在宅勤務が増え、ネットを介したコミュニケーションが強いられているが、対面でのやり取りに比べて不都合な点も多い。相手の真意が掴みづらいなど、精神的な負担を感じる人もいるだろう。

そこで前編に続き、アフリカで現地の人々の中に入り込んで研究する京大総長・山極寿一(やまぎわ・じゅいち)氏と立命館大学教授・小川さやか氏が、彼らから学んだ処世術を基に、人間関係での息苦しさへの対処法を伝授する。

■保険は基本、人。「借り」はなんとなく残しておく

山極 アフリカの人たちは、いわゆる僕たちが考える「保険」というものはかけませんね。彼らにとっての「保険」とは、まわりにいる人のことなんだよね。

小川 そうですね。まさに人が保険です。だから貸し借りの帳尻もあえてきちんと合わせたりしない。貸しがいくら残っているかをいつも正確に計算するわけではない。ただ何となく貸しが残っているはずだから、困ったときは頼ろう、みたいな感覚もある。

山極 逆に誰かに何かしてもらっても、それを「借り」だとは受け止めないんだね。そんなの当たり前だぐらいに思っている。そういう感覚に慣れていない日本人がアフリカに行くと、すぐに腹を立てるじゃないですか。

小川 よくボラれるし、何かといえば支援を要求されたり、プレゼントしてもまったく感謝してもらえないことなどですね。

山極 例えばサッカーボールを1個持っていってプレゼントだって渡すでしょう。ボールをあげるんだから、もらった方はさぞ喜んでくれるだろうと思ったら大違いで、逆に恨まれたりする。もらう側からすれば、「俺たちのグループは3つあるのを知っているくせに、どうしてボールは1個しかないんだ」という理屈ですね。

小川 その理屈、よくわかります。私も友人に「君はみんなに渡すつもりで、ひとつひとつはガラクタのような贈り物をスーツケースいっぱいに詰めて持ってきた挙句、もらった人にはもっと良いものくれと詰め寄られ、もらえなかった人には恨まれている。君が増やしているのは仲間かそれとも敵か、どっちだ」と笑われたことがあり、それ以来、"土産をくれ攻撃"は笑顔ではぐらかし、その時々の局面でその人に必要なものを私の余裕に応じてあげるというスタイルに。

山極 持てる者のおごりを感じるんだろうね。相手が持っていないもの、例えば高価なサッカーボールをあげるのだから、それだけで喜ぶはずだと勝手に思い込んでいる。誤解という点では、相手を信用しすぎるのもよくない。誰かと面と向かって話していて、高価なものをテーブルに置いてトイレに立つなんてのは論外。

小川 わざわざ見せびらかすように置いてどこかに行く。そんなのは「持って行ってくれ」と言っているのに等しい。私もすっかり彼らの論理になじんでいますが(笑)。

■過度な信頼は「無礼」

山極 相手を過度に信頼し過ぎるのは、アフリカの人たちにとっては無礼なことなんです。相手が持っていなくて、自分が持っているものをひけらかした上で、相手の目の前に置く。そして自分はトイレに立つ。それでも相手は取らないなどと考えるのは、勝手な期待以外の何ものでもない。

小川 目の前にまるで取ってくださいと言わんばかりにお金を置いて、「取らないでね」というのは、相手に不必要な我慢を強いることになりますからね。

山極 財布を置いていく側は、無意識のうちに自分と相手の格差を認めさせたいと思っているんですよ。お前の方が下なんだとわからせた上で、でも手出しはするなよと。口には出さないけれど命令している。これは無礼なんです。

逆に言えば、僕たちがとんでもない社会に暮らしている証とも考えられる。人間に対する捉え方が根本的に違うわけです。人間なんだから、好きなもの、欲しいものが目の前にあったら取るのが当たり前。「俺の欲望まで押さえつける権利などお前にはないだろう」と。取られたくなかったら見せるなというのが、彼らアフリカの人たちの考え方。なにか大事なものを見せるときには、それを相手から「くれ」と言われたら断らない気構えが求められる。あるとき僕が「お前の腕時計くれよ」っていったら、あっさりくれましたから。

小川 その感覚、よくわかります。私も「ちょうだい」っていったら何でもくれました(笑)。でもそうやって私がときどき挑戦することも、私と彼らの友情において大切だと思っています。

山極 かつて自分の所持品だったものを、相手が持っているという状況が絆の証なんだよね。「あのときお前、俺の腕時計持っていっただろう。あれ、今でも持っているか」ってずっと言われますから。人と人のつながりが、ものによって担保されている。

小川 一方では絆があっても、人は追い詰められると、とんでもないことをするものだという達観もある。追い詰められたときに、聖人ぶる必要なんてないというのは寛容さとも裏表です。

山極 僕は酒を利用するんです。山極はふだん厳しいけれど、酒を飲むとえらく気前が良くなるとか、ちょっとおかしくなると思わせておく。すると、僕が酒を飲み出すと、みんなで僕を守ってくれる。

小川 お酒の席ではいろいろな厄介ごとがありますからね。

山極 飲みかけの酒を置いたままにして、トイレに行ったりしちゃ絶対にだめなんです。下手すると毒を入れられたりしますからね。そんなときでも顔見知りが一緒にいてくれると、しっかり見張っていてくれる。

小川 私もトイレに行っている隙に薬を入れられた経験があります。隣に座っていた友だちが「あいつ、なんか入れたよ」って教えてくれた。それで、その人がトイレに立ったときに私のコップと入れ替えたんです。彼がトイレから戻ってきて、それを一口飲んだらバタッと倒れてしまった。「うわっ、思ったより強烈なのが入っていた」って(笑)。ぶっ倒れた人も一応仲間なので「酒に弱すぎだよ」としれっと流しておいたら、二度としなくなりました。

山極 アフリカにはいろいろな民族がいて、ファミリー単位や地域単位で信頼関係にグラデーションがついている。だから、一見すごくざっくばらんに打ち解けているようでいながら、実は完全には信用していない。

小川 信用し過ぎるのは、相手にとっては重苦しいこともあるし、異なる相手に応じてその都度の関係をやりくりしたり、相手の豹変に対応する知恵を放棄することでもありますからね。

山極 だまされたほうが嘲られて、だましたほうが尊ばれる。詐欺師というのは、頭の良い人を意味しますからね。だまされたほうが悪くて、だまされないためには警戒しないといけない。

人間関係とは、そもそも100%打ち解けるようなものじゃない。ただし、同じ人間同士なんだから基本的には適当にうまくやりましょうと考える。その背景には一定の緊張感がベースにある。その緊張感の重要性も僕らは忘れているね。

■うまくダマされることが付き合いのコツ

山極 相手を完全に信用したりしないから、いろいろなやり取りができるわけです。ウソを言うのだってへっちゃらなところがあります。ウソも前提とした上で、それでも人と人のつながりを維持していくことが大切なんです。僕らは相手に対して正直でなければならないという幻想にとらわれ過ぎている。

小川 おっしゃるとおりです。100%正直ベースになったら、人間関係が崩壊します。

山極 人間関係をつなぎとめるためだったら、少々ウソをついてもいいんですよ。「明日、何時にどこどこで会おう」と約束するじゃないですか。ところが、彼らは簡単に約束を破る。どうして来なかったんだと問い詰めると「お前のことはずっと考えていたけれど、俺も大変だったんだ」などと言うわけです。彼らの仲間内では、そんな言い訳はウソだとみんなわかっていて、それでもまあいいじゃないかとなる。

小川 それが彼らのつながり方なんですね。だましたかだまさなかったかという事実よりも、その背景にあるだろうそれぞれの事情を察知してどう動くかのほうが大事ですよね。

山極 ウソをついても、つかれても、どちらにしてもつながっている。言葉や表情でわかります。だから、ウソを言ってもいいし、そもそもみんながウソを言うものだとコンセンサスが取れている。

これに対して我々日本の社会では、相手に対して正直であることが、お互いの関係をつなぐと思っている。でもこれでは息苦しい。少し考え直してもいいかもしれないと思いますね。

小川 私がアフリカでマチンガ(零細な古着商人)をやっているとき、まわりからよく言われたのが、だまされ方です。だますのは簡単だけれど、うまくだまされてあげるのは高度な技で、こっちのほうがはるかに重要なんだと。

山極 その通りですね。

小川 ある時にはだまされたふりをして流すし、別の時には気づいていることを匂わせ、時にはだまされること自体を面白がってみせる。うまくだまされてくれる人と付き合っていると、うまくウソをつくこととは何かについても考えさせられます。

山極 僕がさっき酒を使うと言ったのは、酒を飲むと僕はだまされやすくなる、とまわりに思わせるためです。するとまわりが気を遣って「お前、だまされてるから、これには従っちゃいけないぞ」と注意してくれる。だから「まわりがダメだと言うから、できなかったんだ」と言える。これは僕のウソなんだけれどね。

小川 ウソに慣れると、人間関係のギクシャクを吸収するクッション材のように使えますね。

山極 ウソも混ざった重層的な仕組みの上で人間関係がうまくできている。これが逆に何でも正直にとなると、すごく硬直的な関係が前面に出てしまって、緩やかにつながることなんてできなくなる。

小川 そうなると古着の商売なんかできないでしょうね。

山極 物々交換をするときには、相手のものを二束三文みたいに価値を下げておいて、いかに自分のものの価値を高めるかで勝負するわけでしょう。

小川 お互いがそうやって折り合いをつけるわけですからね。

山極 経済なんてある意味、ウソで成り立っているようなもので、ウソがなければ利益なんて生まれない。それが人間の本質じゃないですか。

■わからないからこそ恋に落ちる

小川 コミュニケーションだってウソになっていないウソの連続で成り立っていると思っています。「すごいですね~」「いやいや」「またまたぁ」というやり取りに没入している時には、相手の気持ちを想像しながら、こうかな、それともこうかなと賭けとしての言葉を必死に繰り出しているわけですけど、はっと我に返ったら、ウソばっかりにみえるかもしれない。でもそれで人間関係は紡がれているのですから。

山極 ネットがすぐに炎上するのは、文字(テキスト)だけの世界だから。言葉がテキスト化されると、その奥に隠された意図が削ぎ落とされてしまう。文字だけによる情報と、対面での会話には本来、明らかな違いがある。面と向かってのデタラメやウソなら、その場の雰囲気に応じて相手の本音を読み取れる。けれども、それが文字になった途端に表層を変えてしまうんだね。

小川 リアルに誰かと一緒にいるときの「ふふっ」とか「やだぁ」などの言葉を文字起こしされてテキストで読んだりしても、私は何をやっているんだ?と思ったりします。

山極 人間ってあいまいで、相手のことは本当はわからない、というのがコミュニケーションの前提なんです。わからないから話をするし、話をする中で合意にも達する。それが全部わかってしまうのなら、コミュニケーションする必要がない。

小川 私も「君のことは、何でもわかるよ」なんて言われたら、正直「気持ち悪っ」って思ってしまいます(笑)。コミュニケーションって、自分に都合よく解釈できるあいまいさがあるから成り立っているのであり、それによって不安や疑心暗鬼に陥りもしますが、わからないからこそ恋にも落ちますし、友情が芽生えることもあります。

山極 ロジックだけではカバーできない部分が確実にあって、そこでは言い回しや態度などで「こういうことを伝えたいんだ」と補足しているわけじゃないですか。それが文字情報では全部消えてしまうからね。ビデオチャットが発達して、いくらリアルな映像を見せられても、実際に会って相手と向かい合っているコミュニケーションとは違うと思います。

■いい加減を許せば息苦しくならない

山極 僕が爆笑問題の太田光さんと出した本(『「言葉」が暴走する時代の処世術』)で強調したのは、テキストメッセージを読むときに、書いた人が目の前にはいないことの意味なんです。相手の姿が見えないから、読み手は書かれた言葉だけに引きずられて解釈してしまう。それでは書いた本人の意図は一部しか伝わらない。

小川 テキストメッセージは、目の前にいない人をどのように想像するかにかかっていますよね。

山極 対面だと反応まで伝わるやり取りができますね。これが非常に重要じゃないかな。

小川 確かに反応が直接返ってこないテキストメッセージだと言葉が暴走しがちですね。でもその結果、言葉に対するタブーやルールがどんどん増えてしまい、地雷だらけになっているような気もします。

私は、地雷を踏む発言をしたり、不適切な解釈をしたりすることに他者に対する想像力が足りないという一面的な人間理解をして、「正しい」想像力の発揮をあまりに過剰に他者に期待するのも、テキストを介したやり取りの豊かさを損なうと思っています。京大って変な先生がたくさんいるじゃないですか(笑)。高尚な文章から想像していたのと異なる変人ぶりを日頃から目の当たりにしていると、もっとゆとりをもって言葉も人となりも受け止めておこうとなってしまいますよね。

山極 確かに(笑)。言葉を解釈するときに「余裕」がないと感じますね。本来、言葉には字面だけではなく、深い意味やいろいろなものにコネクトする力がある。それがテキストになると、非常に表層的な意味だけに収斂してしまう。それによって失われているものの大きさにもっと注意を向けるべきだと思いますね。

山極寿一(やまぎわ・じゅいち)京都大学総長。霊長類学者・人類学者。京都大学理学部卒、同大学院理学研究科博士課程修了。アフリカ・ルワンダのカリソケ研究センター研究員、日本モンキーセンター、京都大学霊長類研究所、同大学院理学研究科助教授を経て同研究科教授。近著に『未来のルーシー』(中沢新一氏との共著)がある。

小川さやか(おがわ・さやか)立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。専門は文化人類学、アフリカ研究。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程指導認定退学。博士(地域研究)。著書に『都市を生きぬくための狡知』(世界思想社)、『「その日暮らし」の人類学』(光文社新書)などがある。