99年、プロレス写真記者クラブのイベントで三沢(左)と武藤(右)が初めて対談した際のもの

再び"プロレス界の盟主"へ。創設者・三沢光晴(みさわ・みつはる)が2009年に急逝した後、何度も存続の危機を乗り越えてきたノアが今、新たな黄金期を迎えようとしている。

団体を牽引し続ける丸藤正道(まるふじ・なおみち)、そして今年、ノアに電撃入団した武藤敬司(むとう・けいじ)が団体の現在、未来を語る!

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■三沢とは「永遠の恋人」みたいな感覚だった

5月31日、プロレスリング・ノアの後楽園ホール。メインイベントのタッグマッチに出場した武藤敬司と丸藤正道は特別な思いでリングに上がっていた。2009年6月13日に、ノアの創設者である三沢光晴が試合中の事故で亡くなってから12年。節目の十三回忌を迎えた。この日は、三沢の「メモリアル」として行なわれた大会だった。

三沢が2000年に全日本プロレスから独立して設立したノアは、昨年1月29日、経営譲渡によりサイバーエージェントの傘下に入った。9月1日からは同社のプロレス事業子会社であるサイバーファイトのブランドのひとつとなり、インターネットテレビ「ABEMA」で月2回のペースで試合を配信している。

今年2月12日には日本武道館で武藤敬司が潮崎豪を破りGHCヘビー級王座を奪取。58歳にして新日本プロレスのIWGPヘビー級、全日本の三冠ヘビー級を含めた「国内主要3団体シングルヘビー級王座戴冠」を成し遂げたことは大きな話題となった。

その"グランドスラム"達成の3日後、電撃的にノア入団を発表。武藤はその理由をこう語る。

「俺はこれまで全日本やW-1(レッスルワン)で経営側に立ったこともあるけど、そのとき欲しかったツールが今のノアにはそろっている。(団体経営者時代に)民放キー局を含めたいろんなテレビ局にアプローチして頑張ったんだけど、全然届かなかった。

でも今のノアには、ABEMAのようなスマホひとつあればどこでも見られるツールがあったり、海外に映像を流す術(すべ)も持っている。しかも昨年春にはコロナが感染拡大するなか、業界でいち早く無観客試合をやって、試合映像をファンに届けることもできたから、すごい可能性を感じたよね」

武藤と三沢といえば、1990年代はそれぞれ新日本と全日本の若きエースとして常に比較されていた。その歴史を知るファンほど、武藤が三沢のつくったノアの"顔"となっていることに不思議な縁を感じるだろう。それは当の武藤も同じだった。

「俺たちがいた頃の新日本と全日本って、横のつながりがなかった。東西冷戦時代のアメリカとソ連みたいな隔たりがあったからさ。ライバルだなんて比較はされていたけど、交わることは状況的に考えられなかったよ。

ただ、あんまりにも比較されるから、どこか"親が決めた許嫁(いいなずけ)"みたいな感覚は持ってた。会ったこともないけど恋焦がれた永遠の恋人みたいなさ。俺が今回、ノアに入団するとなったとき、やっぱりそういう縁があったんだな、と思ったね」

三沢がノアを設立した2年後、武藤は02年に新日本を退団し、三沢の古巣・全日本の社長に就任。その後、新団体W-1を率いていたが、昨年4月をもって解散。武藤はフリーとしてノアのリングに上がり始め、それが今年2月に入団するきっかけとなった。

「昨年からコロナで多くのビジネスがやられてるけど、俺もW-1という団体をクローズした後、三沢社長がつくったノアというリングがあったからこそ、こうやってプロレスを続けられているわけだからさ、感謝の気持ちでいっぱいだよ。だから今は、その三沢社長がつくったノアをもう一度人気団体にして盛り上げることが、俺の恩返しであり、使命だよな」

ノアは2000年代半ば、総合格闘技人気に押されていたプロレス界において、04年、05年と連続で東京ドーム大会を成功させ、"業界の盟主"と呼ばれていた。

しかし、その隆盛は長く続かなかった。06年6月に当時のエースで人気絶頂だった小橋建太が腎臓がんで長期欠場。ほかにも主力選手の負傷欠場が続き、世代交代もうまく進まず、観客動員が徐々に低迷。46歳と全盛期を過ぎ満身創痍(まんしんそうい)だった三沢が無理を押してメインのリングに上がり続けるなかで、09年6月にあのリング禍が起こってしまった。

三沢の死後、ノアは苦難の連続だった。観客動員低下に歯止めはかからず、主力選手の離脱、小橋の引退などが続いた。経営状況の悪化から会社の体制は何度も変わり、一時は新日本プロレスとの協力体制に活路を見いだすも、リング上は新日本から来た鈴木みのる率いる鈴木軍に制圧され、"第2新日本プロレス"と揶揄(やゆ)されたほどだった。

■「たら・れば」はないと三沢は常に言っていた

そんなノアを今日まで支え続けてきたのが、新人時代に三沢の付き人を務めた旗揚げメンバーの丸藤正道だ。

「三沢さんが亡くなった後は、ずっと大変でした。お客さんの数も選手の数も減って、地方に行ったら数列しか椅子が並んでなくて、それでもお客さんがまばらでしたから。ノアを残すためにいろんなことをやりましたけど、そのたびに『こんなのノアじゃない』『三沢さんだったらこんなことしない』というような言葉をたくさん浴びせられて、それはなかなかこたえましたけど。とにかく残すために、必死にやってきました」

丸藤には、三沢が存命中に世代交代を果たせなかったことへの悔恨の念があった。

「僕が(06年に)GHCヘビー級王者になったとき、3ヵ月で三沢さんに負けて、三沢さんがまたチャンピオンとしてやっていかなきゃいけなくなった。『もし、あそこで俺が三沢さんにしっかり勝って、団体を引っ張っていけていたら違う形になっていたんじゃないか』と思うこともありました。でも、三沢さんは常日頃から『"たら・れば"というものはない』と言っていたので、後ろは振り返らずにやってきたんです」

06年にGHCヘビー級王座を初戴冠。師である三沢光晴ともタイトルをかけて闘った

丸藤は若手の頃から"天才"と称された選手。経営が苦しいノアを飛び出しフリーとして独立していれば、他団体や海外で大成功することもできただろう。それでもノアに残り続けたのはなぜなのか。

「それはやはり、三沢さんとノアのファンの人たちの存在ですね。それがなければ、僕はもしかしたらほかで自由にやっていたかもしれない。三沢さんが亡くなった後、何か目に見えないバトンを受け取った気がしたんですよ。ほかに難しい理由はなくて、単純な理由だからこそ、やり続けられたのかなって。『ノアの丸藤』以外を名乗ってる自分が想像つかないですしね」

武藤もそんな丸藤の存在の大きさを認めている。

「三沢社長が亡くなり、小橋が引退し、いろんな選手が離脱した後も、"ノアらしさ"がなくならなかったのは、丸藤が残ったからだよ。すげえ苦しい時期なんか、そこに丸藤がいなかったら、ノアをずっと応援してきた人も離れただろうし、そこでたぶん途切れていたよ。だから俺は"丸藤のノア"と言っても過言じゃないと思うよ」

■50代のレジェンドが見せる「生きざまと覚悟」

ノア期待の若手、清宮海斗(右)と稲村愛輝。ノアが再び「プロレス界の盟主」に返り咲くには彼らのブレイクが必須だ

現在、ノアは所属選手だけでなく、バラエティに富んだフリーの選手も多数参加し選手層が充実。特に藤田和之、桜庭和志、船木誠勝、ケンドー・カシンといった、総合格闘技でも活躍した50代のレジェンドが"第二の全盛期"を思わせるほど、いきいきと活躍している。そして、「レジェンドたちに対して若手が一切の遠慮なしにぶつかっているのはノアのリングだけ」と丸藤は胸を張る。

しかし、大ベテランに頼ってばかりでは未来は描けない。エース候補の清宮海斗ら若手のブレイクが不可欠であり、それは現在のノアにとって一番の課題でもある。だからこそ丸藤はこう奮起を促す。

「ベテラン選手たちがなぜいまだに支持を得ているかといえば、やはり生きざまの部分。ヒザに人工関節を入れながら、あれだけすごい試合をする武藤さんの姿は、三沢さんと同じようにプロレスに対する覚悟を感じさせるからですよ。だから、若いやつらが『あの世代を超えていく』とか『若い世代で新しいものをつくる』と口で言うだけじゃ、重みを感じない。本当に覚悟と生きざまを見せないと」

一方、武藤は若手の技術面に注文をつける。

「俺が若手時代、第1試合の新人は基本的な技だけで試合をして、メインに向かって徐々に派手な試合になり、最後は猪木さんが一番派手に盛り上げて締めていた。でも、今は若手が派手な技ばかりに頼って、メインで俺が寝技でじっくりやってるから、昔と反対になってるんだよ。

やっぱりプロレスは"格闘芸術"だから、基本的な格闘技術は必要不可欠。腕の取り方も知らねえやつが、闘いをどう表現するんだって。お客さんを感情移入させられねえよ。そういう意味で桜庭の存在は大きい。彼が来たことで、清宮とか若い連中が桜庭の道場で技術を学ぶ動きが出てきた。これからいいプロレスをやっていけるようになると思うよ」

若手がベテランから技術を学び、ノアはプロレスの基本に立ち返ろうとしている。サイバーエージェントがバックにつきハード面が充実してきた今だからこそ、土台をしっかりと固める。時間はかかるが、そうして未来をつくろうとしているのだ。

6月6日、さいたまスーパーアリーナで「サイバーファイトフェスティバル2021」が開催された。これはノア、DDT、東京女子プロレス、ガンバレ☆プロレスという、サイバーファイト系4団体が初めて一堂に会したビッグマッチだった。

6月6日、丸藤の挑戦を受けたGHCヘビー級王座防衛戦で、武藤は両ヒザの人工関節手術後に封印したはずのムーンサルトプレスを繰り出した

そのメインは武藤vs丸藤のGHCヘビー級タイトルマッチ。武藤は18年の両ヒザ人工関節手術後、封印していたムーンサルトプレスを解禁する奮闘を見せるも、その際、ヒザをマットに打ちつけたダメージがたたり、丸藤がオリジナルのヒザ蹴り「虎王(こおう)・零(れい)」で逆転勝ちした。

今後は丸藤が王者として先頭に立って牽引(けんいん)していく。12年間ノアを守り続けてきた男は、王者に返り咲いても浮かれた気持ちはない。

「三沢さんの時代は毎シリーズ、日本武道館を満員にしてきましたけど、今のノアはもう一度プロレスファンの支持を得るためのスタート地点にようやく立ったところ。今はまだサイバーエージェントにチャンスを与えてもらっている段階で、それを生かすも殺すも自分たち次第。レスラー、社員一丸となって業界ナンバーワンを目指したい」

プロレス団体は、選手たちが団結し上昇しているときが一番面白い。旗揚げ21年目を迎えたノアは、今が旬だ。

(写真/プロレスリング・ノア) 

●武藤敬司(むとう・けいじ) 
1962年生まれ、山梨県出身。今年2月、58歳にしてGHCヘビー級王座を奪取した直後、ノアに電撃入団。

●丸藤正道(まるふじ・なおみち) 
1979年生まれ、埼玉県出身。98年に全日本プロレスでデビューし、ノアには2000年の旗揚げから参加。