筑波大学で講義をする落合陽一(左)と乙武洋匡(右)

落合陽一(おちあい・よういち)が各界の著名人、実力者を招く本企画。今回のゲストは、その中でも抜群の知名度を誇る乙武洋匡(おとたけ・ひろただ)だ。

前編記事にある講義の冒頭、「不倫するまでは小学校の教科書に載ってた」と話していきなり学生たちの爆笑を誘った乙武は、自身の半生と日本におけるバリアフリー化の歩みを振り返りつつ、「障害者が"適度に雑"に扱われること」への思いを語った。

続く後編では、日本社会がマイノリティに厳しい理由をふたりが語り合い、その解決策にまで踏み込んでいく。

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落合 乙武さんは小さい頃から、自分でできないことを他人に頼むとき、コミュニケーションに気を使ったりされましたか?

乙武 僕ね、そこそこ人を見る目があると思ってるんです。なぜかというと、人に頼まなければいけない人生だったからだと思うんですよ。例えば、(壇上の机に置かれたストロー付きペットボトルを示し)このふたが閉まってたとするじゃないですか。開けてほしいなと思ったときに、気軽にやってくださる人と、気を使われる人と、それぞれいらっしゃると思うんです。

やってもらっておいて言うのもなんなんですけど、頼む側の立場からすると、前者のほうが楽なんですよ。毎日、何をするにも誰かに頼まなきゃいけないって、それはそれで心理的負担があるんです。だったら一個一個の負担が軽いほうがいいので、やっぱり小さい頃から、気軽にやってくれそうな人かどうか判断してきたわけですよね。そういうこともあって、頼む、頼まないという以外の部分でも、なんとなく初対面で「この人はこういうタイプだろうな」と見抜く精度が割と高いのかな。

落合 大学の教員をやっていても似たようなことがありますね。けっこう忙しかったり、研究プロジェクトをいっぱい抱えてたりするんで、学生さんに頼むことが多いわけで、そうするとスッとやってくれる人と、やってくれない人っていうのは一発でわかってくる。

海外に行くと、スッとやってくれる人の割合が高くないですか?

乙武 高い!

落合 非常に高いですよね。あのコントリビューション性はなんで日本にないんだと思います?

乙武 海外ではむしろ向こうから「Can I help you?」と声をかけてくれるんです。これは教育の場が分けられているか、いないかの差かなと。たぶん小さい頃からクラスに障害者がいたんだろうな、と。毎日一緒にいた経験があれば、何をしてあげたらいいのか、だいたいイメージできると思うんですよ。でも、経験がない方々はイメージしにくいですよね。

落合 ほかにも、日本だとベビーカーを押している人が電車に乗ってくると、舌打ちする人たちがいますけど、僕はヨーロッパであれを経験したことがほぼなくて。障害のある人がクラスにいたかどうか以上に、家庭教育なのか、ダイバーシティが高い社会なのか、そういうものも理由に含まれてる気がします。

乙武 ヨーロッパで感じるのは、日頃は他人の動向などいちいち気にしないけれど、いざ困っている人がいればサッと手を貸してくれる。日本だと日頃は他人の動向にあれこれ干渉したがるのに、いざとなると「自己責任だ」と突き放す。

落合さんが言ったように、今の日本はベビーカーだけでなく障害者とかLGBTとかに対して厳しいなと思う場面が多くて。なぜなのかと考えると、でかい話になっちゃいますけど、敗戦からの復興というフェーズでとにかく合理性、効率というものが優先されてきたからなのかなと。この数十年の歴史の蓄積はけっこう大きいと思っていて。

落合 もしかすると、明治期からそうかもしれないですね。あるひとつの価値観の下に、標準化して軍を強くしたり、産業をやったり。

乙武 そうすると、やっぱりマイノリティって「効率悪い」んですよ。それこそ明治維新からだとするともう150年、その歴史が積み重なってきたとなると、「効率を乱す人々は邪魔者である」と人々が考えてしまうようになったのも、まあ理解はできるかな。

でも、じゃあこれからもそれでいいんですかというと、これからは人口も減っていくし、おそらく2020年の東京オリ・パラが終わったら経済も右肩下がりになっていく。そういう時代では一律であることよりも、ひとりひとりがその人にしか生み出せないこと、その人にしか見られない景色があるということがどんどん重視されていくだろうし、そうした人材が重宝される社会のほうがイノベーションは起こりやすいのかなと思います。

落合 ダイバーシティという観点では、江戸時代のほうが、明治期以降に培ってきた標準化社会よりある意味では寛容だった点もあると僕も思います。この150年くらいで培ってきたものを取り去るには、どうしたらいいと思いますか?

乙武 僕、2017年にロンドンに行って、その後パリに行ったんですが、それぞれの都市での日本の立ち位置が如実に違ってきているのを感じたんです。イギリスはやっぱり金融の国なんですね。金融の国にとっては、もう中国のほうを向いてないと話にならないんですよ。「ごめんね日本人」という感じになってきちゃってるんです。

ところが、パリは――フランスは芸術文化の国なので、やっぱり日本の伝統文化、芸術、これはリスペクトせなあかんよねってことで、いまだに日本という国に対するプレゼンスは高いんです。

でも、フランスが褒めてくれる日本文化って、150年前までの日本文化なわけです。もうちょっと歴史が積み重なっていくと、日本は文化的にも見向きもされない国になってしまうのではないかと危惧していて。文楽がそうだったように、伝統芸能は行政が補助金を入れないと立ち行かないようなものも出てきてしまっている。

そうやってどんどん廃れていったときに、どれだけ日本文化がもつのかなと考えたら、やっぱり新しいものを生み出していかないといけない。でも、これだけ効率や合理性が優先されすぎた社会の中で、みんなが同じであることがよしとされる教育の中で、どこまで新しいものを生み出せるのかというと、やっぱり難しいと思うんですよね。

よく、なんで日本にはビル・ゲイツやスティーブ・ジョブスが生まれないんだと言われますけど、僕は生まれてるけど育ってない、むしろ日本の教育に殺されているだけだと思っているので。やっぱり効率を重視する、一律であることを重視する社会では、独創的な文化は生まれにくいだろうなと思ってるんですよね。

落合 逆に、みんながやりたいことやればいいじゃんっていう社会になった時、その反動で僕が怖いのは、それに納得できない日本人がすごくポピュリストな政治家を生むことです。「こんなところに子供の貧困が」とか、「この社会における問題はこれだ」とかひたすら言い続けて、それが多様でない形、合理的な形の集合体として社会を統治する方向に行くと、もっと地獄が来るなと思っていて。

中国は今、おそらくそうなりつつある。例えばITを使って評点をつけて、社会の標準化の度合いを高めようとしているようにも見えうるわけです。日本にもそういうようなオーラを、例えばツイッターをやられていて感じません?

乙武 感じますね。だから本当にもう、「民主主義VS管理主義」という時代が始まっていると思うんです。落合さんが言ったようなことはネットの治安にもつながる話で、例えば町じゅうに監視カメラがあり、行動を見張られて評点がつき、社会的信用度が下がるとネットに書き込めなくなる、というのもシステムとしてはできるようになっていくわけですよ。そうすると、ツイッターみたいなものは"修羅の国"ではなくなって、たぶん見た目としては環境がよくなると思うんです。

それを考えると、じゃあ僕らはどこまで民主主義を信じることができるのかという話になってくるんです。僕も信じたいし、落合さんも信じたいんだと思うんですけども、中には「もう民主主義の盲信はやめてさ、国家なり強大な権力者が管理して治安も経済もよくなるならそっちのほうがいいじゃん」という価値観の方も出てくると思うんです。どっちが正解とかではなく。

落合 高齢社会になると車いすを使う人は爆増するので、後天的な障害はおそらくマイノリティではなくなってくるはずです。それが先天的な課題を抱える人を救うなら、社会は変わるんじゃないかなあと思ってプロジェクトをやっていたりします。しかし、例えば政治的マイノリティの人とか、社会的マイノリティの人たちと暮らしやすくしていくにはどうしたらいいんだろう。

乙武 どうしても日本の場合、「みんな同じ」が前提になっているので、同じ条件では暮らしにくい人がいるということにあまり意識が向いていないと思うんです。例えば、目の見えない人は今、盲学校に行くわけですよ。目が見える人が行く学校と見えない人が行く学校と分けたほうが、それぞれ絶対に「効率的」ですよね? でも、「この人たちも生活していくならどういう社会がいいんだろう?」と考える機会は絶対に奪われるわけです。教育にもどこまで効率・合理性を求めるかというところになってくると思うんですよね。

落合 効率的に教育したほうがいいから盲学校に通わせるというロジックに対して、「でも、その人にも選択の自由があって、どこで教育を受けてもいい権利があり、全員が損してもいいからそれを守ろう」という姿勢がヨーロッパだったら勝るわけですよね。そういう意識はわが国では薄いです。

乙武 やっぱり日本では「人様に迷惑をかけないこと」が一番と言っていいほど、子育て、しつけの中で重視されるんですよ。そういう価値観の刷り込みが小さい頃からなされている。そうすると、本人が望むと望まざるとにかかわらず、迷惑をかけてしまう存在に対して、ものすごく嫌悪感を覚えるしバッシングもするという結果になるんじゃないでしょうか。

落合 もし政治家になったら何がしたいですか?

乙武 今の日本はまだ、恵まれた境遇に生まれた者は有利な人生を送れるし、しんどい状況に生まれた人はしんどい人生を送らなきゃならないという社会になってしまっている。それで経済大国だとか言われようが、僕にはあまり成熟した国だとは思えません。だから、どんな境遇に生まれた人でもいろんな選択肢が与えられて、自分で選べる社会にしていきたいんですよね。

わかりやすい形で言うと、同性愛のカップルはどんなに愛し合っていて家庭を持ちたいと思っても、結婚というメニューが(異性愛者と同等には)与えられていないわけですよ。同性愛者が結婚することで、別に僕ら異性愛者が損する話でもないので、メニューを一個増やせばいいだろうと。政治家になったら具体的にやりたいのは、そういうことです。

落合 そういうふうに社会の側がダイバーシティに対応しようとすると、何かひと手間増えるかもしれない。でも、それが手間にならないように攻略するのがITテクノロジーの役割だと僕は考えています。

乙武 障害というものを考えるにあたって、「社会モデル」と「医学モデル」と呼ばれるふたつのパターンがあります。障害を持つ本人が、医療、リハビリを使って社会に合わせるというのが医学モデル。これまでの時代はこの考え方が主流でした。

社会モデルはこれと真逆で、さまざまな特性を持った人が住みやすいように社会自体を柔軟なものにしていこうよ、というアプローチです。理念でいったら、そりゃあこっちがいいに決まってる。でも、なかなかそっちに移行してこれなかったのは、やっぱりコストの問題が非常に大きいと思うんです。理念としてはいいと思えても、仮に「そうするには何百億円かかる」と言われたら、やっぱり「障害者が頑張ってこっちに合わせてよ」という考え方になる人も出てくる。

テクノロジーはそのコストを大きく下げる可能性を秘めているので、僕はすごく期待しているんです。社会モデルにしてもコストはあまりかかりませんよ、なぜならテクノロジーで穴埋めするから、と。それが、これからの時代の理想的なあり方だと思います。

落合 はい、これはもう激しく同意です!

■「#コンテンツ応用論2018」とは? 
本連載はこの秋に開講されている筑波大学の1・2年生向け超人気講義「コンテンツ応用論」を再構成してお送りします。"現代の魔法使い"こと落合陽一学長補佐が毎回、コンテンツ産業に携わる多様なクリエイターをゲストに招いて白熱トークを展開します。

●落合陽一(おちあい・よういち) 
1987年生まれ。筑波大学学長補佐、准教授。筑波大学でメディア芸術を学び、東京大学大学院で学際情報学の博士号取得(同学府初の早期修了者)。人間とコンピュータが自然に共存する未来観を提示し、筑波大学内に「デジタルネイチャー推進戦略研究基盤」を設立。最新刊は『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる 学ぶ人と育てる人のための教科書』(小学館)

●乙武洋匡(おとたけ・ひろただ) 
1976年生まれ。早稲田大学在学中に出版した『五体不満足』が600万部の超ベストセラーとなり、卒業後はスポーツライターとして活躍。その後、新宿区教育委員会非常勤職員「子どもの生き方パートナー」、杉並区立杉並第四小学校教諭を経て、2013年2月には東京都教育委員に就任。2015年4月より政策研究大学院大学修士課程にて公共政策を学ぶ。著書に映画化された小説『だいじょうぶ3組』、『だから、僕は学校へ行く!』など。最新刊は"車いすホスト"を描いた小説『車輪の上』