『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、かつて前衛音楽家に心酔した経験について振り返る。

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4分33秒間の沈黙までも1曲の作品とした前衛音楽家ジョン・ケージ(1912~92)の思想に、かつて僕は狂信的に心酔していました。"出会い"は80年代初頭。

ある日、ハーバード大学の電子音楽の教室を兼ねたスタジオにケージ本人が現れ、数人だけの学生たちと直接やりとりをする場があったのです。僕はそこで言葉を失うくらい感動し、真実に目覚めました。それまで聴いていた音楽はすべて偽物だったとまで思いつめ、その後の音楽人生にも大きな影響を及ぼすことになったのです。

ただし、僕がとりこになったのは、あくまでも「ベートーベン時代の音楽は全体主義を生んだ」「毛沢東(もうたくとう)の文化大革命が今や全世界の若者に広がりつつある」といった過去のケージのラディカルで扇動的な言説でした。

一般的にも功績が認められ、ある意味でエスタブリッシュと化した80年代のケージからは、もうその過激さが影を潜めていたのですが、僕は過去の講演録や書籍を読みあさり、「ケージよりもケージ的である」ことを目指し、原理主義に走りました。

気づけば世の中の音楽や思想がすべてウソにしか思えず、自分だけが真理をわかったような気がしていた。"ネットで真実"ならぬ、"図書館で真実"の状態です。

そのしばらく後に直接対話する機会を得たとき、ケージは僕に「いろいろな音楽は共存できる」と言いました。間接的な表現ではありましたが、「自分に狂信する必要はない」と諭すように。

しかし、僕は内心で「ケージも年老いたな」と受け止め、彼が若き日に打ち立てた革命の火を引き継ぐことを心に誓いました。―僕がその"啓示"から距離を置くようになるまでには、それから30年間近くかかりました。

最近、日本でも「Qアノン」の信者が増えているようですが、人間がカルト的な思想にはまり込む過程には似た構造があると思います。

僕の場合は、ケージがある時代だけに持っていた最も先鋭的な部分を音楽的な"正義"とし、メインストリームを否定することに自分の存在意義を見いだし、"ひらめき"を得られない一般人を哀れんでさえいました。

しかしそうなると、他人の矛盾を指摘して論破する"特定の筋力"だけが異常に発達してしまう。特に現代のネット社会では、自分が好む意見や思想を補強するような"ソース"が簡単にいくらでも見つかります。

結果、わかり合える仲間と小さなサークルをつくり、自分たちだけがまともだという思想がより強化されていく。これは社会運動などでもしばしば陥りがちな罠(わな)でしょう。

しかも、現代はカルト的な狂気が共有されやすくもある時代です。最初は本当にちっぽけだった言説や事件が、いつの間にか象徴的な意味をまとい始め、政治家や著名人らが便乗して社会に広がっていく―そんなケースは枚挙にいとまがありません。

「3・11」以降の約10年間、日本の言論空間はそうした混乱のなかにあり続けたように思えますし、トランプはその風潮に油を注ぎ続けることで権力を維持してきました。

誰のためになっているのかまったくわからない"真実の戦い"に、多くの人が身を投じている―その様相を一歩引いて眺めたとき、僕はケージに心酔し続けてきた自分を思い起こしてしまうのです。

●モーリー・ロバートソン(Morley ROBERTSON)
国際ジャーナリスト。1963年生まれ、米ニューヨーク出身。『スッキリ』(日テレ系)、『報道ランナー』(関テレ)、『所さん!大変ですよ』(NHK総合)などレギュラー出演多数。2年半に及ぶ本連載を大幅加筆・再構成した書籍『挑発的ニッポン革命論 煽動の時代を生き抜け』(集英社)が好評発売中!

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