海外での立川談志師匠(左)と松岡ゆみこ氏(右)
天才、奇才、破天荒......そんな言葉だけで言い表すことのできない、まさに唯一無二の落語家・立川談志。2011年11月、喉頭がんでこの世を去った。高座にはじまりテレビに書籍、政治まで、あらゆる分野で才能を見せてきたが、家庭では父としてどんな一面があったのか? 娘・松岡ゆみこが、いままで語られることのなかった「父としての立川談志」の知られざるエピソードを書き下ろす。

高校に入学したゆみこ氏は学校に上手くなじめず、歌舞伎町のディスコにのめり込んでいく。それを知った立川談志師匠が、まずはじめにとった行動とは? 

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高校は普通に受験した。私立の女子校を3校と、都立を受けた。だいたい合格したので、家からいちばん近かった大妻中野高校に決めた。弟は「区立は不良が多いから私立に行きたい」と言って、一緒の年に明大中野中学校に入った。父はこの時も一切、口を出さなかった。

入学式の日、私は家に帰ると号泣した。今まで共学の公立に行っていた私にとって、女子ばかりが1800人もいる学校が気持ち悪くて、場違いな感じがして無理だと思った。「嫌だ、行きたくないよ」と泣いていた。

それでも、次の日からは学校へ行った。朝、学校の門の前に先生がいて、スカートの丈とソックスの色や長さをチェックされる。肩より長い髪は2つに分けて結ぶか、三つ編みが理想だった。ポニーテールで登校した私は、そのまま職員室に連れて行かれて「あなたは浮いている」と注意された。授業は解らなくていつも寝ていた。

そんなある日、中学の頃の女友達と歌舞伎町のディスコに行った。コマ劇場の隣の、キャバレーや映画館の入っていた大きなビルに「Tomorrow USA」というディスコがあった。大音量のソウルミュージック、ストロボとミラーボール。私は一瞬で虜になった。そして、しょっちゅう通うようになった。

ディスコは毎日夕方5時から朝の5時まで営業していて、平日の早い時間だと男性1000円、女性500円で、フリードリンク、フリーフードだった。広い店内の真ん中に少し高くなっているダンスフロアがあり、周りには沢山のテーブルと椅子が並んでいた。

いつも混んでいて椅子に座れる事は滅多になく、週末ともなれば満員電車さながらだった。その人混みの中を、アルバイトのお兄ちゃん達はもみくちゃになりながらトレンチにグラスを3段に積んで、頭上に持ち上げながら曲芸の様に練り歩いていた。従業員は女の子にモテていた。私は汗だくになって踊り、水を飲んではまた踊り、お腹が空けばスパゲッティやピラフを食べた。

ダンスフロアにはDJブースがあって、DJが2台のプレイヤーにレコードを乗せて回していた。ソウルミュージックの全盛期で、私はEarth,Wind & FireとKool & The Gangが大好きだった。ブレイクダンスを踊っていたSAMさんもよく見かけた。

忘れてはいけないのが、チークタイム。500人から1000人位の若者が、ダンスフロアの底が抜けるほどに跳ねて踊っていると、急に曲がスローになって休憩タイムのようになり、ほとんどの人がダンスフロアから降りる。しかし、カップルとその時ナンパした即席カップルは、そのまま抱き合ってチークダンスを踊る。初めてその光景を見た思春期の私は、体がキュンとなった。よくナンパされていた私は、チークダンスも好きだった。最初の頃はドキドキしていた。10㏄ のI'm Not In Love、Peaches & HerbのReunitedなどは今も大好きな曲だ。

ディスコに魅了された私は帰宅時間もどんどん遅くなり、家で少し仮眠をとるだけで学校に通うようになった。母は心配して、ディスコに私を探しに来たりもしたそうだが、どうしたらいいのか解らなくなったのだろう、とうとう父に相談した。話を聞いた父は、娘が不良になったと判断し、まず初めに「不良の先輩」である著名な御三方に相談に行った。

女優の加賀まりこさん「不良の方が親孝行するよ!」

銀座のクラブ「姫」のオーナーで作詞家の山口洋子さん「バチが当たったんだ!」

新宿の紀伊國屋書店の社長・田辺茂一さん「自分が反省をしろ!」

どのご意見も素晴らしい! 立川談志の周りにはこういう方々がいてくれたのかと思うと、なんか嬉しい。

最初、父は加賀まりこさんの言っている意味がわからなかったそうだ。亡くなる前に父が「結果、まりこの言う通りになった」と週刊誌の連載に書いていたのを見つけて、私は照れた。

連載コラム『しあわせの基準ー私のパパは立川談志ー』は、毎週月曜日配信です。