ラッパーとしてはもとより、グラビアディガー、テレビのコメンテーターなど、多岐にわたって異彩を放っている呂布(りょふ)カルマ。『週刊プレイボーイ』の連載コラム「呂布カルマのフリースタイル人生論」では『漫画連載』について語った。

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★今週のひと言「念願のオファーが来るも、俺が漫画を描かない理由」

今でこそ、ここ週プレでなぜかコラムを書かせてもらっているが、俺の本業はラッパーだ。

ラップだけで生活ができているラッパーは、この日本でいまだそう多くはない。俺はありがたいことにそれがかなっているので、肩書をプロラッパーとしている(ちなみにグラビアディガーとも併記している)。

しかし、それは別に子供の頃からの夢だったというわけではない。幼い頃から芸大を卒業してフリーターとなるまで、俺がずっと志していたのは漫画家だった。

小学生ぐらいだと、プロスポーツ選手やアイドル、漫画家といった職業に皆が一度は憧れるだろう。しかし、たいていは何かしらの挫折や現実を直視することになり、いつの間にかその夢はなかったことになる。

俺の場合は高校時代まで自分より絵がうまく描ける同級生に会ったことがなかったし、ハッキリ言ってすべての勉学を犠牲にして授業中も画力の向上に時間を費やしていた。その甲斐(かい)あって芸大に進学し、卒業するまで自身が漫画家になることを疑わず、家族、友人までも当然俺が漫画家になるもんだと思っていたはずだ。

そんな俺だが、大学卒業後、集英社の新人漫画賞に応募するための漫画を描いていたとき、つい出来心からラップに触れたのをキッカケに漫画の道をドロップアウト。そこからラップに熱中するようになったのだから、人生は何があるかわからない。

とはいえ、その時点では漫画家の夢を諦めたつもりはなくて、後回しにしたという感覚だった。なんとなく漫画は年を取ってからでも描けるだろうが、ラップは若い頃でなければ......と思ったんだな。まあ結局、40歳を過ぎた今もなおラップを続けているのだが。

けど、なんとなくわかるでしょ? カールスモーキー石井ラインというか、漫画家がラップをするより、ラッパーやアーティストが漫画や絵も描きます、のほうが容易に実現できるイメージ。失礼な話だが、若い頃の俺はそう考えていた。

そして俺はそこから寝食も忘れるほどラップにのめり込み今に至るのだが、実は30代の頃、とあるWebサイトで全10回のエッセイ漫画を連載させてもらったことがある。俺が小学生の頃から目指していた漫画家像には程遠かったが、一応原稿料をいただいて漫画を描いたのだから、幼い頃からの夢は成就したということにしている。

その後、ありがたいことに元漫画家志望のラッパーという経歴がある程度周知されるにつれ、さまざまな媒体から漫画連載のお話をいただけるようになった。

あんなに夢見た漫画家への道は、やはり俺の読みどおり先にラッパーになったほうが近道だったのだ。しかし、前述の小規模な連載を体験して、俺の性格や能力では商業誌で漫画連載をするなんてとうていむり筋だったのだなということも身に染みてわかった。ゆえに、すべてのオファーをお断りさせてもらっている。

そしてもうひとつ、『チェンソーマン』などの名作で知られる藤本タツキの存在が大きかった。

あんな才能を目の当たりにして、同時期に同じ表現で勝負する気にまったくなれない。俺がラップに浮気せずに真剣に漫画道を歩んでいたとしたら、悲惨だった。

藤本タツキの作品を読んで絶望してペンを折り、挫折の末に30代からラップを始めていたのかもしれない。

以上のことから、結果的に俺の選択は間違ってなかったのだと思える。

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