ドイツをはじめヨーロッパで死刑廃止がスタンダードとなっているのはなぜなのか? 死刑制度によらない犯罪抑止の取り組みが重要だと語るサンドラ・ヘフェリン氏

7月6日と26日、オウム真理教による一連の事件で死刑が確定していた計13人の刑が執行された。わずか1ヵ月の間に13人の死刑が執行されるのは戦後の日本社会において異例のことだったが、死刑執行によって真実が闇に葬られるという懸念はあるものの、死刑制度そのものの是非を問う議論はほとんど見られない。

死刑制度のない世界を目指すEUの視点から、日本の現状はどう見えるのか? 「週プレ外国人記者クラブ」第124回は、ドイツ出身のコラムニスト、サンドラ・ヘフェリン氏に聞いた──。

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──死刑が執行された7月6日と26日、ドイツの人権政策・人道支援担当委員を務めるベアベル・コフラー連邦議会議員はドイツ大使館のホームページに談話を発表。「私たちは、この忌まわしい犯罪の被害に遭われた方々や犠牲者のご家族の方々の気持ちに寄り添いたい。その途轍もない苦しみが忘れ去られることは決してない」としながら、「ドイツ政府と欧州連合はいかなる状況下であっても死刑を否定する立場」「死刑は残酷かつ非人道的な刑罰」というものです。

サンドラ この談話について、日本では「内政干渉ではないのか?」という声もあります。ドイツでは、旧西ドイツで1949年に死刑制度が廃止され、旧東ドイツでは87年まで制度が存続していましたが、実態としてはそれ以前から刑は執行されていませんでした。死刑制度を持たないことはEU加盟の条件でもあります。つまり、ヨーロッパでは「死刑制度廃止」がスタンダードとなっているのです。

旧西ドイツで死刑制度が廃止された背景には、戦前のナチズムへの反省があります。ヒトラー政権に対して「白バラ抵抗運動」と呼ばれる批判を展開した大学生のゾフィー・ショルと兄のハンス・ショルらが国家反逆罪で死刑に処せられた記憶は、21世紀に入ってからもドイツで映画化(『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』)されるなど風化することはないし、多くの人が虐殺され、裁判も経ない国家による殺人まで行なわれていた事実はドイツ人の深い反省となっています。

国家に人命を委ねることの危うさ......それがドイツにおける死刑制度廃止の原点にあったと言えます。そして、1949年の制度廃止から約70年が経過した現在、社会に死刑制度が存在しないことは当然の状況となっているのです。

そういう立場からすると、私にとっては死刑制度が存続している日本で廃止に向けた議論が活発にならない状況は非常に不思議なものに思えます。テレビの討論番組などでテーマになることもほとんどありません。殺人など凶悪な犯行の被害者遺族への配慮があるのかもしれません。しかし、ニュース番組などで凶悪犯罪の裁判の前日に被害者遺族のコメントを紹介する際、「死刑を望みます」という発言を誘導しているように感じられることがあります。遺族への配慮と言うなら、そういった誘導尋問のようなことをするべきではないでしょう。

被害者の遺族が「犯人に死刑判決が下ることを望む」と考えることは、感情としては私にも理解できます。しかし、それをテレビ局が画面を通じて社会全体に公表することは実は残酷な行為。そして「死刑を望む」という感情も、死刑制度が存在するから生まれるはずです。死刑という刑罰が存在するなら、自分の大切な人を殺した犯人に対して適用してほしいと考えるのは自然だからです。

──ドイツで「死刑制度の復活を」といった声が挙がったことはないのですか?

サンドラ 現在では、そういった運動はまったくと言っていいほど存在しません。もちろん、ウルトラ・ライトのような一部の人たちには、そういった意見も存在している可能性はあるでしょう。しかし、社会としての議論に発展することはありません。

たとえば、20世紀後半から21世紀の長年にわたり、NSU(国家社会主義地下組織)という極右テロ組織が、トルコなどからの移民を狙った連続殺人事件や爆弾テロを実行し、社会に衝撃を与えました。今年7月、加害者のひとりに無期懲役の判決が出ましたが、ドイツの世論としてはこうした凶悪犯罪に直面しても死刑制度復活論が取沙汰されることはありません。

OECD加盟国のうち、死刑制度があるのは米国、日本、韓国だけですが、韓国はずっと執行しておらず、事実上死刑を廃止しています。米国では州によって存続していますが、裁判で死刑判決が出たときなどに「やっぱり、死刑はよくない」といった声が挙がることはあります。なぜなら、死刑と終身刑の境界は実際のところ曖昧で、人間が人間を裁く以上、同じ罪を犯しても人種の違いなどから一方は死刑に、他方は終身刑といった不公平である可能性が排除できないからです。国家に人間の生命を委ねることの危うさ、人間が人間を裁くことの不条理......そこへの深い懐疑がヨーロッパの社会の根底にあります。

その一方で、人命が大事だとしながらもドイツを含むヨーロッパでは、警察官が容疑者に攻撃された際、正当防衛として容疑者に向けて発砲することが日本よりも多く、その結果、現場で容疑者が死んでしまうことがたびたびあります。日本は警察官による容疑者への発砲はあまりなく、そこはとても慎重ですよね。「人命が大事」とひとことで言っても、そこには「感覚の差」がかなりあるのでしょうね。

──日本では凶悪犯罪の被害者遺族の感情への配慮もあるし、犯人に対する社会としての報復・制裁として死刑制度が意味を持っている面があります。

サンドラ 社会として、死刑制度に頼る以前にできることがあるのではないか?というのがドイツの基本的な考え方です。

たとえば、カルト宗教やテロ組織に取り込まれて洗脳される人を減らそうという取り組みは、ドイツ社会が特に力を入れていることです。オウム真理教による地下鉄サリン事件も、あの教団に入信する人たちがいなければ起こらなかったはずだし、最終的に死刑制度によって罰する必要もなかったはずです。

そういった取り組みの一貫が、公立の学校でも行なわれている宗教の授業です。これは、日本の感覚からすれば政教分離の原則に反すると思われるかもしれませんが、反カルトという観点からも重要だと考えられています。ドイツの学校の授業は生徒個々の宗教的背景に合わせて「カトリック」「プロテスタント」「道徳」という3つのカリキュラムから選択が可能になっています。イスラム系移民や、無宗教の生徒は「道徳」を選択することになります。こうした授業では、世界の伝統的な宗教について学びながら、カルトの危険性も同時に学びます。具体的には、カルトの勧誘の手法まで教えます。

また、ドイツでは宗教法人に対する規制が厳しく、たとえば米国の新興宗教「サイエントロジー」はドイツでは宗教として認められていません。ハリウッドスターのトム・クルーズはこのサイエントロジーの信者ですが、映画撮影のためにドイツを訪問した際、サイエントロジーとの関係を理由に国防省が軍施設内での撮影を認めなかったほどです。もちろん、ドイツでも信教の自由は保証されていますが、伝統的宗教とカルトとの区別が他国に比べて厳しく行なわれているということでしょう。

死刑制度について考えるとき、凶悪犯罪の予防という観点も重要だと思います。凶悪犯罪の犯人が育った家庭環境を調査すると、幼少期に親から虐待を受けていたケースが非常に多く、アリス・ミラーというスイスの心理学者が著書の中でその関連性を詳しく解説しています。

ミラー氏はかつてのルーマニアの独裁者・チャウシェスクの研究などを通じて、独裁者の残虐性と本人が幼少期に受けた虐待の関係を指摘しています。凶悪犯罪の犯人が幼児期に受けた虐待こそが後の犯行の一因であり関連性があるとミラー氏は書いているのですが、こういったことについて社会全体がもっと考えるようになるとよいのではないでしょうか。虐待を受けている子供たちを早い段階で救い出すことは、死刑制度に頼る以前に社会としてできる取り組みだと思います。

──「死にたいけれども自分では死ねない。だから、死刑になるために人を殺した」という理由で凶悪犯行に走る犯人もいます。5月17日に名古屋のネットカフェで起きた殺人事件も、犯人は「自分が死ねないから、ムカついて刺した」と供述しています。

サンドラ そういった動機で殺人を犯したケースとして私が記憶しているのは、2001年の池田小学校事件です。8人もの児童を殺害した犯人は死刑判決から約1年後に、本人の希望通りと言っていいのかわかりませんが、刑を執行されました。たしかに、こういった事件では死刑制度の存在が犯行の動機になったと考えることも可能かもしれません。そう考えると死刑制度がはたして犯罪の抑止力になっているのかどうか......。

死刑制度の存在は日本社会にとってプラスなのか、マイナスなのか。ヨーロッパの感覚で言えば死刑制度は廃止するのがスタンダードです。死刑制度の有無は国家のあり方の根幹に関わるものだと思いますが、日本ではその是非を問う議論もほとんど行なわれません。これは、本当に不思議なことに感じます。

●サンドラ・ヘフェリン
1975年生まれ。ドイツ・ミュンヘン出身。日本歴20年。日本語とドイツ語の両方が母国語。自身が日独ハーフであることから「ハーフとバイリンガル問題」「ハーフといじめ問題」など「多文化共生」をテーマに執筆活動をしている。著書に『ハーフが美人なんて妄想ですから!!』、共著に『ニッポン在住ハーフな私の切実で笑える100のモンダイ』『爆笑! クールジャパン』『満員電車は観光地!?』『「小顔」ってニホンではホメ言葉なんだ!?』『男の価値は年収より「お尻」!? ドイツ人のびっくり恋愛事情』など