僕が日本になじむことができたのは、チームメイトのおかげと語るセルジオ越後氏

1993年のJリーグ開幕を振り返った前回に続き、今回は僕がブラジルから来日した当時の日本サッカーの話をしよう。

僕が来日したのは1972年、日本リーグの藤和不動産(J1湘南の前身)からオファーを受けたからだ。アマチュアだけど、日本語が勉強できて、仕事も覚えられる。それなら自分の将来に役立つと思って決断をしたんだ。

藤和不動産は栃木県を拠点とし、那須高原のリゾート地に練習場2面と合宿所を持っていた。もちろん、芝ではなく土のグラウンドだけどね。夜になると蛍が飛んでいて、星がきれいだったことをよく覚えている。

練習に参加すると驚くことばかりだった。例えばシュート練習ではGKを置かない。GKがいないのにインステップで思いっきり打って、枠を外してばかり。サイドからのクロスに合わせるとか、その程度の工夫すらなかった。そしてゴール裏のフェンスが低いから、シュートを外すとボールはやぶの中へ。練習の途中なのに皆でボールを探しに行くんだ。なんて効率の悪い練習なんだろうと思ったよ。

GKの練習を見れば、左、右、正面と3ヵ所からやみくもにシュートを打っている。あれではどんなに素晴らしいGKだって対応できない。あれは練習ではなくいじめだ。

合宿も多かった。部の年間予算を使い切るためなんだろうね。でも、食事はおかずが少なくて冷たい。温かいのはご飯と味噌汁だけ。そこにマネジャーが瓶詰めの佃煮(つくだに)を持ってきて「ご飯はお代わり自由だからな」って。

キツかったのは札幌合宿。テーマはコンディションづくり。でも、新幹線も高速道路もない時代で、栃木から電車を乗り継ぎ、青森から青函連絡船に乗って、函館から再び電車で札幌まで。それもネクタイを締めて、重い荷物を持っての移動だからクタクタだよ。

だから合宿終盤、僕はマネジャーに「せっかくつくったコンディションを崩したくないから、電車代との差額を自分で払って飛行機で帰る」と言ったんだ。そうしたら、ほかの大半の選手も賛同して、結局、僕らはすすきので飲んで、電車組の翌日の飛行機で先に栃木に着いた。さすがにチームも考えを改めたのか、その後、遠方への移動はすべて飛行機に代わった。

チーム環境に限らず、日本は立派な先進国なのにサッカーは遅れているんだなと実感することの連続だった。

あるとき、スパイクを買いに宇都宮のスポーツ店まで行くと、ほとんどが野球用具で、隅っこにバドミントンのセットが置いてあるくらい。サッカー用具なんてひとつもない。だから僕はスパイクを買うのに東京の神田まで行かなければいけなかった。

テレビをつけてもサッカーなんてやっていなくて、唯一の楽しみは『三菱ダイヤモンドサッカー』(当時のサッカー番組)。イングランドや西ドイツのリーグ戦を放送していたけど、1時間番組で試合の前半か後半しか放送しない。つまり2週間かけて1試合を見る構成。ブラジルだったらすぐに打ち切りだよ。

でも、僕はチームメイトに恵まれていた。都会のチームじゃないから、遊びに行くのも一緒。飲みに行くのも一緒。選手同士のチームワークは最高だった。僕が日本語を覚えられたのもチームメイトのおかげ。僕が日本になじむことができたのも彼らのおかげだと思っている。

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