『多十郎殉愛記』で20年ぶりに長編劇映画のメガホンを取った巨匠・中島貞夫監督に聞いた

『さんまのスーパーからくりTV』『中居正広の金曜日のスマたちへ』など、数多くの人気番組を手がけてきたバラエティプロデューサー角田陽一郎氏が聞き手となり、著名人の映画体験をひもとく『週刊プレイボーイ』の連載『角田陽一郎のMoving Movies~その映画が人生を動かす~』。

今回は最新作『多十郎殉愛記』で20年ぶりに長編劇映画のメガホンを取った巨匠・中島貞夫監督にお話を伺いました。

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──実は僕、大学の後輩でして。めちゃくちゃ緊張しております......。

中島 こちらこそ緊張しております。

──学生時代はどんな映画を見られていたんですか?

中島 戦後、いろんな映画が入ってきて、それを片っ端から見たという印象があるね。特に高校2年生の頃は100本以上。授業を抜けてよく見に行ってましたよ。出席した回数を手帳につけておいてね。ほら、3分の2を割り込んだらダメだから。

──退学ギリギリまで見ていたと。

中島 その頃は授業が100分だったんですよ。だから、2時間目をサボると、映画を見ても昼休み中に余裕で帰ってこられたんです。

──ちょうどいい時間ですね(笑)。いろいろな映画を見られてきたと思いますが、特にこの一本という作品はありますか?

中島 やっぱり、フェデリコ・フェリーニの『道』(1957年公開)かなあ。ジェルソミーナ役のジュリエッタ・マシーナに衝撃を受けちゃってね。その頃は大学生で、結核を患って寝ていたんですよ。

──卒業後、東映に入社されていますが、映画の道を選んだ理由は?

中島 映画をやろうと思ったのは、大学を卒業する頃。大学時代は哲学を専攻していてね。でも結局、芝居ばっかりやってたね、ギリシア劇を。卒業後は大学に残って哲学の研究者になるか、舞台の脚本家になるか、映画にいくか。この3つの道を考えましたが、大学に残るには金がかかるし、結局、映画を選びました。

──僕もほとんど同じ理由です。映画会社に入っても監督にはなれないんだろうなと思って、TBSに。

中島 当時はテレビの時代でしたもんね。

──中島監督はテレビでも数多くの作品を手がけていますよね。

中島 東映に入って最初の5年間は助監督で、大きな映画に関わっていたんですよ。でも、そういう映画は人が多いから意外と暇ができる。一方、金はない。そこで、テレビの台本を書くとお金がもらえたんです。

──小遣い稼ぎだったんですか(笑)。

中島 一人前のシナリオライターは高いけど、僕ら助監督なら気軽に頼めるでしょう? 最初は1週間に30分のものを書き、やがて3クール、1年というふうになっていったんです。

──一方、中島監督は多くの巨匠の下で学ばれてますよね。

中島 監督には恵まれましたね。去年亡くなった沢島忠(さわしま・ただし)や、マキノ(雅弘)のオヤジにすっかり重宝されて。ほかには今井正(いまい・ただし)とか田坂具隆(たさか・ともたか)とか。サボれないし、こき使われましたけど、皆、色が違う監督でした。

──監督が撮ってきたなかで苦労した作品というと?

中島 例えば、『瀬降り物語』(85年公開)は1年間、四国の山の中にいたんだけど、あれは大がかりでしたね。四万十川(しまんとがわ)の源流にプレハブを建ててね。四季の景色や、大河が洪水であふれそうなところを撮ろうとして。ちょうど50歳の誕生日を迎えて、山の中で祝ってもらった(笑)。

──それだけ隔絶していた環境で撮影されていたんですね。

中島 村の人とは仲良くなりましたよ。でも、ベルリン国際映画祭に持っていったけどダメだった。凝りすぎていて(笑)。

★後編⇒西部劇が影響?『多十郎殉愛記』の巨匠・中島貞夫監督「ちゃんばら映画」を語る!

●中島貞夫(なかじま・さだお)
1934年生まれ、千葉県出身。日本のやくざ映画を代表する巨匠。代表作は『くノ一忍法』、『日本の首領(ドン)』シリーズ、『893(やくざ)愚連隊』、『狂った野獣』、『木枯し紋次郎』、『新極道の妻(おんな)たち』など

■『多十郎殉愛記』公開中

©『多十郎殉愛記』製作委員会 配給:東映/よしもとクリエイティブ・エージェンシー

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