新宿のマンション。写っているのは立川談志師匠の奥様・則子さん
天才、奇才、破天荒......そんな言葉だけで言い表すことのできない、まさに唯一無二の落語家・立川談志。2011年11月、喉頭がんでこの世を去った。高座にはじまりテレビに書籍、政治まで、あらゆる分野で才能を見せてきたが、家庭では父としてどんな一面があったのか? 娘・松岡ゆみこが、いままで語られることのなかった「父としての立川談志」の知られざるエピソードを書き下ろす。

連載第二回は、新宿に住んでいたころの「立川談志一家」の当たり前だった日常について。

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松岡ゆみこ57歳。父・落語家立川談志、母・則子の長女として目黒元競馬場で生まれたらしい。「他人の生い立ちなんぞ読んだって面白くもなんともあるめえが」と父の自伝の冒頭に書いてあるが自己紹介がてら書いてみる。

私が生まれたのは昭和38年。父が真打になった年だった。父は三人姉弟の長男、母は五人姉妹の次女。両家の祖父母も若くて元気だった。母は私が生まれる一年前に男の子を死産していて、とにかく元気に生まれて来た私を両親はもちろん、初孫に喜ぶ祖父母、当時まだ結婚もしていないおじおばたちはこぞってかわいがった。too muchなほどの愛情で私は育った。

目黒の家の記憶はないが、その家で撮影された、一本のローソクが立ったケーキと私が一緒に写った写真が残っている。

父は赤ん坊の私をよく銀座のクラブに連れていっていた。父は「ゆみこはかわいかったから、ホステスたちがおもりしてくれたんだよ」と言っていたが、親バカだ。その甲斐あってか、私は31歳のときに六本木、銀座と店を始め、去年のコロナの影響で店をやめるまで、25年間、ズッポリ水商売の女となった。

父が私を銀座のクラブに連れていかなくなったのは、クレージーキャッツの犬塚弘さんが「こんな場所に子供を連れてくるな!」と父を叱ったからだそうだ。当時超売れっ子で先輩の犬塚さんにそう言われて、生意気で口ゲンカが大得意の父も言い返せなかったのだろう。

父の子供のかわいがり方は万事こんな感じで、いたって勝手。今でいうイクメンのように、子育てに手を貸すことは一切なかった。自分勝手にさわりたいときにさわり、ちょっかいを出し、私が泣きだすとそそくさとその場を去る。物心のついた頃には、私もそんなやっかいな親の性格を悟ってあきらめたのか、しつこくちょっかいを出されても我慢するようになっていた。3歳年下の弟にも同じで、丸顔で愛嬌のあった彼のほっぺや耳をしつこくさわり嬉しそーな父の顔と、目に涙をためた弟の顔が一緒に思い浮かぶ。

今年は2021年。令和2年だと思ってたら3年だった。コロナで引きこもっていたら、1年経過していた。東京オリンピックは今年はやるらしい。前回のオリンピックが昭和39年。その頃私は1歳で記憶がないが、その年に目黒のアパートから新宿の新築の「高澤ビル」という、今でいうマンションのようなところに引っ越した。父が初めて物件をローンで買ったのだ。新宿区柏木、今の北新宿一丁目のその部屋の間取りは3DKで団地のような感じだった。

その頃の父は寄席やキャバレー、テレビ、ラジオに忙しく、仕事に便利な場所を選んだのだと思う。もうひとつは父の師匠である柳家小さん師匠のお家が近いというのもあったと私は思っている。当時父も母も二十代、母はその家を「こんなに広い家、どーしようー」と思ったそうだ。60平米くらいだったけど。とにかくみんな若かった。

10階建てのそのビルの7階の廊下からは富士山も見えて、新宿駅西口の小田急デパートまでビルはひとつもなかった。伊勢丹をこよなく愛していた母は、その後父が練馬に一軒家を買っても「伊勢丹がないからいや」と言って引っ越さなかった。

新宿に住み始めた頃、まだ父にお弟子さんはいなかった。第一号は土橋亭里う馬さん。彼が父に弟子入りを志願するため家の前に何日も立っていて、母は怖くて外に出れなかったそうだ。里う馬さん、当時の談十さんが弟子入りし家に来るようになって、幼稚園に通い始めた私は若いお兄さんがめずらしくていつも彼にぶらさがっては、肩が弱かったのかよく脱臼をしていた。

そんな頃から父は、母にも子供にも「お前たちの弟子じゃない!」といつも言っていた。だから母はお弟子さんに家のことはさせなかったし、さんづけで今も呼ぶ。父のお弟子さんはみんな通いで一緒に住んだことはない。二番目に来たのが山岡君(立川左談次)といって亡くなってしまったが、談十さんより若くてかわいかったので私はさらになついた。その後からは、続々とお弟子さんが増えて、いつも父の回りには何人かのお弟子さんがいた。

うちの家族は自由でめちゃくちゃだった。ありがたいことに今も元気でいてくれている母にその頃のことをたずねると、「夢中だったからね」という。例をあげると障子に穴は開け放題、襖はらく書きし放題。もちろん部屋はちらかりまくりだった。

あるとき、父と仲の良かった圓蔵さん(当時の圓鏡さん)が私と同じ年くらいの娘さんを連れて遊びに来た。家に入った娘さんが急に泣き出した。「頭のおかしな人の家みたいで怖かったのだと思う」と母が言っている。

新宿とはいえ最寄りの駅は大久保駅で、駅から家への近道は連れ込み旅館が並ぶ道を通る。そんな所で私は生粋の新宿育ちとなっていく。家の前は小滝橋通り。消防署と春山外科病院の中間で一日中サイレンが鳴っていた。交通量が多かったせいか、「大事な子供を交通事故で失いたくない」といって絶対に自転車は買ってくれなかった。私は今も自転車に乗れない。

連載コラム『しあわせの基準ー私のパパは立川談志ー』は、毎週月曜日配信です。