株式会社フリースタイルの青野社長

ニッポンには人を大切にする"ホワイト企業"がまだまだ残っている! 連載『こんな会社で働きたい!』第28回は、引きこもりや非行少年ら、社会になじめない若者の就労を支えてきた名古屋のIT会社、フリースタイルだ。

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会社のリーフレットにはこう書かれている。

『悩んでいる社員がいれば、本気になって相談に乗る。叱るべき行動をすれば、目を背けず本気で叱る(中略)どんな時も本気で、そして、愛を持って応えます』

美辞麗句ではない。ITとゲーム開発を扱う、社員数150人程の株式会社フリースタイルの社長、青野豪淑(たけよし)さん(40歳)は、体と心を張って社員とぶつかってきた。

今ではそういう新入社員はいなくなったというが、2006年9月の創業時を「社員はクズばかり」だったと青野さんは振り返る。いや、正確に書くと、クズだからこそ、彼らを救うために会社を立ち上げたのだ。

「自分のためではなく、誰かのために動く。今ではこれが僕の行動原理です」

●幼少期

青野さんは貧しい家庭に育った。加えて、父から母への暴力は日常茶飯。かと思えば、父が母に「ごめん」と謝り仲直りすることの繰り返し。

大阪の市営アパートに父母と兄弟6人で住んでいたが、家賃は入居当時から12年間も未払い。父はハンチョウ博打で負けては借金を作り、家具に「差し押さえ」の札が貼られ、借金取りが来るが、その取立ての人を殴り返し正座もさせるという「じゃりん子チエの父のテツ」(青野さん)さながらの父だったという。

青野さん12歳のときに一家は夜逃げ。兄名義で大阪市の団地に移り住んだ。父はタクシー運転手だったが飲酒をやめられずにクビ。代わりに高校生以上の兄弟がバイト代の半分を家に入れ、家計を支えた。社会人となっていた長兄は給料の9割も家に入れた。

青野さんも高校生になるとアルバイトに勤しんだ。スーパーマーケットの青果売り場では毎日23時まで働き月16万円を稼いだ。店長は高卒後も働いてくれと要請したが、青野さんは給与の高い職種を狙い、高卒後、ある問屋に就職したが、「ここでは出世できない」と転職。不動産業の営業職に就く。建売住宅の飛び込み営業だ。固定給+コミッションの給与体系で、住宅契約1件につき30万円が入った。

だが、住宅の契約など滅多にとれるものではない。そこの社員の平均契約数は月平均で0・5軒。ところが、青野さんは月10件も売った。原動力は金である。

「それはもう、毎日最低で200軒をピンポンしました。めげませんでした。金に目がくらんでいましたから」

社会人になってから、青野さんは松下幸之助やナポレオン・ヒルなどの自己啓発本を読み漁っていた。いかにすれば、人生で成功を収めることができるのか。その秘訣を描いた本から学ぶものは多かった。

「実際、本に書かれたとおりにやってみたらうまくいくんです。一番のコツは相手に思いやりをもつこと。たとえば、犬の散歩をしてあげたり、疲れていそうな人の肩を揉んであげる、高齢者からは戦後の苦労話を時間をかけて聞くなど、お金にならなくても徹底して相手に尽くすんです。

そうすると、結果として契約に結び付くことが多かったですね。心がけたのはあくまでも相手に尽くすことであり、それが契約に結び付くかどうかを目的にしないことでした。そういった体験をして判ったのは、他の人が成功していないのはそういった本を読んでいないからだということです」

ひとたび弾みがつくと、「成功」は簡単に自分のなかに転がり込んできた。

はじめは警戒された相手からも、二度、三度と訪ねるうちに好意をもって迎えられるようになり、契約をしてくれて、家の購買を考えている人を紹介してもらえるようにもなった。なかには「あなたを信用する」と、物件を見ずに契約する人までいたほどだ。

この頃のことを青野社長はこう振り返る。

「金持ちになれたことで、幸せの絶頂にいました。でも僕はとんでもない思い違いをしていた。それは、人間の成長とは『お金が入ること』だと信じて疑わなかったんです。いつの間にか、僕は『成長おたく』になっていたんです」

●転落

月収数百万円も稼ぎながら、青野さんは満足することができなくなっていた。その後、「もっと自分を成長させたい」=「もっと稼ぎたい」との考えから、自己啓発セミナーにはまるのだ。週に5、6日はそれぞれ別の自己啓発セミナーに通い、月に100万から200万円を使った。200万円の成功哲学の内容が入っているカセットテープを買ったこともある。

青野さんにとってお金の数字は自分の成長度を示す指標に過ぎず、その指標を伸ばすことこそが自身の成長だった。

「その頃の僕には、自分が働くのは『自分のため』だけであり『他人のために』がなかったんですね」

ありとあらゆるセミナーに出席すると、23歳にして目的を失った。稼いだし、人間性も高まったし、贅沢感もなくなった......と思っても、湧き上がってくるたった一つの疑問――「金持ちになったのに、なぜ満足できないのか?」

そうなると突然、仕事へのモチベーションがなくなった。それからは転職の繰り返し。「オレはいつでも稼げる」との自惚れもあり、意向に合わない会社では、社長に「お前の下でやれるか」と三下り半をつけて辞めたこともある。

そして、ついには借金生活に陥った。

「僕は、借金のPTAを制圧しましたから」

PTAとはプロミス、武富士、アコムのことで、それを「制圧した」というのは3社から借金をし、多重債務に陥っていたことを指す。

だが本人は強気だった。借金に借金を重ね、その額2000万円を超えてもなお、「オレが本気になれば返せる」と信じていた。だが、どの会社に転職しても全く営業成績が伸びない。以前と同じアプローチで営業してるのに、なぜ売れないんだ? 青野さんに焦りが生じる。自宅のマンション入り口には毎日借金取りが待機するようになり、3階にある自宅には外からパイプを伝ってよじ登る形で出入りせざるをえなくなった。

ついにはいろんな会社から「詐欺師」扱いされるようになり、全財産が1000円を切った。パソコンを使おうにも電気代も払えないので、暗闇の自室で1年間引きこもるようになる。その間、青野さんは「なぜ売れなくなった」のかを考えた。そのうち、夢でも借金取りに追われるようになり、起きているのか夢なのかの境も分からない精神状態に陥る。

そんな中でも判ったことが二つあったという。

ひとつが、この窮地で自分を大切にしてくれる人が少数でもいたこと。たとえば、カレーライスなどを差し入れし、部屋の掃除をしてくれた姉や母。会いたいからというだけで来てくれた友人。逆に言えば、それ以外の人は窮地の自分に無関心だった。もう一つが、いかに自分が自分の成長だけを追いかけていたかということ。つまりこの時、自分を肯定できなくなっていたのだ。そして思ったーー「生きるよりも死ぬ方が楽だ」

死のう。青野さんはすぐに行動に出る。

ある日の深夜、スクーターで幼少時代を過ごした14階建ての団地に向かい、屋上からぶら下がった。その時だ。一瞬でそれまでの半生が走馬灯のように頭のなかを走り、こう思った――「オレはお世話になった人たちにありがとうも言わずに死ぬのか?」

そして悟った。

「生まれてきた意味が判ったんです。人には、死ぬときに持っていけるものと持っていけないものがある。持っていけるのは心だけ。たとえば、人にしたりされたりの親切な心。そして、持っていけないのは給料や表彰状など。ああ、僕にはまだまだやることがある!」

そして、小さいときにテレビで見て憧れた正義のヒーローであるウルトラマンのように、人のために生きようと決めるのだ。青野さんは屋上に這い登ると、そこで座り込んで考えた。これからは自己中心ではなく、人のために尽くそうと。

その日の明け方に帰宅すると、すぐに家を引き払い、大阪を出た。しばらくは和歌山県にいたが、すぐに兄のひとりから「名古屋で起業したので、手を貸してくれ」と頼まれ、名古屋に身を移す。半年後に名古屋市内のIT系の会社に転職するが、そこで営業の仕事を任された。だが、青野さんにプログラミングの知識はないので、半年間必死になってプログラムの基本を頭に叩き込んだ。

●転機

青野さんは名古屋で19歳の少年と出会う。悪い友だちをもったことで高圧的な性格になってしまった子だ。見た目は完全にヤンキー。可哀想にと思った青野さんは少年にこう呼びかけた。

「オレ、お前を月100万稼げるようにしてやる」「お願いします!」

青野さんはかつて稼いでいたときのノウハウと道徳的な人の考えを彼に教えた。すると、実際に少年は儲けることができるようになり、人としての筋道を護るようになっていった。その後、少年は「こいつもお願いします」と友だちを連れてきた。いつしか青野さんの周りには、高校中退者、引きこもり、ドラッグ常習者や性依存症の若者たちが集まってきた。

ときには、自分の部屋に彼らを引き入れ、「お前ら、今のままじゃ人生終わるぞ!」と声をあげ、自身の半生と人生には夢があることを語った。その場はいつしかセミナー化して、青野さんの自宅には毎日7,8人の若者が来るようになる。彼らの最高学歴は高校中退で、多くが悪い縁とつながっていた。そこで青野さんはけしかけた。

「お前ら、スーツを着て仕事したいやろ」、「作業員じゃなく、人として扱われたいやろ」

「そうなりたい」と答える若者たちに、青野さんはまずモラルを教えた。「母親を『お前』と呼ぶな!」、「人を殴るな!」、「お前、女に悪いことしただろう!」

こんな説教に逆切れして、「殺すぞ!」と青野さんの胸倉を掴む若者もいた。

「お前、師匠を殴るのか?」

本当に殴り掛かってきたヤツもいる。でも、いつも納得するまで粘り、青野さんが勝った。「勝つまで諦めませんから」。

青野さんの周りに集まる女の子たちも、悪い縁のつながりを持っている子が多かった。そういう子たちも青野さんの指導を受け、社会人として巣立っていった。だが......、

「どうしても就職できないのが20人残ったんです。名古屋駅の裏の店で『お前らどうすんだよ!』と問い詰めました。すると、そのひとりがこう言ったんです。『青野さんが社長だったら、僕たちをクビにしないですよね』と」

このひと言に、青野さんは考えた。多くの若者を社会に送り出したとはいえ、素行の悪さが残っていれば、送り出した先の会社の社長は苦労しているはず。しかもその間、自分はまったく苦しんでいない。これはずるいのではないのか。すぐに心は決まった。

「僕はIT会社をつくる。人と会うのが苦手なひきこもりは技術者にして、ヤンキーは営業職に就けよう。ただし、起業するにも金が要る。20人で始めるにしても、人件費だけでも月300万円は必要になる。他にも当座の資金が必要だ。よし、まずは今やっている営業の仕事で月に300万円を稼いで開業に必要な資金をプールしよう」と。

まさしく、青野さんは「自分のため」ではなく「人のために」営業の仕事を始める。かくして、2006年9月15日、株式会社フリースタイルが発足したのだ。

※後編⇒IT会社・フリースタイルがひきこもりやヤンキーら「行き場がなく苦しんでいる人たち」の雇用にこだわり続けるワケ

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