(写真左より)2019年のTAKU(Ba)、嵐(Dr)、翔(Vo)、Johnny(Gt)

バブル前夜の1980年代前半に、なぜか日本を席巻した不良とツッパリの大ブーム。そのど真ん中に立っていたのが横浜銀蝿(よこはまぎんばえ)だった。『ツッパリHigh School Rockn' Roll』をはじめとする、強面4人が奏でるロックンロールは大人も子供も口ずさみ、公約だった「シングル1位、アルバム1位、武道館満タン」を達成するや、3年3ヵ月であっさり解散。

それから4人はさまざまな人生を送り、このたび37年ぶりの完全復活を果たす。2019年、アラ還となった4人のツッパリ精神とは? 当時のブームを知らない世代こそ読んでほしい、人生の筋を通した不良たちの物語!

■「不良」がマジョリティだった時代

横浜銀蝿は1980年の日本に突如現れた、リーゼント、サングラス、黒の革ジャン、白いドカンという暴走族スタイルの4人組ロックンロールバンドだ。見かけと裏腹にその音楽性は親しみやすく、『ツッパリHigh School Rockn' Roll』などの大ヒット曲を連発。ツッパリブームを牽引(けんいん)した。しかし3年3ヵ月を爆走で駆け抜け、花火のように解散。

そして2020年――。結成40周年を機に彼らが完全復活する。解散から37年バンドを離れていたリードギター、Johnnyの合流も決まった。バブル前夜の日本を席巻した横浜銀蝿現象とは? 4人のツッパリはその後どんな人生をたどり、なぜ今、再結成するのか。4人を直撃した。

* * *

――80年9月、横浜銀蝿を初めて取り上げた雑誌が週刊プレイボーイでした。当時の皆さんはツッパリ!不良!の代名詞でしたが、今の読者には当時の不良というのがどんな感じかイメージしにくいと思いまして。皆さんはどういう不良だったんですか?

Johnny(以下) 当時のツッパリや暴走族って、今の半グレとはまったく違ったんですよ。デビュー前にテレビ番組で、嵐らんさんが局の人から暴走族の仲間を集めてって頼まれて「横浜新道の料金所に集合!」って声かけたら、第3京浜が環八にぶつかる所まで、暴走族の単車と車が何万台も集まったことがあったんですが、それくらい当時は不良ってマジョリティでしたよね。

 あと、不良はみんなスポーツやってた。喧嘩(けんか)するために部活で体鍛えていて、サッカー部のやつは喧嘩でヘディング技を生かしたりさ。仲間がいるから学校行くの大好きで、喧嘩大好きで、他校が攻めてきたら戦わなきゃなんない。

ただ、喧嘩に節度はあったよね。相手に戦意がなくなったと思ったらやめるし、次に会ったら仲直り。それで新しい仲間や地域が広がっていったんだよね。

横浜銀蝿を初めて取り上げたメディアが週プレだった(1980年9月30日号)

――学校の先生はどんな感じだったんですか。

 俺らの中学の井上先生って人は、生徒が悪いことすると角材で殴るの。でも真剣に怒ってくれるんで、俺らも悪いことしていても「これ以上はまずいんだな」って気づくことができた。

この先生は体罰がPTAで問題になって、俺らと同じ時期に学校を卒業しちゃうんだけど、それから3年くらいしたら俺らの中学は校内暴力でどうしようもなくなったって。

――今ではありえない話ですが、そんな不良生活のなかで皆さんはなぜ音楽の道を目指そうと?

 俺が中1のとき(兄の)嵐さんは高1で、バイクは乗るわたばこは吸うわ、悪影響与えまくりですよ。でも音楽も好きでバンドやっていて、70年代の洋楽のレコードも買っていた。

それで嵐さんの高校の文化祭のライブを見に行ったら、大勢の女のコからすごい歓声浴びててさ。俺、そんな光景ってテレビの中でしか見たことなかったから、「バンド、カッコいい!」って思って。

――ああ、わかる気がします。

 あと同じクラスにいつも家でパンツいっちょでレコード聴いてる長髪のやつがいたんだけど、なんでか聞いたら「ミック・ジャガーになりたいんだ」って。ストーンズはステージですぐ裸になるからって。そいつがチャック・ベリーやビートルズも聴かせてくれた。

――毎日喧嘩して血まみれになって、部活もやって音楽もやって、忙しい学校生活ですよね。

 嵐さんは生徒会長もやってるよ。悪さをしても生徒会長になったら高校をクビにされないって思いついて。それで「近隣の女子高生を学園祭に招待して、校門から校舎まで全部女子で埋め尽くす」って公約に掲げて立候補したら断トツ1位で、学園祭のときは近くの女子校にバンバン電話して、ホントに女のコを並べてた。

――公約実現ですね。で、翔さんとJohnnyさんは高校で出会ってバンドを組むんですよね。

 初めからオリジナル曲で文化祭に出たよ。『これでいいのか高校生』って曲とか作って(笑)。

翔(Vo)

――そして高校卒業後は、脱退したドラムの代わりに嵐さんが加入し、その後デビューまで実に37回ものオーディションに落ち続けたそうですが、途中で諦めたくなりませんでした?

 人前で演奏できること自体が楽しくてたまらなかったのよ。公開オーディションに落ちまくっても、帰り道はJohnnyと「でも一番歓声あったのは俺たちだったよな。楽しかったね」って話してた。

つらかったのは、当時のギターケースがハードケースで重いのよ。オーディション受けに伊勢佐木町にバスで行ったんだけど、混んでくるとデカいギターケースがほかの客に迷惑だから「降りたほうがいいべ」って途中下車して、重いの担いで歩いていったりしてさ。

――気配りある不良ですね。そして38回目のオーディションでユタカプロダクションに合格。とはいえ事務所に所属できたのは嵐さんだけで、嵐さんは音楽雑誌のメンバー募集でベースのTAKUさんと出会い、デビューの準備をしていましたが、バンドは喧嘩別れで解散。

そのときに抜けたギターとボーカルの代わりに、翔さんとJohnnyさんが加入し、79年9月、横浜銀蝿が結成されました。翔さんって10代の頃からそういう渋い声だったんですか。

 翔君は最初は甘い声だったんですよ。でも事務所の社長から「ロックを歌うにはハスキーじゃなきゃいけない」って言われて自分でつぶしたの。毎日夜中に口にタオルあてて大声出して。普通はできないですよ。

 オススメはしないです。それでホントに声が出なくなった人いっぱいいるし。俺は社長を信頼して、「俺は横浜銀蝿のボーカリストだ」と思って、言われたとおりにやったけど。でも必死でやってんのに社長が電話かけてきて「何やってるんですか、翔君。練習してたらそんな声でいられるわけないでしょ」って。

それで毎日大声だしてるとまた電話かかってきて「血が出ました? 血が出るまでやってくださいね」って。そしたらホントに喉から血が出てきたわけよ。それでやっと声が仕上がって、デビュー曲のレコーディング。

 それが、ツッパリなんですよ。人が求める以上のことを「この野郎」って思ってやる。

■シングル1位、アルバム1位、武道館コンサート満タン!

――そんな努力のかいあって、80年9月21日にキングレコードからシングル『横須賀Baby』でデビュー。複数のレコード会社から声がかかっていたそうですが。

 キングレコードのディレクターの水橋春夫さんて人が「ミュージックシーンは甘くない。売れるとは限らない。オリジナル曲をずっと作り続ける覚悟はできてんの?」って言ってくれてさ。いいことばかり言う人より、一番キツイことを言ってくれるこの人にかけてみようってみんなで決めた。不良の嗅覚ってヤツだね。

――そしてデビューするとき3つの公約を掲げたんですよね。

 キングの偉い人たちに挨拶する機会があったので「俺らここ一発なんかかまさなきゃいけないよね」って、「シングル1位、アルバム1位、武道館コンサート満タン」っていう3つの公約を考えて、模造紙に書いて持ってった。

そしたら嵐さんがお偉いさんを前にいきなり「俺たち、金のにおいがしませんか?」って。で、ぼーっとしてる俺たちに「早く模造紙広げろよ!」って言うから慌ててバーッと広げたら、「この3つを2年間で達成して完全燃焼して解散します!」って言い放った。

――なぜ2年だったんですか。

 この不良たちをまとめられるのは2年が精いっぱいだなと。不良ってさ、目的が決まると2年は走れるんだよ。結局2年間でシングル1位だけは取れなかったんで1年延長してもらったから、3年3ヵ月やっちゃったんだけどね。

嵐(Dr)

――嵐さんは生徒会長立候補のときといい公約を守る人ですね。ちなみにそのとき皆さんは何歳?

 嵐さんは25で俺とJohnnyは22、TAKUはハタチ。戦略的なことを決めるのは嵐さん。でも必ずみんなに相談してくれた。

――バンドって兄弟仲が悪くなりがちですが、嵐さんと翔さんはずっとそんなに仲よしなんですか。

 小学校までは「死ねばいい」と思ってました。当時はしまむらとかないから俺の服なんて全部おさがりで、「ふざけんなよ兄貴ばっか!」って喧嘩ばっかで。でも中学生になって嵐さんのバンド見たり、家に嵐さんが連れてくる友達との会話を聞いてて「兄貴ってすごいんだ!」って、それからはずーっと仲いいです。

――バンドの音楽性も嵐さんが決めていたんですか?

 いや、音楽性は個人個人、別でしたから。みんなが曲書けるんでそれぞれ持ち寄って。

 例えば『羯徒毘ロ薫'狼琉(かっとびロックンロール)』だと、俺が「真夏の夜にバリバリ~」と作って、そこからギア入れの様子を「とばせLow Low Low Low Low Low Low Low」って入れよう、そこをTAKUとJohnnyがかけ合いで歌おう、とかさ。

みんなの意見を単一化するんじゃなくて、一曲ごと尖った部分を残しながら作っていく。それでヒット曲がたくさんできたんじゃないかな。

 最初は「ベイビー」とか「サタデーナイト」とか、ロックンロール気取りの歌詞ばかり書いてたんですよ。そうしたら水橋さんから「君たちは暴走族やってるのになんでその世界の言葉で書かないの? 自分たちにしか歌えない歌はないの?」って言われて、自分たちの世界の言葉を中心にしていきました。そういう大人のアドバイスを聞いて、すぐ形にできた翔君のセンスが銀蝿の音楽性をつくったのかな。

 大人が俺たちの世界観を引き出してくれたんだよ。それで暴走族にしか書けない『ぶっちぎりRockn' Roll』や不良にしか書けない『ツッパリHigh School Rockn' Roll』ができた。

――横浜銀蝿というバンドは、骨太ロックンロールな部分と、「かあちゃん」「弁当」といったワードも飛び出す三枚目な部分のバランスがあまりに絶妙で、仕掛け人がいるに違いないと思った人も多かったようですが、古き良き横浜の不良文化で育った少年たちが等身大の言葉で歌ったら、あのスタイルが完成したわけですね。

TAKU(以下) 自分たちが車で聴きたい音楽がないから自分たちで作った感じだね。自分らの車で「とばせLow!」とかかけて歌いながら走っていたから。

――横浜銀蝿がロックで体現したいものについて、当時のTAKUさんは「ロックンロールは『行くぞ』『やるぞ』『セクシー』」と定義していました。

 今聞くと恥ずかしいな(笑)。でも今もその気持ちだよ。基本的にわれわれ変わってない。

TAKU(Ba)

――そんな「ありのままの不良スタイル」は一気に人気に火がつき、女性ファンも多数獲得。バレンタインもすごかったそうですが。

 郵便局のトラックでチョコがドサドサ運ばれて、午前中の便で終わらず午後の便もやって来てさ。みんなで仕分けるんだけど、俺、嵐さん、Johnny、TAKU、Johnny、Johnny、Johnny......。「なんだよJohnny! おまえが全部やれよ!」ってなって。とにかくJohnnyの女のコ人気がすごかった。

 俺だけヒゲがなかったしね。

――翔さんもヒゲを剃(そ)ってもっとモテたいとか思いませんでした?

 デビューしたときにこの形で2年間いくって決めちゃったから、ヒゲ剃れないわけよ。革ジャンは脱がない、サングラス外さない、髪はリーゼントでドカンはいて。そんなバンドいないから面白いよねってみんなで決めたから。

――そして公約どおり、81年2月オリコンアルバムレコード売上部門で『ぶっちぎりⅡ』1位獲得、82年3月に2回目の武道館コンサート満タン、11月に6枚目のシングル『あせかきベソかきRockn' Roll run』がミュージック・リサーチ誌において1位に。当初の2年の期限は3年3ヵ月に延長されたものの、83年12月31日に解散しました。

■解散後の人生はいろいろ。そして37年ぶり再結集!

――そしてこのたび「横浜銀蝿40th」として再始動。新譜のリリースや全国ツアーも計画され、それが2020年12月31日までの新たな目標となっています。Johnnyさんが37年ぶりにバンドに戻ることになった経緯は?

 キングレコードの水橋さんが昨年8月に亡くなって、11月に「送る会」があったんです。そこでJohnnyに20年ぶりに会って、「もう一回やりたいんだよね。横浜銀蝿結成40周年だしさ、考えてみてよ」って誘ったんだよ。今まで何回か横浜銀蝿は復活はしてるけど、Johnnyはずっといなかったからね。

――Johnnyさんは30歳でキングレコードに就職し、今はグループ会社ベルウッド・レコードの代表取締役ですもんね。

 俺たちも年を取ってきた。嵐さんは脳梗塞やってるし、TAKUは来年還暦だし。このタイミングでJohnnyと一緒にステージに上がることができたらメンバーはうれしいし、ファンやサポートしてくれてるやつらにも最高のプレゼントになると思った。

――Johnnyさんは、そう誘われてどう思ったんですか?

 そのときの俺の第一声は、「いや無理だよ。ギター弾けないもん」だったかな。本当に20年弾いてませんでしたから。でもその後ひとりで考えて、これは俺の人生で一番音楽的な影響を与えてくれた水橋さんが俺と翔君を再び引き合わせてくれて「もう一回やんなよ」と言ってるのかなと。

それで12月に翔君に「今から銀蝿時代の曲を10曲、真剣に練習するから3ヵ月猶予がほしい。3ヵ月後にリハをして、そこでできるかできないか決めよう」って言いました。

そして今年3月に初めてリハして、プレイ的にはかなりひどかったと思うけど、ただただ楽しかったんですよ。デビュー前の、毎日必死に練習していた頃を思い出して。それで、一緒にやりたいと。

Johnny(Gt)

 俺もただただJohnnyとやれることがうれしくてさ。ギター聴いたら「ああ、これが銀蝿のリードギターなんだよ」ってみんなも感じたよ。解散して37年でJohnnyを誘ったのは今回が初めてで、社長だからできないだろうと思ってたからだけど、でも、このタイミングだったんだよ。

――Johnnyさん以外の3人は演奏活動を続けてきましたが、年を取ってツッパリ続けるのって大変じゃなかったですか? 嵐さんは81年のインタビューでは「こんなカッコ、50、60歳になってもしてるわけないんだからさ」と言ってましたが。

 嵐さんこの前、名言言ってたよね。

 なんだっけ? ツッパリやめて「うっちゃり」に変えたってやつ? あれ名言か?

 でも、あくまでも「勝ち」にはこだわってる(笑)。

――例えばその格好でゴミ捨てとか行けなくないかなと(笑)。

 俺は駅で鼻かめない。銀蝿が鼻かんでたとか言われるのヤだから(笑)。

 でも根本的に俺らのツッパリは無理につくってきたスタイルじゃないからさ。生きざまってのは自然と年齢相応になってくるし。確かに短パン、頭ボサボサじゃ外歩けないけど、俺は近所付き合いでお年寄りに声かけたり、柿もらったりお土産あげたりして、今は地元密着型ツッパリです。

――昨年はツッパリ漫画『今日から俺は!!』がドラマ化され、その中でJohnnyさん作詞・作曲の『男の勲章』がカバーされ、リバイバルヒットしました。

 昔の作品が今の若いコたちに受け入れられるのはやっぱりうれしいです。ツッパるってことは「決めたことは最後までやる」ってことなので、ここで歌われてるのもいつの時代にも受け入れられる人間の基本的なことだと思います。

――皆さんは解散以降、TAKUさんは多くのミュージシャンやアイドルに曲を提供したりディレクターを務めたりし、Johnnyさんは経営者になり、嵐さんは参院選に出たり、脳梗塞で倒れたり、そして翔さんはタレント活動でブレイクした後に覚せい剤で逮捕されたり......。

 はい。(数回小さくうなずく)

――4人の解散後の人生はいろいろで、時に大変なこともあったかと思います。でも心のコアな部分は40年前と変わらずここまできた姿はカッコいいですよ。

 俺は早くステージで、ファンに「Johnnyです!」って紹介したいな。

 サラリーマンって自分が思ったとおりに働くの難しいじゃないですか。俺も40ちょっと前に、各放送局に資料を持っていく、新入社員がやるような業務に飛ばされて、悔しかったけど一生懸命やってみました。

そうしたら、そこでできた人脈が後々すごく役立って。だから一喜一憂しないことですね。そして今またこの仲間と音楽やれるのが、ホント楽しくて。

――最後に4人を代表し、これまでいつも公約を実現させてきた嵐さんから2019年の週プレ読者にメッセージをお願いします。

 俺たちも縁あって変なやつが集まって一緒になってさ。今回の「横浜銀蝿40th」実現だって縁が結んだわけだし。俺たちアナログですから。だから自分の近場にいるやつらを大切に、って言いたいね。

●横浜銀蝿(よこはまぎんばえ)
1979年結成。バンドの正式名称は「THE CRAZY RIDER 横浜銀蝿 ROLLING SPECIAL」。80年、シングル『横須賀Baby』、アルバム『ぶっちぎり』でデビュー。メンバー全員が曲を書き、大ヒットを連発したが、人気絶頂のまま83年に解散。その後、翔はソロアーティストとして、嵐、TAKU、Johnnyはプロデューサーの道を歩む。そして今年9月、37年ぶりの完全復活を発表。2020年2月にオリジナルアルバム&ベストアルバムのリリース、3月からはZEPPツアーを予定し、同年12月31日に「横浜銀蝿40th」としての活動を終了する。オフィシャルサイトは【ginbae40th.com】