拾わないの?』と聞くと『それを仕事にしている人がいるからだ』と言う。そういう考え方もあるのかと思いました」

屁理屈のようにも聞こえるが、中国の選手たちは真剣な表情でそう言った。

「常識というものは、その土地土地で違うということを60半ばになって知りました(笑)。違いを認める、尊重することも大事なんだと。そうしないと、こちらのメンタルがおかしくなるというのもありましたね」

最近の日本では、ゴミが落ちていることに気づかない選手も多いという。

「観察力が欠けているのもそうですが、掃除の仕方がわからないという選手がいますね。やり方がわからないなら教えるしかない。だから、教育は大切です」

大谷翔平がグラウンドで見つけたゴミをさっと拾うシーンをみたことがある。彼がアメリカで人気があるのは、そのような姿勢に因るところがあるのかもしれない。

「そういう行為が自分を磨くことにつながるというのが日本流の考え方。それはいい部分だと思います。中国ではいろいろなところが気になりましたが、『それはそれ』と考えるようにしました」

■自分の主張を口にすることの大切さ

住環境も十分とは言い難かった。

「僕の部屋は2階にあったんです。3階に女子ソフトボールの選手たちがいました。僕がひとりで使うのと同じ広さの部屋に、彼女たちは14人で住んでたんです。そう考えると、僕はものすごく優遇されていたのだと思います」

自分の主張を明確にしなければ、何も対処してくれないということにも気づいた。

「中国の3月はまだ寒いんですが、ある日を境にストーブが片づけられます。何枚もジャージとかジャンパーとかを着たうえで布団をかぶって寝ても、それでも寒い。1週間我慢してから『寒すぎるからどうにかしてくれ』と言ったら、すぐにストーブを出してくれました。

つまり、要求しさえすればやってくれる。逆に言えば、要求しない限りそのままなんですね。そういうことも初めて知りました。日本だと、先回りしていろいろやってくれるから、それが当たり前だと思ってしまいますけど」

チーム内で共通していたのは、「練習時間=仕事」という考え方だった。この考え方は日本ではなじまない。

「朝の8時30分に練習はスタート。12時から13時までのお昼休憩を挟んで、17時まで続きます。監督はいちいちうるさいことを言うし、練習がとにかく長い。でも、練習時間=仕事なんですね、彼らにとっては。つまりその代わり、17時にはきっちり終わります」

■目線を下げれば伝わり方が違ってくる

日本のプロ野球選手よりもレベルの低い選手たちに、松岡は根気強く指導を行った。

「大事なのは、彼らのところまで降りていくこと。目線を下げることで伝わり方が違ってくる。日本のプロ野球選手と比べたらできないことばかりで、未熟なところが目立ちます」

それでも彼らには野球で身を立てようというハングリーさがあった。松岡が打つノックを受けながら上達していった。

その年の開幕戦で、天津ライオンズの選手たちが6つのダブルプレーを記録した。

「27アウトのうち、12個がダブルプレーだった。新記録だったらしく、翌日の新聞に大きく取り上げられました。内野守備が素晴らしかったと褒めてもらいました(笑)」

そして天津ライオンズは2008年に中国シリーズを制した。

「メジャーリーグや日本のプロ野球みたいに、優勝するとシャンパンかけをするんです。あれは楽しかったなあ。環境やレベルは違っても、選手たちには『うまくなりたい』という気持ちがあります。同じ気持ちで野球に取り組めば、自然と仲良くなれるものです。以前はよく『また中国に来て野球を教えて』とみんなから連絡が来ましたよ」

人は誰でも年をとっていく。年々、若い選手たちとの差が開いていくことに気づかない指導者も多い。

「僕は中国選手でも、日本の若い選手でも、どちらも自分から話しかけていきます。こちらから相手に近づいていくことで関係は近く、深くなりますから」

中国で3年間の指導を終えた松岡に、古巣から誘いの声がかかった。67歳のベテランコーチは、今度はなんと古巣・明治大学野球部の寮に住むことになる。

第11回へつづく。次回配信は2024年5月4日(土)を予定しております。

■松岡功祐(まつおかこうすけ)

1943年、熊本県生まれ。三冠王・村上宗隆の母校である九州学院高から明治大、社会人野球のサッポロビールを経て、1966年ドラフト会議で大洋ホエールズから1位指名を受けプロ野球入り。11年間プレーしたのち、1977年に現役引退(通算800試合出場、358安打、通算打率.229)。その後、大洋のスコアラー、コーチをつとめたあと、1990年にスカウト転身。2007年に横浜退団後は、中国の天津ライオンズ、明治大学、中日ドラゴンズでコーチを続け、明大時代の4年間で20人の選手をプロ野球に送り出した(ドラフト1位が5人)。中日時代には選手寮・昇竜館の館長もつとめた。独立リーグの熊本サラマンダーズ総合コーチを経て、80歳になった今も佼成学園野球部コーチとしてノックバットを振っている。

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元永知宏

元永知宏もとなが・ともひろ

1968年、愛媛県生まれ。立教大学野球部4年時に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。大学卒業後、出版社勤務を経て独立。著書に『期待はずれのドラフト1位』『敗北を力に!』『レギュラーになれないきみへ』(岩波ジュニア新書)、『殴られて野球はうまくなる!?』(講談社+α文庫)、『トーキングブルースをつくった男』(河出書房新社)、『荒木大輔のいた1980年の甲子園』『近鉄魂とはなんだったのか?』(集英社)、『プロ野球で1億円稼いだ男のお金の話』(東京ニュース通信社)など

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