八村が高校3年の正月、中学時代まで過ごした富山へ帰った際の坂本コーチとの2ショット

米NBAのウィザーズからドラフト1巡目(全体9位)指名を受けた八村 塁(はちむら・るい)。日本人初の快挙に地元・富山は大フィーバーだ。

あちこちで報じられているとおり、小学校時代の八村は野球と陸上の選手で、中学でも野球部に入る選択肢もあった。富山市立奥田中学校バスケットボール部のコーチとして八村を指導した坂本穣治さんは当時をこう振り返る。

「大きくてスポーツ万能なスゴい子がいるという噂は聞いていました。体育館に彼が初めて来たときはホメまくりましたよ(笑)。『でかいなー』『走るの速いなー』『構えも決まってるなー』なんて。周囲は経験者ばかりで、最初の頃はひとりだけドリブルがうまくできず泣きそうになったりしていたんです。そのとき、片手で彼が軽くボールを持ち上げたので、『すごいな、NBAの選手並みだな!』とホメたのも覚えています」

バスケ部に八村を勧誘した同級生の高橋龍弥さんも言う。

「僕ともうひとりで塁の机を挟んで、『当然、バスケだよな』『バスケ以外考えられないよね?』なんて半分ムリヤリ誘ってました。野球部のヤツらが近づいてきたら追い払って(笑)。塁は体もでかいし、彼がうまくなれば全国優勝もできるかもしれないと思って、みんな一生懸命教えてました」

ただし、八村の成功の理由は決して才能だけではないと高橋さんは強調する。

「6時半からの朝練に行くと、必ずボールをつく音がするんです。塁はいつも30分ほど早く来て練習していました。才能より、そんな努力の姿が印象に残っていますね」

メキメキと力をつけた八村。しかし、それが原因でチームが分裂しかけたことも。

「U-14男子トップエンデバーの合宿から帰ってきた塁は、もうオーラが出まくりで、まるで別人みたいなスゴい選手になっていました。ただ、僕らに対して『もっといいパス出せ』とか、キツく当たるようにもなって......」

危機をどう乗り越えたのか、話の続きは坂本さんから。

「八村以外の生徒は『一緒にやりたくない』みたいな雰囲気になってきました。まあ当然です。でも、みんなに『県大会は塁抜きでも勝てる。でも全国では勝てないぞ。それでもいらないか?』と聞くと、やっばり塁が必要だ、一緒にやりたいという。

八村にはNBAの話をしました。ブルズ時代のマイケル・ジョーダンは、デニス・ロッドマンというトラブルメーカーをうまくチームに融合させた。おまえもみんなに『だめだ』とばかり言ってたら、チームは強くならないぞ。そもそも最初にバスケを教えてくれたのはあいつらだろう、と。八村も徐々に変わって、周りにシュートさせるといったプレーが増えていきました。

当時から、彼にはNBAという夢があったんだと思います。だから『NBAはこうだ』という話をすると、けっこう効果がありました(笑)」

そして3年時に全国大会準優勝を果たし、八村は宮城県の明成高校に進学。以後の活躍は多くの人が知るとおりだ。NBAデビューが今から待ちきれない!