兪炳匡氏(左)と内田樹氏が緊急対談

既存の日本再生論がどんなに成功しても、「99%」の人々の生活を潤わせることにはならない――そんな衝撃的な内容で話題になっている『日本再生のための「プランB」 医療経済学による所得倍増計画』(集英社新書)。

著者の兪炳匡ゆう・へいきょう)氏と思想家の内田樹うちだ・たつる)氏の対談をお届けする。(※この記事は、集英社新書編集部が取材、編集したものです)

■先進国の体を成していない日本

内田 兪先生の『日本再生のための「プランB」』、拝読しました。緻密なのに気宇壮大で、爽快感のある本でした。兪先生は医師であると同時に医療経済学者でもあるので、推論の論拠として、必ずきちんとした統計やデータを示してくれます。そういう科学的に厳密な話をしているうちに、「予防医療による雇用創出」とか「北東アジア共同体」というようなスケールの話が出てくる。振れ幅が大きいんです。

でも、極小の話から極大への話がシームレスにつながっていて、読みやすいし、説得力があります。兪先生のような書き手は今の日本には希有だと思いました。

 ......あまりに光栄で一瞬言葉を失いましたが(笑)、アメリカに25年住んでいた私から見ると、長らく日本で流布している「再生論」があまりに変なんです。日本(地方)再生論にしても新型コロナ対策にしても、極めて重要な視点やエビデンスが数多く欠けている。それらを指摘しながら、私独自の再生論を提言したいというのが執筆の動機でした。大げさではなく、それを果たさないうちは死ねない、という覚悟で書きました。

内田 その気迫が伝わる本です。慨世(がいせい)の言というか、遺言を読んでいるような気がしました。

 新型コロナ対策の話をすると、特に何もしなくても「時が解決してくれる」と思っている人が日本にはたくさんいます。例えば、人間には台風の進路を変えることはできませんが、感染症をもたらすウイルスは人間と一緒に移動しますから、政府の対策と人間の行動が変われば、感染状況も劇的に変えられます。実際、台湾はいち早くそれを政策として実行して、大きな成功を収めています。具体的には、ワクチンが全くない状態でも、PCR検査と隔離の徹底を実施することで、約8か月にわたり国内の感染者をゼロに抑えたことは、国際的に高く評価されています。

他方、日本では、不十分なPCR検査の言い訳として、「ワクチンが近い将来開発されれば、パンデミックは簡単に終息するから」との楽観論が支配的でした。それと矛盾するようですが、日本政府はワクチン開発への資金援助に非常に消極的でした。ワクチン開発ですら、初めから「他国頼み」だったわけです。

さらに、他国でワクチンが開発された後も、本来なら日本国内でのワクチンの効果を検証した上で輸入量を決めるべきでした。なぜならウイルスの変異に伴いワクチンの効果も変化する可能性があるので、効果の低いワクチンの輸入には慎重であるべきだからです。しかし、ワクチンの効果を検証する前段階としての、ウイルスの変異を頻回・大規模にモニターして公開するシステムすら機能していません。ワクチン効果の検証を二の次にして、とりあえずワクチンを大量に輸入できているかというと、それすらできていません。

内田 外国から買うワクチンも予定がずれてなかなか入ってこないし、本格的な接種は今年の後半になるかも知れません。新型コロナ対策一つを取って見ても、日本の統治機構はまったく機能していない。あまりに急激なシステム劣化に愕然とします。

 日本は未だに、感染者数やPCR検査数などに関して、研究者が分析に使えるまともなデータベースがないんです。行政にとっても、全国の感染状況を把握するために、データベースを構築することは必須です。このデータベースを、諸外国のように、個人情報を除いた上で一般公開すれば、世界中の研究者が、タダで日本のために分析してくれます。

しかし、行政が使うデータベースですら、準備から1年以上経過した現在まで十分機能していません。今回の新型コロナ以前から、既に機能している様々な感染症のデータベースをグレードアップすればよいだけです。日本のIT技術と資金を集中的に投入すれば、1か月以内に新たなデータベースの構築と公開は可能なはずですが、なぜか、1年経っても実現できない。

内田 日本はもう先進国の体を成していないという気がします。感染者数が欧米に比べて比較的少ないことについて「オリンピックを中止させないために、誰かが感染者の実数をごまかしている」という陰謀論を語る人がいますが、僕は違うと思います。陰謀論というのは「すべてをコントロールしている張本人が存在する」という信憑において一神教信仰と同型です。「世界には秩序がある」と信じたい気持ちの発露なんです。

でも、今日本で起きていることはそれとは違う。統治機構にある人たちが自分勝手に、自己利益を図ったり、責任回避をしたり、手柄顔をしようとして支離滅裂に行動していることの複合的な効果として、このていたらくがある。このような事態を計画した人はいません。

たしかにこの混乱から受益している人はいますけれど、受益者であることはマニピュレイターであることを意味しません。誰ひとり全体を俯瞰していないし、誰一人制御できないままシステムが暴走し始めて、ある種の無政府状態になっている。

 おっしゃる通りだと思います。最初は私も、オリンピック開催のためにコロナウイルス感染者のデータを収集した後、一部を非公開にしているのかと思っていました。しかし、そもそも最初の段階であるデータの収集すら十分にしていませんでした。もし本当に観客を入れてオリンピックを開催したければ、もっと大規模なPCR検査体制を整備して、コロナの早期終息を目指すと思うんですが、そういう合理的判断すらできなかった。

■上のほうにバカがいる

内田 兪先生の本にも出てきますが、80年代に日本がGDP世界第2位だった時期、時価総額のランキングベスト50社に日本企業が32社も入っていた時期には日本のシステムはたしかにうまく機能していました。それがバブル崩壊後、90年代末から崩れ落ちるようにシステムが機能しなくなってしまった。この没落ぶりがすごい。

 ワクチン開発にしても、80年代まで日本は世界でもトップ・レベルでしたが、90年代以降は開発能力を失って、アメリカとEUに完全に水をあけられました。今回の新型コロナウイルスのワクチン開発でも、国内での開発が難しいなら、日本政府はせめて外国の有望な企業に巨額の開発補助金を出すとか、大規模な治験に協力するなどできたはずです。それができていれば、もっとスムーズにワクチンが輸入できた可能性は、非常に高かったと思います。

例えばアメリカ政府は、一企業に1000〜2000億円単位の開発補助金を、複数の企業に出していました。現在アメリカ政府がワクチンを大量に調達できているのは、単に資金があるからではなく、開発段階から積極的に関与したからです。

一方、日本政府の開発補助金の規模は、せいぜい100億円単位でした。2021年の1月末に成立した(2か月後までに使う)補正予算は約19兆円で、そのうち観光需要喚起策「Go To トラベル」の予算だけで1兆円使えるのですから、日本政府にお金が無いわけではありません。

内田 僕は今の日本の国力衰微の原因は制度設計のミスではなく、人間の質が劣化したせいだと思います。社会システムそのものは高度成長期からそれほど変わったわけじゃない。それなのにかつて世界に君臨したシステムが「先進国最下位」が定位置になるまで機能不全に陥った。僕はその理由は「バカしか出世できない」ようにシステムを運用したせいだと思います。「うちの会社はダメなんです」と愚痴を言う人に理由を聞くと全員同じ答えで、「上がバカだから」(笑)。ある時点から、日本はバカだけが選択的に出世するような仕組みになった。トップのアジェンダに拍手喝采するイエスマンの前にしかキャリアパスが開かれないようになった。長期的スパンでものごとを考えて、上位者に苦言を呈する人間は次々と排除された。

たしかにイエスマンだけで構成された組織は管理コストが安く上がります。上意下達で、トップへの反論が許されない仕組みなら合意形成の手間が要らない。それをみんなが「組織マネジメントの大成功だ」と囃(はや)し立てた。そうやって「組織管理コストの最小化」に夢中になっているうちに、その組織がいかなる価値を生み出すために存在するのかという根源的な問いを誰も考えなくなった。そしてある日気がついたら国際政治におけるプレゼンスも、経済力も、文化的発信力も何もかも失われていた。

この「管理コスト最小化原理主義」が登場したのはバブル崩壊のあとです。それまで「パイを大きくすること」ばかり考えていた日本人が今度は「パイの適切な分配法」について騒ぎ出した。自分のパイが毎年大きくなっているときは隣の人間の取り分なんか気にならないんですけれど、パイが縮み出すと、急に自分の取り分が不当に少ない、隣の人間が「もらい過ぎ」だという猜疑心(さいぎしん)が湧いてくる。そして、「公的資源の分配に際しては、社会的有用性や貢献度の高い人間に多めに分配しろ。役に立たないやつには何もやるな」と口をとがらせるようになった。「選択と集中」というようなことを言い出したのは、要するに貧乏になったということなんです。

 公共部門における「選択と集中」は、70年代のイギリスから重用された概念ですね。国としての経常収支の赤字と、政府の財政収支の赤字が続いたのが原因で、イギリスで通貨危機(外貨準備不足)が起こりIMF(国際通貨基金)の資金援助が必要になった。IMFは資金援助の条件として、財政赤字の縮小を要請した。この要請に従い、どの政府事業を縮小するかについて、計量的・経済学的なエビデンスが必要になり、公共部門で費用対効果分析の役割が大きくなったという経緯があります。その後レーガン政権のアメリカなどもイギリスに倣(なら)って、公共部門での「選択と集中」は世界のキーワードになりました。経済学が公的資源の分配に直接的に貢献するようになったんです。

私は90年代前半に、「米英に倣い、日本政府も選択と集中をやらなければダメだ。しかし、日本にはそれができる専門家が、特に医療分野では殆(ほとん)どいない」とある官僚の方から聞いたことがきっかけで、95年にアメリカへ留学しました。医療経済学を学んで日本社会に貢献したいと思ったのが、留学の最大の理由でした。でも、日本の公共部門ではなかなか「選択と集中」が本格的に始まらないので、日本への帰国を先延ばしにしているうちに、結局25年もアメリカに滞在することになりました。

■「選択と集中」すらできていない日本

内田 日本の「選択と集中」が失敗したのは、どの領域に優先的に資源を配分すべきかを決定する立場の人間たちに「選択」能力がなかったからです。税金の使い道を決める人たちが、公共財を私腹に収めることに夢中になった。

近代市民社会の原則は、私財の一部を公共財に供託することによって公共財を豊かにして、それを再分配の原資とするという考えでした。みんながアクセスできる、みんなで分かち合える公共財を分厚くすれば、貧富の差のあまりない平等で公正な社会が実現するとロックやホッブズは考えた。でも、いまの日本人には公共財を豊かにするという発想がまったくない。むしろいかにして公共財を私財に付け替えるか必死で工夫している。

 ええ、日本は公共部門の「選択と集中」にすら真面目に取り組んでいるように見えません。例えば、医薬品や医療機器に対して、公的医療保険が支払う値段を決める場合にも、費用対効果分析に基づく「選択と集中」が重要ですが、それを日本が制度として採用したのは2019年で、先進国の中では圧倒的に遅い。東南アジアのタイに比べても、11年も遅れているんです。

しかも、私が知る限り、諸外国に比べて、日本政府内の費用対効果分析の中身は、かなりお粗末です。他の先進諸国、特にオランダやカナダは、費用対効果分析の方法論から政策判断基準まできちんと公表していて透明性が高いのです。

一方、日本は未だに政策形成過程の殆どがブラックボックスなんです。「官僚が総合的に判断して決めた」最終的な政策だけを出されても、政策を作るどの過程で科学的・経済学的なエビデンスがどの程度反映されているかが分かりません。このように、透明性の低い政策の作り方をしていると、内田先生がおっしゃったように公共財に手を突っ込んで、そこをやせ細らせている人達がいても監視できません。

アメリカで最先端の政策評価法を学んで日本に戻ってきたら、日本の政策評価は「砂上の楼閣(さじょうのろうかく)」でした。政策評価に対する政府・社会の「需要」が弱いので、政策評価を支える土台が砂のように弱いのです。「楼閣(政策評価)」をデザインするのが、学者の仕事です。この学者としての仕事だけでなく、同時に社会での「需要」を高める、土台を強化する仕事を長年考えてきました。後者の土台を強化できれば、広い意味での日本再生にもつながります。この一石二鳥を狙う奇策が、予防医療と教育、演劇を組み合わせた方法だったんです。

■これからは「医療」「教育」「芸術」  

内田 兪先生が本の中で提案する「プランB」は、医療と教育と芸術という3本の柱が融合するセクターに資源を集めることで日本を再生するというものですけれども、その着眼点はすばらしいと思います。

 ありがとうございます。望ましい方向に「社会を変えたい」と考える人は、多くいると思います。これまでの日本では、「社会を変える」ためのメインのキャリアパスとは、中央省庁か大規模な営利企業に入って出世してから「社会を変える」ことでした。しかし、最近の一連の不祥事の報道を見ていると、中央省庁や大企業で出世しても、組織内の地位を通じて「社会を望ましい方向に変える」裁量権は、非常に小さくなっているようです。

そこで、私は「プランB」を通じて、「社会を変える第3の道」が非営利の分野にあることを周知したいと思っています。プランBの実施組織としては、地方自治体政府と「非」営利民間団体(NPO)があります。プランBが対象とする産業セクターは、医療・教育・芸術(特に演劇)です。これらのセクターを、歴史的に非営利組織が担ってきたことは世界共通です。しかし、これらのセクターは、80年代以降多くの国で「本業」の利潤率低下に苦しむ営利企業の、草刈り場になってしまいました。医療・教育・芸術を公共財として取り戻すためにも、これらの分野で非営利組織の役割を大きくすべきです。プランB下の非営利組織で働くことで、「自分も社会を変えられる」という実感がもてることを目指しています。プランBのため、副業として月に数時間だけでも働けば、規模が小さくとも社会を変えられます。このような人々が、日本の全人口の1%(120万人)になれば、社会が大きく変化すると期待しています。

内田 若くて優秀な人たちがいまは地方に行って、農業をしたり、小商いをしたり、非営利的な活動を始めています。僕の周りにもそういう若者がたくさんいます。彼らに共通しているのは、どれも私財を公共的に供託して、「コモン」を再構築しようとしていることです。

僕の友人の青木真兵・海青子夫妻は東吉野の山中の自宅をルチャ・リブロという「私設図書館」として開放しています。旧友平川克美君も「書物は私有すべきではない」と、自分が経営するカフェに自分の全蔵書を移して、誰にでも読めるようにしました。とにかく公共財を豊かにするという方向においては一致しています。

周防大島で農業をやっている中村明珍君はパンクバンドのギタリストでしたけれど、地方移住してから得度(とくど)して、お坊さんになりました。だから、いまは農家で僧侶で時々ミュージシャンです。食料生産と宗教と芸能という人間が生きてゆくためになくてはならないものを一身で行っている。人間が生きてゆくためにほんとうに必要なものは何かを真剣に考えていると、彼みたいな生き方になるのかなと思います。

 日本はそういうコミュニティーのつくり方が、今まで弱かったですね。アメリカで暮らしているうち、出身国が同じ人々や同じ宗教を信じている人たちの相互扶助のコミュニティがたくさんあることに気づきました。ニューヨークのリトルイタリーやチャイナタウンにしても、同じコミュニティのメンバー同士で「花見酒の経済」のように、経済的に依存し合えばどうにか全員食える、という理由で始まっているんです。

私が一時期アメリカで教会に通っていた時に気づいたことは、宗教団体内の相互扶助ネットワークが大変強固なことです。同じ宗教内のつながりは強いので、出身国・民族の違いを乗り越えやすくなることは、宗教の持つ利点です。しかし、宗教の場合、同時に2つ以上の宗教を持つことができませんから、ネットワークの広がりが同じ宗教の内部に限られてしまいます。

難しいことを承知で、国籍・民族・宗教が違っても、みんなが一緒に参加できる新しいコミュニティを私は創りたかった。そういうコミュニティで核になるもの、共有しやすいものを考えると、やっぱり芸術になるんです。芸術にも色々な種類がありますが、私が選んだのは、敷居が低くて間口の広い芸術である演劇でした。

■「演劇」が持つ可能性は大きい

内田 兪先生が演劇に着目されたことが僕はとても興味深かったです。エンターテインメントの実力はその国の国力と同期すると思っているからです。ある国の国力が成長していくときには、必ずそれに先駆けてその国の演劇、映画、音楽などのポップカルチャーに勢いが出て来ます。

先ほど話に出たイギリスでも、60年代にビートルズやローリングストーンズの音楽やツイッギーのロンドンファッションや映画や演劇が「ブリティッシュ・インヴェージョン」と言われるほどの勢いで世界を席捲しました。この若者たちの活動によって「英国病」からの復活が始まる。ある国のポップカルチャーの勢いを見れば、それからあとの国力の推移は予測できます。

 演劇ははじめ、個人的な趣味だったんです。平田オリザ先生の演劇をDVDで観たのがきっかけで、演劇学校のワークショップに通ううちに、私の「本業」である予防医療教育に演劇が使えるのではないかという奇抜なアイデアが浮かびました(笑)。

例えば、暴飲暴食をしている人たちを対象にする、予防医療教育のクラスがあります。このクラスに参加する場合、独りで参加するよりも、友達と一緒に参加した方が、途中で脱落せずに、暴飲暴食を止める確率が上がります。別の言い方をすれば、同じクラスに友達がいれば成功する確率が高くなるのです。そうであれば、友達を作るため、クラスの一環としてオリジナルの演劇を創作する共同作業をすればよい、と私は考えたわけです。

友達になるためには、共有する何かが必要です。共有しているものが「暴飲暴食」だけではツライので、崇高かつ楽しい演劇を共同で創作するというアイデアを思い付いたのです。集まって演劇をやるだけならお金もかからないし、芸術なら出身や宗教も関係なく、誰でも共有できると考えました。

内田 今の日本の若い子たち、特に男の子は集団で何かするのが実は苦手なんじゃないかと思います。同じような服装をして、同じようなしゃべり方をして、やたらに共感や一体感を強調するくせに、内心では他者に共感しているふりをすることに疲れているから。多くの子どもたちは、集団内部で「キャラ」設定されていて、それをやむなく演じている。おなじみの「キャラ」を演じている限りは集団内に居場所が与えられますけれど、設定された「キャラ」から逸脱することは許されない。ある意味で日常的に演技することを強いられている。そんな子どもたちが、改めて演劇という集団的営為にかかわれるかどうか、僕はそこがちょっと心配です。

 確かにそこから変えていかないと、同調圧力がますます高まりますね。私が主宰している演劇は、ゲーム感覚で「別のキャラ」を安心して演じられる場所を提供できます。私が参考にしているアウグスト・ボアールの演劇では、普段の生活で起きる出来事をテーマにしているので、日常の小さなことを変えるリハーサルにもなるんです。

たとえば「コンピューターが苦手であることを部下に知られたくない上司と、上司にコンピューターの使い方を教えたい部下」という状況設定だけしておいて、あとは2人で自由に即興劇を演じてもらいます。事前に決められたセリフを言うのではなく即興なので、予想を超えるセリフがアドリブで続出して、いつも爆笑の連続。私自身、演劇の時間は笑っていることが多いので、いちばん機嫌がいいんです。

内田 そういえば経済学者の浜矩子さんが、同志社の大学院の授業で同じようなことをやっているという話を伺ったことがあります。学期末に試験をする代わりにコントをやらせるらしい(笑)。講義した内容をテーマにしたネタを作らせて、短い芝居をさせるんだそうです。大変教育効果が高いと、ご一緒したシンポジウムで熱弁をふるっていらっしゃいました。

 それは面白いですね。演劇は教育効果も高いと思います。演じることを通じて、どう言えば相手のプライドを傷つけずに、自分の意見を受け入れてもらえるかを考えることもできます。残念ながら日本では、「演劇」という言葉に対して拒否感を持たれる方が多いのですが、そもそも日本の演劇は非常に狭く定義されています。欧米の大学はたいてい演劇学部を有していて、日本では知られていない多様な演劇を学べます。演劇は、ストーリーも演技も音楽もある総合芸術なので、参加するうちに自分の思わぬ才能に気づくこともあるんです。

内田 今、日本では演劇や映画の発信力がずいぶん衰えました。韓国に比べると、その差は明らかです。兪先生の演劇に期待したいです。

 ありがとうございます。日本の演劇や映画の復活に、私が貢献できることは、演劇の「すそ野」を広げることだと思います。そのために、プランBの予防医療教育下で、演劇のクラスの進行役(ファシリテーター)を務められるマニュアルを作成・出版する予定です。このマニュアル本をブックレットとしてシリーズ化するという野心的なプランを実現するため、勢いで出版社まで創設してしまいした。

演劇で別のキャラクターを演じてみると、実際の生活も変わってくると思います。演劇で他者を演じると、その他者の痛みを自分のこととして経験できますし、反対に、自分の痛みを他者が演じれば、その痛みを客観視することもできます。

演劇が持つこうした力を利用すれば、予防医療教育に活用できると考えています。薬に頼らず、演劇を通して得られる気づきや仲間とのコミュニケーションによって、孤独感を和らげたり、病気の要因となる生活習慣を改善していく。本の中では具体的なデータも示しながら、そのことを論証しました。

今の日本の状況では世界中から人材を呼び込むことができませんので、アメリカのようにITやAIを駆使した成長戦略はほぼ不可能です。アメリカの隙を狙って、競合しない分野にリソースを注ぎ込むのが、「勝ちを増やすか、少なくとも負けを減らす」賢い方法だと思います。それこそが今の日本に残された、数少ない成長戦略です。拙著『日本再生のための「プランB」 医療経済学による所得倍増計画』では、そのためのプランを、「地方移住による所得倍増計画」を含め具体的に示しました。

「演劇」が出てくるのは、突飛な発想と思われるかもしれませんが、その根拠となるエビデンスと理路は本で詳しく説明しました。演劇を通じて、分かり合えないと思っていた他者とも、対話の糸口が見つかることがあります。今、身近に起きている分断の解消にも役立つでしょう。長期的には、外国人との協働・共存にも役立つように、演劇が持つ可能性はまだまだたくさんあると思っています。

内田樹(うちだ・たつる) 凱風館館長、神戸女学院大学名誉教授。東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒業、東京都立大学大学院博士課程中退。専門はフランス現代思想、哲学、武道論、教育論など。主著に『ためらいの倫理学』『レヴィナスと愛の現象学』『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』ほか。第6回小林秀雄賞、2010年度新書大賞、第3回伊丹十三賞を受賞。近著に『日本習合論』『コモンの再生』『学問の自由が危ない─日本 学術会議問題の深層』(佐藤学・上野千鶴子との共編)など。

兪炳匡(ゆう・へいきょう) 医療経済学者・医師。神奈川県立保健福祉大学イノベーション政策研究センター教授。ハーバード大学にて修士号、ジョンズ・ホプキンス大学にて博士号取得。米国疾病管理予防センター(CDC)エコノミスト、カリフォルニア大学デービス校医学部准教授などを経て現職。アメリカにて25年間、医療経済学の研究・教育に従事。ブログ:www.bkyoo.org/

日本再生のための「プランB」医療経済学による所得倍増計画

著者:兪炳匡 集英社新書 1,012円(税込) 新書判/304ページ

日本は、経済指標、男女平等、報道の自由、大学ランキングなどあらゆるジャンルですでに「先進国から脱落した」と呼べる状況になっている。本書では、ITやAI等を駆使したイノベーション誘導型の政策を「プランA」と呼ぶが、その実現の可能性はほとんどゼロであることを、データを基に詳述。これに対し、著者が提唱する「プランB」は、医療・教育・芸術を融合させた新たな分野で雇用を創出し、所得を倍増させる画期的なアイデアだ。コロナ後の世界を見据え、地方移住を促し、1%の富裕層を潤わせるのではなく、残り99%の人々の生活を豊かにする具体的な方法を提示。さらには、日本が生き残る道として北東アジア経済共同体を構想する。