森保監督が「最大の恩人」と公言する、かつてJリーグの広島で総監督を務めた今西氏(77歳)。全国的には無名だった高校時代の森保氏を、広島の前身マツダに誘った

4年後のカタールW杯を目指すサッカー日本代表の新監督はどんな人物なのか?「ポイチ」という愛称で呼ばれる森保 一(もりやす・はじめ)監督を語る上で欠かせない恩師・今西和男氏を直撃した。

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日本代表の新指揮官が森保 一氏(49歳)に決定し、トルシエ以来となる五輪代表との兼任監督が誕生した。

2012年から17年まで6シーズンにわたって広島を指揮し、その間、3度のJリーグ制覇に導くなど手腕は折り紙付き。ただ、その素顔は就任会見の際にもうかがえた生まじめさ以外、いまいち世間に伝わっていない。そこで、森保監督の現役時代の恩師を直撃し、知られざる内面を掘り下げてみた。

森保氏が高校卒業後に入団した日本サッカーリーグのマツダ(広島の前身)で当時監督を務め、1992年から広島の総監督としてクラブを統括し、日本における"GMの元祖"とも評される今西和男氏が、若き日の「ポイチ」を振り返る。

「マツダ入団前、私は高校時代の森保のプレーを見に行っています。攻撃的MFでしたが、正直、突出した特徴は何もなかった。でもひとつだけ驚いた点があります。

その頃の高校サッカーは、公式戦のグラウンドでも土のピッチが当たり前で、ボールがポンポン跳ねる。それをコントロールするため、試合中ほとんど下を見てプレーしている選手が多かったのですが、森保はボールを止めるやすぐに顔を上げ、周囲を見渡していたんです。

すると一緒に視察していた当時のマツダのコーチ、ハンス・オフトが『スピードもテクニックもないが、日本人選手には珍しく視野が広いし、運動量も多い。OK、テストしてみよう』と」

結果、森保氏は入団テストに合格したものの、1987年の6人の新加入選手の中では最低の評価だった。しかし入団3年目、マツダで実質的な指揮を執っていたオフト氏の後任として、元マンチェスター・ユナイテッドの名選手、ビル・フォルケス氏がヘッドコーチとなると、守備的MFとしてトップチームで公式戦デビューを果たす。

「オフトもそうなのですが、欧州の指導者はフィールドプレーヤー全員にうまさや速さや強さを求めたりしません。各ポジションごとに必要な適性があり、そこに最も合う選手を当てはめるという考え方は、当時の日本では画期的でした。フォルケスは森保のことを『守備ラインの真ん中から攻撃をスタートさせる際の起点になれる選手だ』と評価していましたね」(今西氏)

また人間的にも、森保氏にはほかの若手にない、地味ながら傑出した個性があった。

「サッカー選手として自分を高めてくれるものはなんでも吸収したい、という気持ちが非常に強かった。ミーティングでも、食い入るような目でしっかり話を聞いていましたね」(今西氏)

こんなエピソードがある。

「彼が入団して3年目に、ドイツでプレーしていた風間八宏(やひろ/現・名古屋監督)が加入しました。それまで風間はマツダよりレベルが高いところでやっていたので、周囲の選手がふがいないプレーをすると遠慮なく叱るわけです。当然、森保も『ポイチ、何やってるんだ!』とやられるんですが、ほかの選手なら萎縮したりへそを曲げたりするところなのに、彼だけは練習後や試合後、臆せず風間に『どこが悪かったんですか?』とアドバイスをもらいに行くんです。こいつはこの先、果てしなく成長する選手だなと思いました」(今西氏)

誰にでも近づいていけるということは、他者を広く受け入れている証(あかし)でもある。

「決して人を嫌わず、相手の意見を尊重する。だから自然に、周りからも慕われる。強烈に自己主張する性格でもないのに、いつの間にかチームのリーダーになっていましたね。選手の意見をまとめてチームの上層部にぶつけに来たこともあるし、逆に彼を通して、選手たちに上層部の方針を伝えたりもしました」(今西氏)

もちろんプレー面でも、押しも押されもせぬリーダーに。

「若手の頃から決して手を抜かず、ひたむきに90分間目いっぱいプレーする選手でしたが、やがてピッチ上の司令官となって、チームメイトにいろいろと指示を飛ばすようになりました。もともとそんなタイプではなかったんですけどね。

私はマツダ時代からずっと選手たちに、自分の考えを人にきちんと伝えられるよう指導してきたのですが、その点で彼は誰よりも努力しましたよ」(今西氏)

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