ある日、あるとき、ある場所で食べた食事が、その日の気分や体調にあまりにもぴたりとハマることが、ごくまれにある。

それは、飲み食いが好きな僕にとって大げさでなく無上の喜びだし、ベストな選択ができたことに対し、「自分って天才？」と、心密かに脳内でガッツポーズをとってしまう瞬間でもある。

そんな"ハマりメシ"を求め、今日もメシを食い、酒を飲むのです。

＊　＊　＊　＊

長く会社員をやっていた時代、もっとも頻度の高い昼食は立ち食いそばだった。

職場の最寄りにあったのが「小諸そば」で、安くてうまくて刻みねぎがとり放題だったので、基本的にそこにばかり行っていた。定番は「せいろ」または「かけ」に「いか天」のトッピング。何日続いてもまったく飽きることがないくらい、僕は本当に立ち食いそばが好きだ。

季節の変わり目、たとえば季節が夏から秋へと移り変わり、突然冬のように寒い日も現れだす１１月ともなると、それまでバカのひとつ覚えのように冷たいそばを食べていたのが、急に温かいのを食べたくなる。「今日は冷えるなぁ」なんて言いながら、あの熱々の甘じょっぱい汁をズズズとすする瞬間がたまらないのだ。もちろん春も同様に。

仕事は、毎偶数月末に向けて日に日に忙しくなっていくというのがパターンだった。僕は朝型人間なので、そこへ向け、出社時間がどんどん定時の１０時よりも早くなっていく。そんなとき、地元の駅前で朝ごはんを食べてから行くのが小さな楽しみだった。定番はやはり立ち食いそばで、大泉学園で朝の６時半からやっているカウンターのみの小さな店「松本」の「春菊天そば」がお決まり。「そこはいか天じゃないんだ」と思われる方がいるかもしれないが、小諸そばには春菊天がなかっただけで、僕の立ち食いそばトッピング、不動の第１位は、絶対に春菊天。

今年も先日、突然冬のように寒い日がやってきた。ちょうど大泉学園で取材の仕事を終え、午後２時ごろ。昼食を食べていなかったからちょうどいい。会社を辞めて以来ずいぶん訪れる機会も減ってしまっていた松本へ、久しぶりに行ってみるにした。

「そば　うどん　松本」
良いとしか言いようのないメニュー構成

頼むのはもちろん春菊天そば。家族経営なのか、以前よく見た大将ではなく、２代目風の若い男性が手際良く作業をしている。その間、ぼーっと店内を眺めていると、あるメニューの存在に気がついた。壁のすみのほうに小さく「カンビール　３００円」とある。ここ、飲める店だったんだ！　思えば会社員時代は、ここでそばをすすりながらもそのあとの仕事のことばかり考え憂鬱になっていた。ところが今の僕は気ままなフリーライター。ありがたいことにストレスというものとほぼ無縁になったらからこそ、視界に飛びこんできたメニューなのかもしれない。よし、飲んじゃおっと。

春菊天そばとともにビールも到着

ビールは嬉しいことに、小皿のメンマつきだ。長年通ってきて一度も飲んだことがなかった酒を、いつものカウンターで飲んでいるという愉快さ、わくわく感がとてもいい。メンマをぽりぽりと噛んでキンキンのビールを缶のままぐいっ。は〜、うめぇ。

立ち食いそば屋の天ぷらそばは、時間との勝負なところがある（ちなみに、便宜的に「立ち食い」と言ってるけど、松本は椅子のあるタイプの店です）。天ぷらは時間とともにどんどんつゆの海に沈んでゆき、サクサク感が失われてゆく。もちろん、最後にもろもろになった天ぷらの破片たちをつゆとともにすすりこむ美味しさも大好き。だけど意地汚い僕は、その間の途中経過も含め、全段階の味わいを堪能しきりたいのだ。ここからは、一心不乱にいく。

完璧な春菊天そば
丼に顔を近づけると、顔を包みこむ湯気とともに立ちのぼる、ストレートなかつおだしと醤油の香り。そして、天ぷらの油の香り。

まずは春菊天をひと口。サクリとした歯応えのあと、下半分からじゅわりとつゆが染みだし、それから春菊の香りと小苦い青っぽさが顔を出す。

そばをすする。この、いかにも立ち食いらしいちょっとボソッとした麺がまた好きなんだよな。なんというか、高級な牛肉はたまにでよくて、日常的に食べるなら牛丼のほうがいい。そんな感じ。

ズズズ、サクサク、ジュワッ、ズズズ、サクサク、ジュワッ......。やがて天ぷらはもろもろと崩れてつゆと一体となり、表面に油の粒が浮かびだす。天ぷらの破片たちとそば、そして油でブーストされたつゆのうまさ。それとビールが、思いのほか合いすぎる！　あぁ、なんという幸せを知ってしまったのだろうか。

この状態こそ立ち食いそばの真骨頂

以前、池袋駅構内の立ち食いそば屋で食事をしていたら、隣の若い女性ふたり組が、ごく普通のたぬきそばをやたらとありがたがって食べていたことがある。「これこれ！　これだよね！」「本当！　なんか私、泣きそう......」。度を超えた感激屋さんなんだなと思いつつ、なんとなく耳に入ってくる会話を聞いていると、どうやらふたりは、２週間ほどのフランス旅行からの帰り道のようだった。なるほど、それならわかる。わかりすぎる。

寿司や天ぷらが美味しいのはもちろんだけど、もっとも和食を代表するべきなのって、こういうなんでもない店の、こだわりすぎていないそばだったりするんじゃないだろうか、と、実はずっと思っている。

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