2019年5月20日発売『週刊プレイボーイ』22号「キン肉マン40周年記念号」に掲載しました、『キン肉マン』初代担当編集・中野和雄氏とゆでたまご両先生の鼎談記事を配信いたします。
中野和雄氏の訃報に際し、ご冥福をお祈り申し上げます。
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初代担当編集者は、漫画家にとって特別な存在。ゆでたまご先生がそう話す人が、今回ご登場いただく、この中野和雄氏だ。この名前にピンときた方、そうです。あの「アデランスの中野さん」ご本人です!
実は、3人でのメディア登場は初めてということで、ゆでたまご(原作担当・嶋田隆司、作画担当・中井義則)先生から中野氏へ感謝の思いを語ってもらった。
●〝落選原稿〟から始まった出会い
―ゆでたまご先生と中野さんの出会いは、高校在学中の赤塚賞準入選(1978年)獲得よりさらに前のことだそうですね?
嶋田 はい。準入選になった『キン肉マン』は応募2作目で、最初に送ったのは落選したんです。でも落ちたな~と思ってたらある日、東京から電話がかかってきて。
中野 『ゴングですよ』ってタイトルだっけ?
中井 そうです。それが作品名でした。
―それはどんな内容のお電話だったんですか?
嶋田 「君たちの『ゴングですよ』って原稿見たよ。今回、賞は獲れなくて残念だったけど、面白いと思うからこれからも頑張って」って。でも東京の出版社の人からそんな電話かかってきたなんて、田舎の高校生からしたら一大事ですよ。うわ~、これはすごいことやぞ!って、家のドアから出て。そしたら中井君も同じようにドアから出てきて。
中井 当時は同じ団地の同じフロアの両端に住んでたんでね、すぐ見えるんですよ。
嶋田 それで目が合って。夜中に走って近寄って、お互いの家のちょうど真ん中あたりで握手したもんな。
―青春ドラマのワンシーンみたいな話ですね。
中井 そんなことしてしまうくらい、うれしかったんやろな。
中野 僕もその電話のことはよく覚えてて、特に、中井先生のほう。細かく聞いてくるんです。どこがいいと思ったんですか?って。
嶋田 冷静やな(笑)。
中井 全然覚えてない。
中野 え~、すごい聞いてきたよ! そう聞かれて「サービス精神旺盛なのがいい」って答えたら、「サービス精神ってどういうことですか?」ってどんどん突っ込まれて、返事に困ったんだから(笑)。
中井 そんなん聞きましたっけ。覚えてないですね(笑)。
中野 だけど今から思えばその原稿の中に、後の『キン肉マン』につながる要素は全部入ってたんだよね。主人公がジャイアント馬場をモデルにしたキャラで、プロレスをテーマにしたギャグ作品。僕もプロレス好きだったからつい興味を持ってね、読んでみたらそのギャグがとてもおかしくって。落選原稿の束の中にあったにしては「なんだ、まだこんなにいいのが残ってるじゃないか!」って。
●鬱積したストレスから生まれた〝アデランスの中野さん〟
―先生はその応募作の内容をまだ覚えていらっしゃいますか?
嶋田 覚えてますよ。なんで落ちたんや!って思ってたくらいの自信作でしたから。
中井 僕、まだ記念に持ってますよ。後で返してもらったその原稿。
中野 当時、キャラはまだ弱かったんです。でもギャグの出し方がね、あの手この手を使ってなんとしても笑わせてやろうっていう......それがさっき言った、いかにも大阪人らしい旺盛なサービス精神ってことなんですけど。そこが一番、僕はいいと思いましたね。
―それで無事に次の応募で入賞されてデビューが決まって。目をかけた才能がそうやって結果を出したことに中野さんはどう思われました?
中野 もちろんうれしかったですよ。でも賞を獲るのも大変だけど、連載が始まってそれを続けていくのはもっと大変だからね。それで僕も彼らを執筆室に閉じ込めたりして、鬱積してたものもあったと思うんです。だからあんなキャラクターで描かれてしまって。
嶋田 ワハハハハ!(笑)
中井 ああ......はい、アデランスの(笑)。
中野 悔しいのはね、中井先生ご自身の似顔絵は色男に描くんです。僕はあんなカツラのキャラクターなのに!
中井 いや、そんな悪意ないですよ(笑)。
中野 とはいえ、もし僕が他誌にいて、その大胆な新人起用と読者を巻き込んだ企画を目の当たりにしていたら、漫画編集者として嫉妬しただろうと思うほど。それくらい、抜群に勢いがありましたよね。
嶋田 そういう評価は初めて聞きました。うれしいですね。
中野 特に「超人募集」なんてワクワクするじゃないですか。読者と作者のアイデアの融合だなんて、こんな生かし方は大発明ですよ。そこに関われたというのは、まさに編集者冥利に尽きる出来事だったと今でも思ってます。
嶋田 でもあれは中野さん発案なんですよ。僕が読者のファンレターに返事書く時間がないって相談したら、こういう形で恩返しすればいいじゃないかって。
中野 僕だけの案じゃないよ。特に初期は嶋田先生、中井先生、みんなで話して少しずつ成長していった感があってね。いうなれば、その超人募集というところにたどり着いたのも、この作品の成長の証のひとつだったと僕は思ってるんです。
だって『キン肉マン』は今や40年も続く大作になったけど、この漫画の1話と2話だけ読んで、そんなこと想像できた人間はきっとひとりもいませんよ。でも毎週描き続けていくなかで、ゆでたまごの両先生はもちろん、この作品自体がどんどん成長していきましたから。
嶋田 その手応えを僕ら自身も一番感じたのは、やっぱり「超人オリンピック」というアイデアが出たときでした。ちょうどモスクワ五輪(1980年開催)を日本がボイコットするというニュースが流れて、じゃあ代わりに漫画の中で超人にオリンピックをやってもらうかという思いつきですよ。でもそこからがすごかった。何をしよう、何ができる、というアイデアが僕ら3人の話し合いの中で面白いようにどんどんあふれてきて......。あれはひとつ、大きな壁を超えた瞬間だったんじゃないかと思います。
中井 それまでの一話完結方式って連載漫画の作り方としては難しくて、正直、壁にぶち当たってたんです。でもそこから逃げるんじゃなくて、前向きに新しい形に移行できたのは大きかったですよね。
中野 いろんな案が飛び出してね。それでも最初の競技はジャンケンなんだよね(笑)。
嶋田 はい、カニベース!
中野 それほど大きな転換期を迎えると妙に気張っちゃうものなんだけど、それでも最初の基本だったギャグセンスは忘れない、そんな彼らの姿勢が僕は好きでしたね。
●プライベートまで手取り足取り
―逆にゆでたまご先生から見て、中野さんはどういう存在だったんでしょう?
中井 もちろん漫画を描いていく上で心強いアドバイスをくれる担当編集者なんですけど、単純に仕事の付き合いの人という感じではなかったですね。
年も15歳ほど離れてましたし、高校卒業してすぐ東京に出てきて右も左もわからない頃に最初に住む所も紹介してもらって。漫画以外に身の回りのことをたくさん教えてもらいました。
嶋田 中野さんの家にもしょっちゅう遊びに行きましたよ。それで中野さんの家族と一緒にご飯食べさせてもらったり、本当に東京での親代わりみたいなもんでしたね。
中井 僕は21歳で結婚したんですけど、その結婚も中野さんに「せめて連載が2年続くまでは我慢しろ」って言われて、本当に我慢しましたから。それでようやく許可をいただいて婚約者にも会ってもらって。
その後は結婚の準備から熱心に手伝ってもくれました。何も知らない若僧でしたから、引き出物はこういうのがいいよとかね。
―本当にほぼ親ですね。
中野 だって、漫画家ってちゃんと家族養えるようになるまで大変じゃない。当時は人気になる前で、まだどうなるかわからない時期だったし。
嶋田 そう、お金のことはすごく教育されましたね。
中野 もしこの先、売れて儲かっても調子に乗ってたら、税金ですぐ持ってかれちゃうからねって伝えてたね。
嶋田 もちろん仕事上でも頼りになる人でしたよ。特に今でも役立ってるのは、取材の仕方を学んだことです。中野さんってすごく度胸あって、取材相手がどんな大物でも躊躇しないで、す~っと近寄っていくんです。でもそれで一回、荒れてるザ・シークに近寄っていったら、思いっきりゴミ箱投げつけられて!(笑)
中野 やられたね(笑)。でもそういう突撃取材って大事だと思うんですよ。同じ集英社でも当時の『週刊明星』や『週刊プレイボーイ』なんかは取材が生命線の雑誌だから、取材のうまい名編集者ってのがいたんだけど、『少年ジャンプ』って漫画誌だからあまりその傾向がなくてね。だけど、そういう積極的な取材から生まれる漫画もあると僕は思ってたから、自分が開拓者にならないとって気持ちはあったよね。
中井 おかげでいろんなすごい人に会わせてもらいました。テリー・ファンクとかミル・マスカラスとか。
嶋田 特にすごかったのは、ハンセン対馬場が決まったときにチケットが即完売になってしまったんです。それでも絶対見たいと思って、取材ということでどうにか会場に入れませんかって中野さんに聞いたら集英社の腕章を渡されて「これでカメラマンになってリングサイドで見ろ」って。カメラ持って一番近くで見せてもらいましたよ(笑)。
中野 今じゃ無理だけど当時はおおらかでね。でも、そういう取材がその後の格闘技路線に移行してから役に立ったでしょ? だって技の応酬とかこのふたり、どうやって打ち合わせしてるんだってくらい細かく描いてくるんだから。今にして思うと、取材してもらいがいがありましたよ。彼らはホントよく見てた。
嶋田 プロレス観戦に関してはたくさんいい思いさせてもらいました。それが中野さんの教えだと思って、その後もずっと興味の湧いたことは自分からどんどん取材に行くようにもなりましたね。
●ゆでたまご先生空白の10年
―じゃあ担当が代わられるときは寂しかったのでは?
嶋田 そりゃそうですよ。ちょうど人気も落ちかけてた頃で、僕ら捨てられたと思いましたもん。
中井 いつもどこかで見てくれてるという安心感がありましたから。しかも次の人は僕らと年の近い若手編集者だったので、大丈夫かなってものすごく不安になりましたよね。
―中野さんは、いかがでした?
中野 交代の辞令が出たらわがまま言えないのは会社員の宿命ですからね。そうなったら次に引き継ぐしかないですよ。でもその後の『キン肉マン』の上昇ぶりを見たら、いいタイミングだったとも思います。もちろんその後もずっと気になってましたけどね。特に『週刊少年ジャンプ』での『キン肉マン』の最終回(87年5月4日号)あたりの頃は......、正直、やっぱり苦しかった?
嶋田 苦しかったですね。
中野 うん、そんな感じがしたんだよ。漫画見ても一生懸命なんとか毎週、絞り出してる感じが伝わってきて......。
嶋田 上位にはいたんですけど、1位が獲れなくなってたんです。それがもう苦しくて。
中井 そろそろ潮時かなぁって話したもんね。
中野 でもそれからしばらく10年くらい空いて、『週プレ』で『キン肉マンⅡ世』(97年)を始めたじゃない。そのときの原稿からは、新しい作品に取り組む喜びがあふれていたんだ。だからそれ見て、ああよかったなぁ~って。
●再び中野さんの救いの手が!
―まさにその『週プレ』での集英社復帰に関して、実は中野さんがひそかに動かれていたおかげだという話も......?
嶋田 そうなんですよ。僕らその前は集英社から出てほかの出版社でやってたんです。でもなかなかうまくいかなくて、ついに連載が全部終わってしまって。
中井 一時期は仕事がまったくなくなってしまいました。でも集英社から離れたときは、自分たちから専属契約を打ち切って出ていきましたから......もう二度と集英社の敷居はまたげないと思ってました。ところがそれを見かねた中野さんが、どうも陰で動いてくれて、口利きをしてくれたみたいで。
中野 いやいや。当時ちょうど同じ部署に島地(勝彦)さんって、『週プレ』の元名物編集長がいてね。『週プレ』でゆでたまごを使ってみるのは面白いんじゃないですかって話をね。でも、まさか『キン肉マン』の続編をやるなんて想像もしてなかったけどね。
嶋田 『キン肉マンⅡ世』っていうアイデアは、貝山(弘一)さんって『週プレ』で最初についてくれた担当の発案だったんですけど、でもそこにつないでくれて、集英社からまたオファーが来たっていうこと自体、僕らにとっては奇蹟のようなことでしたから。
中野さんはあまり自分の功績をひけらかさない人だけど、思えばずっとどこかで見ててくれてたんですよね。仕事うまくいってないなって感じたら、さりげなくメシ食おうって誘ってくれて。
中井 外に出てよくわかったのは、集英社の特に『ジャンプ』の編集者は、本当に作家のことを真剣に考えてくれてる人が多かったんだなっていうことでした。僕らにとっては、その筆頭が中野さんです。
中野 でも、また集英社に無事戻ってきてくれてよかったな~と思ってたら、その後『週プレ』での連載が22年? いやはや、いつの間にか『少年ジャンプ』時代より長くなってるんだから、ビックリですよ。
中井 そうは言ってもあのとき、中野さんがつないでくれなかったら僕らそこで終わってたかもしれないですから。本当に中野さんのおかげです。
嶋田 正直なところ、最初に声かけてくれたとき、40年も続けられる作家になると思ってくれてました?
中野 そんなことわかんないよ。でも結果的にそうなってくれたことが、編集者としての誉れですよね。その昔、文藝春秋の池島信平さんだったと思うんだけど、出版人の楽しみはふたつあるって話をされててね。ひとつは無名の才能を見つけ出して花を咲かせる、もうひとつは有名の絶頂にいるやつを地獄の底に叩き落とすことだって(笑)。
でもこの前そんな話を東海林さだお先生としてたら「なんといっても醍醐味は前者だよ」って。その意味で、僕はゆでたまご先生にそういう経験をさせていただいて、それは逆に僕からしたらこのふたりに一番感謝したいことですよ。
嶋田 中野さんにそう言ってもらえるようになったのが、一番うれしいかもしれませんね。
中井 そうですね。その言葉に恥じないよう、これからも頑張っていきたいです。
●中野和雄(なかの・かずお)
1946年1月8日生まれ、佐賀県出身。母校の早稲田大学では漫画研究会に所属。卒業後、集英社に入社し『週刊少年ジャンプ』編集部に配属。『ど根性ガエル』『キン肉マン』などの人気作の担当編集者として活躍。『週刊少年ジャンプ』副編集長を経て、82年に創刊された漫画誌『フレッシュジャンプ』には立ち上げから携わり、86年からはその編集長に就任。『キン肉マン』に登場する名物キャラクター「アデランスの中野さん」のモデルとして知られる