『鈴木家の嘘』がデビュー作となる野尻克己監督

ある日、突然、家族が自らこの世を去ったら――。11月16日に公開される映画『鈴木家の嘘』は、加瀬 亮演じる引きこもりの長男・浩一の死後、悲しみから立ち直ろうともがく家族を描いた、野尻克己(のじり・かつみ)監督の実体験にもとづくストーリーだ。

シリアスな主題にも関わらず、一方では岸部一徳演じる父親がソープランドで揉め事を起こすなど、ついつい笑ってしまうシーンも随所にあり、ユーモアと温かみにあふれた喜劇としても成立する人間ドラマに仕上がっている。

残された家族は肉親の死に対し、どのように向き合うのか。今や現実社会でも他人事ではなくなった自死や引きこもりに対して、家族が抱える苦悩とは――。

これまで数々の映画で助監督を務め、本作で満を持して監督デビューとなる野尻が、作品に込めた覚悟、死を選んだ実兄への複雑な想い、そして映画を作り終え感じた"家族"とは? 

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――なぜ、お兄さんが亡くなられた話を映画にしようと思ったんですか?

野尻 ずっと映画監督をやりたいと思っていて、助監督の仕事をしながら脚本を書いてはプロデューサーに持って行ってたんです。だけど、「お前の作品は浮ついてる」とか、「覚悟が感じられない」とか、そういうことを何回も言われて。だったら自分に嘘がつけない、感情が正直に表現できる覚悟を持った脚本をそろそろ書かなきゃいけないと思ったんです。自分自身を追い込もうと思って。

でもそのためには、ある種の覚悟が必要となってくる。じゃあ、"覚悟"って何だ? それは兄のことだと思って。血の繋がった家族からは否が応でも逃げれないですからね。最初は胸の内を吐き出す程度の文章だったのですが、徐々に脚本になっていきました。

――野尻さんは監督になるまでに20年かかったそうですが、映画業界では普通なんでしょうか?

野尻 僕は遅かったですね。20代、30代で撮っている人も多いですから。それはさっき言った浮ついてたっていうことなんでしょうけど。

このインタビューの前に、橋口亮輔監督(野尻が助監督を務めた映画『恋人たち』)と話していたんですけど、橋口さんは僕とは逆の考え方で映画を撮っていたみたいです。「僕(橋口監督)は最初から映画監督になりたくて映画を撮っていたんじゃない。自分の中に撮りたい根拠があってそれを映画にしたら監督になった」と。

――監督になりたくて脚本を作るのと、この映画(根拠)を撮りたくて脚本を作るのとは全然別のことだと。

野尻 そうですね。僕はそれ(根拠)を探すのに時間がかかってしまった。橋口さんと話してて痛烈に思いました。

――その根拠あるものが、ご自身が体験したお兄さんのことだったわけですね。亡くなられたのは、いつ頃の話なんですか?

野尻 僕が20代半ばくらいの頃です。就職氷河期、真っ只中の時代でしたね。

――映画の内容としては、どのくらい実話が反映されているんですか?

野尻 物語としては、けっこう作り込んでいるので半分もないです。ただ気持ちとしては、結構、反映されていると思います。富美(木竜麻生演じる妹)は僕の気持ちに近いので。

――実際、お兄さんは引きこもりだったんですか?

野尻 世間が思い浮かべるステレオタイプの引きこもりではなく、普通に仕事をしようとしたり、生活に必要最低限な外出、コンビニとかには行っていたんです。でも、当時は就職氷河期でうまくいかず社会から自分を閉ざしている感じだったかな。今思えば、本人は生きることを誰よりも真剣に考えていたからこそ、閉ざしていたんだと思います。

大学を出て、就職してみたいな生き方が普通だと刷り込まれていた世代なので、やっぱり一回レールから外れちゃうと修正するのは難しかったのかなと。でも、それはあくまでも僕の想像であって、彼はどう考えていたかは結局わかりません。彼は何も残さず、何も告げずに去ったので。

――映画では残された家族が抱える苦悩が丁寧に描(えが)かれていますが、監督の家族はお兄さんが亡くなられて、どういう状況になったんですか?

野尻 劇的に変わったことはないんです。ただ、次第に兄のことは話さなくなりました。それぞれ胸に秘めた思いを抱えていた気はするんですけど、家族同士って意外に話さないんですよ。

でも、1年後くらいに両親が突然、「真相が知りたい」って、ある行動に出たんです。そこから両親は呆れるくらいの行動力で動き始めたんです。詳しくは言えないのですが、争いも辞さないぞという感じで物凄い迫力がありました。

――なぜ、突然そんなことを?

野尻 やっぱり兄の死に納得がいかなかったのと、単純に親の愛情なのかなと思います。今更そんなことをしても、出てくる真相はきっと辛いことのほうが多いだろうし、ろくなことにならないと僕は反対したんです。でも、そこまで執着するのは、やっぱり子供は親の一部なんだろうなって。

うちはどっちかと言うと典型的な昭和な家族だったので、両親は子供に対して目に見えるようなわかりやすい愛情を示すような家族ではなかった。それがいきなり愛情のメーターがマックスに振り切れた両親の姿を見て、ビックリしたというか、ちょっと笑ってしまったんです。

――そういう要素は映画にも反映されてますよね。岸部一徳さん演じるお父さんが自殺の理由を探ろうとして、ソープランドに行って揉め事を起こすシーンとか。

野尻 そういう状況になったら、親はなんでもしちゃうんじゃないかなと思って入れました。ソープのくだりは完全に創作なので、実際にソープには行ってないですけどね(笑)。

――でも、両親にそのくらいのパワーを感じたわけですね。

野尻 そうですね。冷静に考えたら、そんなところに行っても何も分かるわけないけど、映画には喜劇の要素も入れたかったので、それも踏まえての滑稽(こっけい)さが描ければいいなと思ったんです。

――喜劇の要素を入れたかったのは、もともとのテーマが重いからですか?

野尻 重いだけのテーマを見せても、押し売りになるじゃないですか。それって伝わるようで実は伝わりづらい。映画監督としてどんなテーマを扱うにしてもみんなに届く映画にしたいと思っています。普遍的な家族の話にすればみんなに届くと思いました。

それとは別に笑いを入れたいと思った理由は、僕も兄の葬儀の時に笑っちゃったことがあったからです。やっぱり、ずっと悲しいわけじゃないというか、悲しくならないために普通でいようとするんですけど、両親や親戚は愛情がまっすぐだから突拍子もないことを言い出すんです。

――突拍子もないこととは?

野尻 例えば、うちは犬とネコを飼っていたんですけど兄が犬と仲がよかったから、母は「寂しくならないように墓の脇に犬の銅像を建ててあげよう」と。一方で父は「いや、あいつは犬よりネコの方が好きだった。ネコの銅像の方がいい」と、そんな犬かネコかで真面目に言い争うんですよ。

それは傍(はた)から見たら面白いというか、滑稽でしたね。結局犬を選んだのですが、出来上がった銅像は飼っていた犬に全然似ていなかった(笑)。

僕は人の感情が通常よりはみ出した時に笑いが起こるのではないかと思っています。人間は真剣になればなるほどエネルギーが放出される。他人から見ると常軌を逸していて、ヘンテコです。でもその感情には真っ直ぐな人間、真の姿があると思います。そんな人間を僕は美しいと思います。

――映画は浩一が亡くなるところから始まって、その前段階は描かれていません。どういうストーリーとして見せたかったんですか?

野尻 いちばんは「分からない」から始まることでした。ミステリー的な仕掛けと言えるかもしれないですけど、浩一が死を決めたところから始めて、その理由は誰にも話していない、ヒントも残されていない、それで家族は苦しむ。その構造はミステリーと一緒だと思うんで。実際に僕も同じ気持ちになったんです。

お客さんも、なんでこの人は死んだんだろう?と考え始める。それに加えて、浩一の残像が頭の中に浮かぶような映画にしたかったんです。浩一は映画に写っていない時間が多い。でも、浩一がその場にいると感じるような映画にしたかった。鈴木家と見ているお客さんの頭の中を、浩一がずっと支配するような映画にしたかった。

多分、お客さんは家族の立ち位置に人によって、浩一(兄)の見え方は違うと思うんです。幸男の立場で映画を見る人もいれば、悠子(母)、富美(妹)の立場で見てしまう映画でもある。

――確かに、自分の家族に当てはめて見てしまいました。

野尻 浩一の描写に関しては正直、チャレンジでしたけど、情報をほぼ与えないようにしました。全ての遺族が同じとは言わないですけど、なぜ死んだか理由がわからなく無間地獄のように苦しむんです。

自分が悪かったんじゃないかという罪悪感、こんな目に遭わせやがってという怒り、死ぬなんて弱い人間だって憎んだり、僕自身もそういうことがぐちゃぐちゃに混ざって。そういう家族の苦しみをちゃんと伝えるところから入らないとダメだなと思ったんです。

――それは実体験だから出来たことですよね。

野尻 体験していなかったら、こういう踏み込み方は出来なかったかもしれないですね。

――最初のシーンはどうするか悩んだところですか?

野尻 最初の(自殺する)シーンは撮らないっていう選択もできました。ですが、そのシーンに説得力を持たせることでどれだけ悠子がショックを受けたか、家族が悠子に嘘をつかざるをえない状況になるか。後々始まる突拍子もない物語に説得力を持たせるには必要なシーンでした。

人の命を撮るわけですから、細心の注意と畏(おそ)れを持って撮影すると決めてました。それにこのシーンは、僕にしか演出できないと思っていましたから。

――見る側としては、めちゃくちゃビックリしましたけど。

野尻 兄が死んだことに対して、僕なりの理解と結論はあるんですよ。これは誤解を招くので伝え方が難しいんですが、僕は自死を否定も肯定もしません。監督は人間を描く仕事だから浩一の決めたことをまず肯定しなきゃいけない。

ひとりの人間が考えに考え抜いた決断を写すことはこっちにも覚悟がいる。ただし、最初のシーンはインパクトを与えるための道具ではない。加瀬さんとも何度も会ったりメールで打ち合わせをしました。

加瀬さんは「誤解を恐れずに言えば、誠実に生きた人間としての生き方のひとつ」だと。作り手として加瀬さんと僕の考えはほぼ同じだった。もちろん、ひとりの人間としては肉親や友達が死にたいと言ったら絶対に止めます。

――本作は初監督作品ながら、そうそうたる役者陣が出演されています。岸部さんへオファーの際に手紙を書いたそうですが、どんな内容だったんですか?

野尻 いつの間にか脚本を岸部さんに宛て書きしていたんですよ。岸部さんに断られたらほかに思い浮かびません、お願いですから出てくださいって。

――なぜ、岸部さんだったんですか?

野尻 まず無口が似合う人。それと立っているだけで、ちょっと面白味のある人。あと、岸部さんがお父さん役の映画をあまり見たことがなかったので、純粋に生活感のある父、岸部一徳さんを見てみたいなと思ったんです。一観客としての欲求がそこにありました。

――無口な父親が似合いますよね。

野尻 そうなんですよ。しゃべらなくても何かが漂っていて。

――岸部さんがソープランドで即尺されるシーンは思わず吹き出してしまいましたけど、文句は言われませんでした?

野尻 最初は怒られるかなと思いましたけど、「なんでも言ってください」と寛大に受け入れてくださいました。岸部さんに履いてもらうパンツとかも、ちゃんと決めたんですよ(笑)。

――ちなみに劇中に出てくるソープランド『男爵』は、実際にある店なんですか?

野尻 埼玉県の大宮にあります。

――なぜ、この店を選んだんですか?

野尻 店内の雰囲気もあるのですが、まず外観がひと目で風俗街と分かる場所って、意外と少ないんです。地方とかにはあるんですけど、東京近郊では限られていて。

吉原(日本最大のソープランド街)も看板が全部上にあるから横長のフレームに映しにくいんです。それで助監督まわりには風俗に詳しい人間も多いので、いろいろ情報を集めて、大宮じゃないですか?ということになったんです。

――実際、監督はお客として行かれたんですか?

野尻 それはノーコメントで。いちおう僕も家庭を持っているので(笑)。

――それは行くわけにはいかないですね(笑)。初監督作品が出来て、この映画がどんなふうに伝わってほしいと思いますか?

野尻 僕自身、家族というものが分からず、家族というものを知りたいと思って撮ったんですが、家族に答えはないのかなって......。でも、答えがないからこそ家族ってものがよく映画になってるんだなって思ったんです。

家族は厄介だったり、面倒くさかったり、必要だったり、愛するものだったり、逆にそうではない人もたくさんいると思う。家族への価値観は人それぞれです。まず自分にとって家族というものがなんなのかを考えるきっかけになってもらえればうれしいです。

家族を重荷だと思っている人もたくさんいると思います。昔、僕は兄のこと含めて家族のことがそんなに重要ではなかった。なくても生きていけると思っていました。でも、この映画を撮ってみて、家族と少しだけ向き合ってみる、背負ってもいいかなと思えるようになりました。

それで実際にその厄介な家族っていうものを背負ってみたら、ちょっと重たかったくらいのことだったので、そんなに深く考えずに背負っていこうって思えるようになった。そこから見える別の風景もあるんだなって新しいものを発見した気持ちになりました。厄介なものを背負うってマイナスに聞こえるかもしれないけど、僕としては少しだけ前向きな気持ちになれたんです。

●野尻克己(のじり・かつみ) 
『鈴木家の嘘』で監督デビュー。これまで橋口亮輔監督『恋人たち』、石井裕也監督『舟を編む』、大森立嗣監督『セトウツミ』、武内英樹監督『テルマエ・ロマエ』のヒット映画で助監督を務めてきた実力派。11月2日には、第31回東京国際映画祭で日本映画スプラッシュ部門作品賞を受賞するなど早くも注目を浴びている

■『鈴木家の嘘』 
11月16日(金)より、新宿ピカデリー、シネスイッチ銀座ほか全国ロードショー。○監督・脚本:野尻克己 ○出演:岸部一徳 原 日出子 木竜麻生 加瀬 亮 岸本加世子 大森南朋 ○音楽・主題歌:明星/Akeboshi『点と線』(RoofTop Owl)