6月3日、89歳で逝去した長嶋茂雄氏
球史に名を刻む大打者と、希代の剛腕投手。数々の名勝負を繰り広げたふたりは、ライバルであり、盟友でもあった――。先日逝去した長嶋茂雄氏をしのび、江夏豊氏がミスターとの思い出を語ってくれた。
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■ミスターとのプロ初対決の記憶
野球界にとって、世の中にとって、大事な人が亡くなられた――。
6月3日の朝、"ミスタープロ野球"こと長嶋茂雄さんの訃報(ふほう)に接した瞬間、真っ先にそう思った。
阪神入団1年目から巨人戦で勝負させてもらい、グラウンド外でもお付き合いさせてもらい、長年"ミスター"と呼ばせてもらってきた。
その方が大病を患われ、復帰されてから20年近くお元気でおられたとはいえ、なにぶんご高齢であった。心のどこかに予感めいたものはあったのだが、自分にとっては大事な人だったから、お別れの日が来てしまうと、やはり寂しい。
89歳だった長嶋さんと自分とは、ちょうどひと回り違う。かつてプロ野球よりも学生野球の人気が高かった時代、立教大の長嶋さんが東京六大学のスーパースターだった頃、自分はまだ小学生だった。
関西に生まれ育ったから、六大学の人気を肌で感じたことはなかった。それでも巨人というチームの存在は知っていたし、そこに長嶋さんが入団したことで、球団に華やかな印象が加わったことは、子供ながらに感じ取っていた。中学生の頃には、王貞治さん、高校に入る頃には金田正一さん(1965年に国鉄から移籍)の名前は知るようになった。
2012年に『週刊プレイボーイ』の取材で江夏氏が巨人の宮崎キャンプを訪れた際、談笑する長嶋氏
ただ自分自身、高校で本格的に野球を始めてからも、プロ野球はまったくの別世界だった。それだけにプロ1年目から1軍の試合で投げさせてもらい、巨人戦での登板機会が巡ってきたとき、長嶋さん、王さんと対戦するのははっきり言って怖かった。何しろ長嶋さんは前年まで首位打者5回、本塁打王2回、打点王2回。王さんは5年連続本塁打王に輝き、打点王も4回獲得していた打者だ。
だが怖かったけれど、「打たれても仕方ない」というような気持ちは一切なかった。まだ高校を出たばかりのガキが、「打てるものなら打ってみろ」という気持ちで投げたのが、67年5月31日の巨人戦、長嶋さんとの初対戦であった。
先輩の村山実さんが先発するも、右手の故障で降板し、自分は4回から2番手で登板した。王さんとの初対決では三振を奪い、直後、長嶋さんと相対した。初球ストライク、2球目ファウルで追い込み、3球目はボール。カウント1ボール2ストライクからの4球目、三振を奪うつもりで胸元に投げ込んだところ、レフトへはじき返されて二塁打となった。
今にして思えば、そのとき新人の自分に対し、長嶋さんは本気でぶつかってきた。普通なら二塁ベースに滑り込んだ後、「こんな若造の球は打って当然」と言わんばかりの態度を見せるか、軽く笑みを浮かべるかのどちらかだろう。でも長嶋さんはマウンドに目もくれず、外野のほうを向いてユニフォームの土を払っていた。その姿を見て「ああ、カッコいいな」と思い、そこから自分は"長嶋ファン"になってしまった。
だからその年、初めて出場したオールスターは、まさに夢舞台だった。マウンドに上がって左を見ればファーストに王さん、右を見ればサードに長嶋さんがいるわけである。「気分いいな」と大いに感動させられたし、いい時代に野球をやらせてもらったと思う。
■華やかさの陰にあった勝負への執着心
翌68年の9月17日の巨人戦。先発した自分は、稲尾和久さん(元西鉄)の持つシーズン353奪三振の日本記録更新がかかっていた。このとき、王さんは常にフルスイングしてきたのに対し、長嶋さんはバットをひと握り短く持ってミートに徹してきた。
当時は「天下の長嶋茂雄らしくないな」などと思ったものだが、あらためて振り返れば、不名誉な記録は残したくないという一心で、何がなんでもボールに当てるという執念の表れだったのだろう。
バットを短く持つといえば、野村克也さん(元南海ほか)もそうだった。それこそ稲尾さんの、あの一級品のスライダーを打つために、野村さんは短く持って狙い打ちしたという。
もっとも、自分が稲尾さんのスライダーを見た印象は、なかなか狙い打ちできるようなボールではない、というもの。とにかく野村さんは相当に苦労したようだし、よく「感性とセンスの人」と言われた長嶋さんにも、ある意味、そうした不器用な一面があった証しではないか。
不器用さは守備にも表れていて、長嶋さんは決して「名手」と呼べる三塁手ではなかった。というのも、常に動きはテキパキしていて、見た目はとても派手に映るのだが、実際にはそれほどうまくはなかった。そこにはきっと、「見た目を明るく、華やかに」という意識が働いていたのだと思う。
そのためエラーひとつとっても派手に見えたし、実際、エラーをすると長嶋さんはあからさまに悔しがっていた。今の選手たちは、そうしたそぶりをあまり見せないが、私は、失敗して悔しがる姿こそ、プロのプレーヤーとして大切なことだと思っている。エラーや三振、凡打......もっともっと悔しがってもいいのではないか。
■打たれたことも大きな名誉だった
長嶋さんが現役を引退する74年、自分にとって忘れられない勝負がある。5月28日、甲子園で満塁本塁打を浴びたときのことだ。
自分としては最高のフォークを投げたつもりだった。もともとあまり落ちないフォークが、その一球に限っては落差があった。だが、長嶋さんのバットが出てきて、ライナー性の打球がレフトのラッキーゾーンに吸い込まれた。「まさかあのボールをホームランにされるとは......」と、疑問で頭がいっぱいになった。
現役最後のシーズンとなった1974年、甲子園での阪神戦で江夏氏から満塁本塁打を放った長嶋氏
ど真ん中の球を空振りしたかと思えば、そうやって難しい変化球を打つ。いいコースに行った球を難なく打つ。バッターとしての実体がわからないまま、長嶋さんは引退され、監督になった。
聞けば、監督としてはおおらかな人で、細かいことをあれこれ言わなかったそうだ。それでも決して、野球自体は雑には見えなかった。
明るく天真爛漫(らんまん)なイメージがあった人だが、どちらかといえばプラス思考よりマイナス思考が強かった。それだけ勝利にこだわる部分があり、常に最悪の事態を考えて準備していたという。でなければ、巨人で戦力に恵まれていたとはいえ、2度の監督就任で計5回のリーグ優勝、2回の日本一は達成できなかったと思う。
グラウンド外では派手さなどなく、いたって普通で面倒見のいい人だった。特に世話好きというわけでもないけれど、何か頼まれ事があると断り切れないような一面もあった。愉(たの)しい思い出は数え切れないほどあるが、どんなときに何があったと、ひとつひとつ挙げていくのは難しい。
ただ、そうはいっても、やはり自分は阪神時代の8年間、長嶋さんと勝負できたことが一番の思い出である。いろんな人と一緒に野球をやらせてもらい、いろんな思い出をつくらせてもらったのは野球人として最高の喜びだけれど、その中で長嶋さんはひと味もふた味も違う。打たれたことも大きな名誉であり、大きな財産になったと、今はっきり言える人なのだ。
心からご冥福をお祈りするとともに、感謝の言葉をささげたい。ミスター、ありがとうございました!
●長嶋茂雄 Shigeo NAGASHIMA
1936年生まれ、千葉県印旛郡臼井町(現佐倉市)出身。58年に立教大学から巨人に入団。65年から73年の「V9時代」には王貞治氏と共に「ON砲」としてチームを牽引。引退後は巨人の監督を計15年務めリーグ優勝5回、日本一2回を達成
●江夏豊 Yutaka ENATSU
1948年生まれ、兵庫県尼崎市出身。阪神、南海、広島、日本ハム、西武で活躍し、年間401奪三振、オールスターでの9連続奪三振などのプロ野球記録を持つ、伝説の名投手。通算成績は206勝158敗193セーブ