引退を決意した甲子園春夏連覇のエース左腕・島袋洋奨氏が振り返る「人生の選択」

学生時代の評価や栄光が、その後の成功を保証してくれるわけではない。それゆえに、アスリートはある時期に重大な「人生の選択」を迫られる。昨年、静かに現役生活に幕を下ろした"甲子園春夏連覇左腕"は今、何を思うのか?(このインタビューは2019年に行なわれたものです)

■大学2年の春に肘がぶっ飛んだ

アスリートがプロになる過程はさまざまである。野球界では高卒、大卒、社会人、そして独立リーグ経由の4パターンが九分九厘を占めるものの、いずれの場合もほぼすべての選手が「高校野球」を経験している。どのタイミングでプロに入るかで人生が大きく変わることも多々あるが、本人の特性や巡り合わせもあり、果たして何が正解なのかは誰にもわからない。

元ソフトバンクの投手、島袋洋奨(ようすけ)は昨季限りで5年間のプロ生活にピリオドを打った。沖縄・興南(こうなん)高校3年時の2010年には"琉球トルネード"と呼ばれた独特のフォームで全国の強豪校をなぎ倒し、当時史上6校目、沖縄県勢では初の甲子園春夏連覇を達成。

時の民主党政権・鳩山由紀夫総理の無責任な米軍基地移設発言でたまった鬱憤(うっぷん)を吐き出すかのように、沖縄中が島袋の快投に沸騰した。

1998年の松坂大輔(横浜高校)以来の春夏連覇エースの去就は大いに注目された。プロ入りを表明すればドラフト上位指名は確実ともいわれたが、島袋はプロ志望届を出さず、東都大学リーグの名門・中央大学へ進学した。

「春のセンバツが終わった段階ではプロ志望でしたが、(興南の)我喜屋優(がきや・まさる)監督をはじめいろいろな人と相談して進学を決めました。甲子園春夏連覇の投手としてのプレッシャーはさほど感じませんでしたが、大学で思うように活躍できず、申し訳ない気持ちが強かったです」

滑り出しは順調だった。中央大では48年ぶりの新人開幕投手に選ばれ、1年春は1勝3敗、防御率0.99で新人賞。2年春には開幕戦の対東洋大学1回戦で延長15回、226球を投げ切り21奪三振で完投勝利を挙げ、中1日で先発した3回戦も7回1失点で2勝目。

続く2カード目の対日本大学1回戦でも先発し、無傷の3連勝。東京六大学と違って入れ替え戦がある過酷な東都1部リーグでも、甲子園の怪物は健在だった。

「2年の春はすごく調子が良かったです。でも、3連勝してから肘がぶっ飛びました。肘の側副靱帯(じんたい)の血腫で、投げられるようになるまで半年かかりました。

よく東洋戦の226球と、中1日の先発という酷使が故障の原因といわれますが、そこまでは大丈夫だったんです。次の日大戦で休める勇気があれば変わったのかなと。秋田秀幸監督(当時)からは『本当に行けるか?』と心配されていて、僕が『行けません』と言えば回避できた。あくまでも自分の意思で投げました」

大学2年時に就任した秋田監督に壊された―野球ファンの間でささやかれる定説を、島袋はきっぱり否定した。

「復帰した2年秋は短いイニング限定で、3年春には普通に投げていました。でも、3年秋から急にストライクが入らなくなったんです。(キャッチャーの頭上を越えて)バックネットにバンバン投げ込んでしまう状態で......。腕が縮こまってキャッチボールもまともにできなくなりました」

元はコントロールのいい投手だったが、大学3年秋には捕手の頭上をはるかに越えてバックネットへ突き刺さる大暴投を繰り返してしまうような状態に

■イップスから抜け出せず不安しかなかった

甲子園、神宮と精密なコントロールを見せていた島袋が、突然ストライクが入らなくなる――いわゆるイップス(投球障害)だ。高校時代にはケガらしいケガもなく、投げ込むことで調整してきた島袋は、長期離脱で投球フォームに狂いが生じ、徐々に心と体のバランスが崩れていった。

「フォームのチェックポイントさえ理解していれば、悪くなってもそこへ立ち返ればいいだけなんです。でも、僕は3年秋までただ投げたいように投げていたので、自分のフォームに対してアプローチが少なく、どうしたらいいかわからなくなってしまいました」

小・中・高・大と同じチームに所属し、島袋の苦しむ姿を見てきた慶田城開(けだ・しろかい)は、「最初はそこまで(イップスが)精神的に深いものだとは思わなかったんですが......。一時はどうしてあげることもできない状態でした」と振り返る。

甲子園で"無双"した左腕の姿は、そこにはなかった。

「期待に応えなきゃと考える余裕もなかったし、とにかくフォームがわからなくなって焦りました。4年春にも先発をさせてもらったんですけど、自分の中では不安しかない。あの頃はマウンドに上がりたくないなという思いがいつもありました」

4年春、対亜細亜大学2回戦に先発した島袋は、2回に5連続四死球で降板。対駒澤大学1回戦では初回でふたつの押し出しを含む3点を失い、マウンドを降りた。このシーズンは6試合0勝2敗、防御率6.75。与四球率は10.43という数字だった。

しかし、島袋はプロ志望届を提出する。

「4年秋も完全には調子が戻らず、お誘いいただいた社会人チームに行こうかとも思いましたが、いろいろ悩んだ末にプロ志望届を出しました。ドラフト当日は大学のホールに報道陣を含めたくさん人が集まっていて、先に福田将儀(まさよし/2017年に引退)が楽天の3位指名を受け、自分ひとりがその場に残されて......。

指名されなかったらどうしようと思っていた矢先にソフトバンクが5位で指名してくれたので、本当にうれしかったです」

この順位での指名が、即戦力というより高校時代に見せたポテンシャルを加味してのものであることは島袋自身も理解していた。それでも念願のプロの舞台は、すべてを取り戻すための新たなステージになるはずだった。

「今年(2019年)は野球を楽しんでやろうと思った」という島袋。結果を残すことはできなかったが、戦力外通告は「すんなり受け入れられた」という

■スピードは150キロまで出るようになっていた

ソフトバンクに入団した島袋は、まずは制球力の矯正に専念せざるをえなかった。

「相変わらずストライクが入らなかったので、最初から3軍でした。大学時代に紹介してもらった神戸のトレーナーの方にも体の使い方などを教えてもらいながら、少しずつストライクが入るようになり、2軍に上がって。シーズン終盤に初めて1軍に呼ばれることになりました」

1軍デビューは2015年9月25日の対ロッテ戦、8回表の救援登板。試合の動画を見る島袋は当初、「ほとんど覚えていない」と物憂(ものう)げな表情だったが、次第にスイッチが入ったのか、現役さながらの鋭い顔つきに変わっていく。

「当時は変化球はツーシーム系だけで、スライダーは投げていないんです。スライダーを投げていればもっと楽だったと思うんですが、大学の途中から投げられなくなって。

一昨年からスライダーを投げられるようになって、徐々に戻りつつあったというか、また新しいものを積み上げている感じはあったんです。スピードも、この初登板より今年のほうが出てましたよ。去年が150キロで、今年は149キロまで行きました」

2年目は1軍登板なしに終わったものの、シーズン終了後に台湾で行なわれたウインターリーグに参加。8試合3勝1セーブ、防御率2.20と結果を残し、3年目の春季キャンプでは主力中心のA組に合流した。

当時のソフトバンクは、森福允彦(もりふく・まさひこ)が巨人にFA移籍して左のリリーフの枠が空いており、首脳陣の期待を受けての抜擢(ばってき)となったが、競争に勝ち残ることはできず、この年も1軍で投げることはかなわなかった。

「投内連係とかサインプレーがめちゃくちゃ苦手で......。投内連係はストライクを投げてからのスタートなので、『入るかなあ』とかいろいろ考えてしまう。高校時代や大学の始めの頃は投内連係が好きで、打球を処理した後のセカンド送球なんか『どれだけ低い球を放れるか』という感覚でやっていたのに、いつからか苦手になって、それでよけいに緊張もどんどん増していくっていう感じでした。

自分の思考がそこにしかいってないのを感じ取ったのか、ベテランの川島慶三さんや本多雄一さん(現1軍内野守備走塁コーチ)からは『楽しくないのか!』『引きつってるぞ、おまえ』と声をかけられました。やはり1軍にいる選手は野球に対して真剣に楽しんでいると感じました」

3年目の8月には、痛みに悩まされていた左肘の遊離軟骨(ネズミ)除去手術を受けた。ところが、この年のオフに島袋を待っていたのは、支配下登録の解除通告だった。

「成績を残していないとはいえ、この年に一度クビになったのは衝撃的でした。ただ、球団は手術して投げられない自分に対し、リハビリのことも考えて育成契約で残してくれた。それはありがたかったですね」

背番号は「39」から「143」になり、大卒4年目の育成選手という立場はもう後がない。しかし、2軍戦に出場できる育成選手は5人までと決まっている。2軍での登板は6試合にとどまり、あとは3軍暮らしが続いた。

「3軍にいちゃいけないとずっと思いながら、なかなか2軍に上がれなくて......。それでも、1年だけだろうなと思っていたんですが、球団はもう1年契約してくれた。それで今年は気持ちよく、楽しく野球をやりたいと気持ちを切り替えてやってきました」

昨年の2軍登板は3試合。これでダメなら最後だという思いで取り組んだシーズンでも、結果を残すことはできなかった。そして、9月末――。

「球団から『明日、事務所に来て』と連絡がありました。この時期に連絡が来るのは、間違いなくそういうこと。そうなった時点で野球は辞めようと決めていたので、すんなり受け入れられました」

プロ5年間で1軍登板はルーキーイヤーの2試合のみ。高校野球史に輝く記録を残しながら、一勝もできないまま静かにプロ野球人生に幕を下ろした島袋は、本当の意味で完全燃焼できたのだろうか。

「最後まで投げることに関しての不安、気持ち悪さは消えなかったですね。いろいろな考え方のなかで、不安とうまく付き合う方法もあったと思うんですけど、自分が抱える不安は周りには完全に理解できないもの。

コーチからは『投げることが不安なのはおまえだけじゃないぞ』としょっちゅう言われ、頭ではわかっているんですけど......。なぜ野球がこんなにヘタになっているんだろうと自問自答し、『昔は投げられていたものが、なんで投げられないのか』という葛藤の中でずっと野球をやってきました」

ちなみに、島袋が高校3年時にプロ志望届を出さなかった2010年のドラフトでは、その4年前に甲子園を沸かせ、同じように大学進学を経てプロ入りした斎藤佑樹(早稲田実業高校-早稲田大学-日本ハム)が1位指名を受けている。似たような境遇にある"先輩"のことを、島袋はどう見ているのか。

「周りはあの甲子園の激闘をずっと忘れないでしょうし、1軍、2軍を問わずニュースになる人なので......。お会いしたことはないんですが、すごいなと思うところもありますし、生きづらそうだなと感じることもあります」

島袋に対しても、「なぜ高校からプロに行かなかったんだ」「高卒プロ入りならドラ1もあった」というファンの声は多い。興南の同期で4番を張っていた眞榮平大輝(まえひら・だいき/明治大学-JR東日本)が「プロには行けるときに絶対に行くべきだと思う」と言っていたと伝えると、島袋は間髪入れずこう言った。

「僕もそう思います。僕自身、高校から大学へ行って、4年後にはドラフトにかかるかどうかわからないという経験をしていますし、環境面でも成長する上でも、プロのほうが絶対にいい」

それは、自身が高校からプロに行かなかったことを後悔しているという意味なのか。

「大学に行ったことが遠回りだとは思わないし、大学に行ったからこそ知り合えた人たちもたくさんいますし。大学からプロに行って活躍できなかったのは僕の人生なので、後悔はまったくありません。

......ただひとつ、高校の時点でプロからどんな評価があったのかと、ちらっと考えることはあります」

そう言った島袋は、すべてを吐き出したかのような穏やかな笑みを浮かべていた。

●島袋洋奨(しまぶくろ・ようすけ)
1992年生まれ、沖縄県宜野湾市出身。身長174㎝、体重76㎏、左投げ左打ち。興南高校3年時(2010年)にエースとして史上6校目、沖縄勢では初の甲子園春夏連覇を達成。プロ志望届を出さず、進学した中央大学では通算47試合12勝20敗、防御率2.16。14年ドラフト5位でソフトバンクに入団し、1年目に1軍デビューを果たすも、その後はケガもあり2軍、3軍生活が続き、17年オフに支配下登録を解除され育成契約に。昨年10月、戦力外通告を受け現役引退を表明