「とかしくマリンビレッジ」でくつろぐ談志師匠(左)とゆみこ氏(右)

天才、奇才、破天荒......そんな言葉だけで言い表すことのできない、まさに唯一無二の落語家・立川談志。2011年11月、喉頭がんでこの世を去った。高座にはじまりテレビに書籍、政治まで、あらゆる分野で才能を見せてきたが、家庭では父としてどんな一面があったのか? 娘・松岡ゆみこが、いままで語られることのなかった「父としての立川談志」の知られざるエピソードを書き下ろす。

立川談志師匠と何度も訪れた渡嘉敷島の海。この島で過ごした、父と娘の美しく貴重な思い出の数々。

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暑い、夏だ! 泳ぎたーい! とにかく入水したい! と、去年の夏に突然発作のように思った。私は50代になるまでは泳ぐことが好きで、海もプールも大好きだった。"クッキーフェイス"が流行の時代に若者だった私は、もちろん日焼けも大好きで、サーフィン、シュノーケリング、ダイビングもやっていた。一年中小麦色でいたかったため、外国の海にも度々行った。 

しかし最近ではハワイやLAに行っても、海もビーチも眺めるだけになっていた。去年の夏はコロナ禍で暇なのにどこへも行けず、どうしても泳ぎたくなった私は区民プールへ泳ぎに行った。若い頃はビキニとサンオイルだけ持っていればよかったのに、区民プールで泳ぐため、なるべく腹の浮き輪が目立たない水着とゴーグル、小学生を思い出す水泳用の帽子を買い、日焼け止めを多めに塗って50メートルプールを10往復泳いだ。コロナですいているプールは、それはそれで気持ち良かった。

父は子供の頃水泳部だったらしく、趣味といえばシュノーケリングしか思い出せない。昔、おそらくシャレだと思うが、談志野球チームを作った事があったが、父に野球ができたのかわからない。ゴルフもしなかったし、他のスポーツの話も聞いたことがない。運動神経は悪くなかったと思うのだが、15歳から落語家の道を選んだ父には、きっとスポーツをする時間はなかったんだ。  

私は小さい頃から父と一緒に、いろんな海やプールで泳いだ。スイミングスクールに通っていた私は幼稚園の時にすでに25メートル泳げたが、その前から父の友達とプールに行って、プールに投げられても喜んでいた。  

父が亡くなる何年か前にベトナムへ一緒に行った。朝、誰もいないプールで私が泳いでいると、ホテルの部屋から見ていた父がプールに降りてきて、「おまえの泳ぎは綺麗だな、でも平泳ぎは上手くないな」と言った。父は平泳ぎが得意で、シュノーケリングの時も足ひれをつけずに地下足袋で平泳ぎをしていた。  

父と最もよく行った海は、沖縄の慶良間諸島の渡嘉敷島で、最初に行くきっかけになったのは清水健太郎さんだった。たまたま父を見かけた清水さんは車から降りてきて「談志師匠!」と声をかけ、「渡嘉敷島は最高です!」と教えてくれたそうだ。

それが今から30年以上前で、その頃の渡嘉敷島の海は本当に美しかった。健太郎さんはダイビングをしていたから知っていたのだろう。ダイバーしか来ない「とかしくマリンビレッジ」には、コテージというかプレハブが10個くらいしかなかった。

ビーチは膝の深さまで入ればもう珊瑚だらけで、ここは竜宮城? 水族館? 凄い種類の熱帯魚と、雲丹も手づかみで獲って食べたり出来た。父も私もハマってしまい、1人でも大勢でも、何度も何度も渡嘉敷島に行った。

だいぶ前から「とかしくマリンビレッジ」のプレハブはペンションになり、そしてホテルになり、沖縄本島から高速船でも行けるようになったが、最初の頃は父と那覇空港から小さな飛行機で行っていた。8人しか乗れない飛行機は無人島に着陸すると、そこからボートで渡嘉敷島に渡った。父は着くとすぐに海に入り、何時間でもシュノーケリングをしていた。

私が体験ダイビングをした時は、シュノーケルだけで潜ってきた父と一緒に泳いだ。台風の時も何度もあって、泳げず帰れない時間を何日も過ごした。その頃島にお店は一軒もなくとにかく暇で、捕まえたヤドカリでレースをして遊んでいたら、父が面白いゲームを色々教えてくれた。 

「絵のしりとり」はしゃべっては駄目で、前の人が描いた絵を解釈して、しりとりで次の絵を描いていく。みんな絵が上手いわけではないので続けるのはなかなか難しい。ある程度絵がたまると答え合わせになり、これがメチャクチャ面白くてみんなで笑える。

他には、新聞紙を切って適当に丸めて、1人1つずつ取る。それを広げて、そこに書いてある数字を読む。大きい数字の人が勝ち! 新聞だから1から何十兆までの数字があって、これも凄く面白かった。どちらもお金もかからない、父らしいアイデアのゲームだ。  

父との思い出いっぱいの渡嘉敷の海に、父の骨を少しだけ散骨しに私と弟と志らくさんと友人達で行った。昔と違って、かなり沖へ泳がないともう珊瑚はない。父が大好きだったお魚が沢山いる場所に散骨したかった。

志らくさんが泳げないのでボートで沖まで行き、私達は水中メガネをかけて海に入った。みんなで丸く広がって、私がスプーン1杯くらいの父の遺灰を撒いた。白い粉がまっ青な海に静かに沈んでいく。とても綺麗なその様子を、私達は手を合わせて見ていた。すると次の瞬間、熱帯魚達が一瞬で全部食べてしまった。

今は禁止されているが、父はいつも魚に餌をあげながら泳いでいた。父は今も魚と一緒に渡嘉敷の海で泳いでいると思う。

連載コラム『しあわせの基準ー私のパパは立川談志ー』は、毎週月曜日配信です。

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