「#Me Too」の波が、今度は宗教にまで及んだ。長年にわたる神父の児童虐待に対し、謝罪に追い込まれたローマ法王。カトリックという権威の失墜は、いったい何を意味するのだろうか? 

『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが論じる。

■教会への"忖度"を捨てた欧米メディア

約13億人の信者を抱える世界最大のキリスト教教派、カトリック教会が大揺れに揺れています。

さる8月14日、米ペンシルベニア州の司法長官が、神父による子供への性的虐待疑惑に関する衝撃的な報告書を発表しました。過去70年にわたり、神父301人が1000人以上の子供を虐待してきた。教会はそれを長年、組織的に隠蔽(いんぺい)してきた。

さらに、虐待を行なった神父や隠蔽に加担した聖職者がその後、教会内で重要な地位に就いていた......。これまでも断片的にこうした疑惑は浮上してきましたが、各国でも同様の話題が一気に噴出。ついに宗教の分野にも「#Me Too」の波が押し寄せてきました。

カトリック教会のフランシスコ法王も、さすがに沈黙を続けることはできず、ウェブ上に長文の「声明」をアップしました。

その英語版に目を通してみると、最低限の謝罪の言葉を除けば、率直に言って驚くほど何も言っていない。「信仰を新たにするために皆でお祈りを」とか、「すべてのキリスト教徒が共に考えなければ」といった内向きの論理が目立ちます。

なかには、「聖職者のエリート主義を許してしまった者たちも反省すべき」などという、極めて官僚的な"両成敗"のような言い回しもあります。

これに対し、欧米の多くのリベラル系メディアは批判的な論調をとっています。きれいな言葉でごまかしているだけじゃないか、本当に浄化する気があるのか―と。

ただ、実際のところはメディアや社会の側にも反省すべき点がある。長年にわたり、多くの人々はカトリック教会のさまざまな"不都合な真実"について、見て見ぬふりをしてきたからです。

カトリック教会の児童虐待の問題が報じられたことは以前にもありました。例えば2002年には、米ボストン司教区の司祭が30年にわたり130人もの児童を性的虐待し、教会側もその事実を知りながら黙殺してきたことを地元紙が告発しています。

しかし、このとき多くのメディアは及び腰で、調べればすぐにわかるような後追いすら満足にしませんでした。人々の信仰の対象であり、かつ大きな票田でもあった教会の"闇"は、メディアにとっても司法にとっても警察にとってもアンタッチャブルだったからです。

権威を前にして「ここに首を突っ込んだら面倒だ」とばかり"忖度(そんたく)"がなされ、報じるべきことを報じない――日本では記者クラブを中心に日常的に起きていることですが、こと宗教に関していえば、アメリカも似たようなものだったのです。その歴史を踏まえれば、現在のカトリック批判は「時代が動いている」ことの証と見るべきでしょう。

■人間社会から"奇跡"が消えたら?

ただし、この問題の終着点がどこにあるのかと考えてみると、状況はかなり複雑です。リベラルメディアは「#Me Too」の基準を持ち込み、カトリック教会にコンプライアンスを求めていますが、これは本当に可能なことなのでしょうか?

2013年に就任した初の南米出身法王フランシスコは、従来の権威的なカトリック教会に対するカウンター的な存在でもありました。弱者の味方を貫き、改革に積極的で、米大統領選に出馬したバーニー・サンダースや英労働党のような社会民主主義を支持し、政治に対しても踏み込んだ発言が目立ちます。

そんな法王だからこそ、今回の問題について正式に謝罪できたのです。その中身は確かに物足りないものではありましたが、米オバマ前大統領が広島を訪問して原爆投下について(謝罪の言葉までは言えなくとも)踏み込んだ発言をしたのと同じように、「ギリギリ言えるところまで言った」のが今回の声明文だったと思うのです。

そんな言い分は今の時代では通用しない―欧米のリベラルメディアや識者たちは、そう言わんばかりにカトリック教会を「炎上」させ続けています。ついこの間まで人工中絶が違法だったカトリック国のアイルランドでさえ、先日のフランシスコ法王来訪の際には抗議行動が広がり、一部の政治家も教会を激しく批判しました。

しかし、そもそも神の存在を"アプリオリ"(議論以前の自明な概念)とする宗教と、すべてを水平化して議論による進歩を是とする現代リベラルの理想は極めて食い合わせが悪いものです。

もちろん性的虐待の事実を(かつてのように)見過ごすことはできませんが、このままフランシスコ法王が背負っている"何か"に目を向けず、謝罪と浄化と透明性を求め続けた先に何があるのか。その点については、よくよく考えてみる必要があるでしょう。

インターネットが社会の隅々まで行きわたり、SNSで誰もが自由に発言できるようになった結果、ポピュリズムが力を持ち、飛び交う言説は暴力的になった。今、世界はそんな"社会実験"の真っ最中であるといえます。

そんな現代において、宗教という神秘的な権威がなくなったら、人々はよりファナティックに、より過激な方向に向かってしまうかもしれない。

旧態然とした権威が崩れていくのはある意味で爽快かもしれませんが、宗教的な"奇跡(ミラクル)"を信じるからこそ、「なんで私が他人を助けなきゃいけないんだ」という心理や、弱く生産性がない人間に福祉を与えるのは税金の無駄だという功利主義を乗り越えられることもあるわけです。

「#Me Too」が社会を前進させていることは間違いない。ただ、その正義に酔うあまり、人間社会に必要な"奇跡"まで失われてしまうとしたら?

フランシスコ法王の謝罪は、「もう戻れない橋」を渡り始めるきっかけになってしまうかもしれません。

●モーリー・ロバートソン(Morley Robertson)
国際ジャーナリスト、ミュージシャン。1963年生まれ、米ニューヨーク出身。『スッキリ』(日テレ系)、『報道ランナー』(関テレ)、『教えて!NEWSライブ正義のミカタ』(朝日放送)、『水曜日のニュース・ロバートソン』(BSスカパー!)などレギュラー出演多数。2年半に及ぶ本連載を大幅加筆・再構成した書籍『挑発的ニッポン革命論 煽動の時代を生き抜け』(集英社)が好評発売中!!!