蕨の名店「㐂よし」の2代目店主、石塚裕一さん(左)と加藤ジャンプさん。なぜかふたりで「コの字」のポーズ蕨の名店「㐂よし」の2代目店主、石塚裕一さん(左)と加藤ジャンプさん。なぜかふたりで「コの字」のポーズ

連載【店主の休日】第1回 「㐂よし」石塚裕一さん

客たちの心を癒す天国のような飲食店。そんな名店を切り盛りする大将、女将、もとい店主たちは、どんな店で自分たちを癒しているのか? 店主たちが愛する店はきっと旨いだけの店じゃない。

コの字酒場探検家、ポテサラ探求家などの肩書きで知られ、酒と料理をこよなく愛する文筆家の加藤ジャンプ氏が、名店の店主たち行きつけの店で、店主たちと酒を酌み交わしながらライフヒストリーを聞く、新連載「店主の休日」

そこには、知られざる店主たちの半生記と、誰しもが聞きたかった人生のヒントがある......。

* * *

■当たり前だが、休日の店主は白衣を着ていない

埼玉県蕨(わらび)市は日本で一番狭い市だ。5.11平方キロメートルしかない。20分もあれば、歩いて市を縦断できる。蕨市内には複数のJRの路線が走っているが、駅は蕨駅ひとつしかない。そのくらい狭い。

その蕨駅の東口にコの字酒場の名店がある。「やきとり㐂(き)よし」だ。やきとりといっても鶏ではなく豚モツを焼いた焼きトンである。このあたりでは、焼きトンを焼き鳥と呼ぶことが珍しくない。戦後すぐは関東なら焼きトンを焼き鳥と呼ぶ店はいくらでもあったと仄聞している。

その焼きトンを味噌だれで仕上げるのが㐂よしのスタイルだ。東京で食べられる味噌だれの焼きトンは、この店がルーツだと言われている。濃厚でどんなモツとも馴染みがいい。キリッと爽やかながら、ほんのりとコクふかく甘みがあって、何本でも食べさせる罪な味である。本家より分家のほうが旨いなんてことは珍しくないが、㐂よしは、ほかがいくらまねしても全然違う孤高の旨さなので、これを目がけた客が毎日ひきもきらない。

㐂よしは蕨駅から徒歩数分のところにある。駅前といっていい場所だが、住所は蕨市ではない。川口市である。

昭和45年創業の㐂よしの大将は2代目だ。といっても血縁ではない。創業者の娘さんと結婚した石塚裕一(いしづか・ひろかず)さんが2002年の春に引き継ぎ、今年で21年目になる。先代の時代から通っている客もいるが、いまの客の多くは石塚さんの代になってこの店を知った人だろう。

4月某日蕨駅前で石塚さんと待ち合わせた。まだまだまるっきり明るい。店主の休日の一杯は、早めの時間から始まる。翌日からまたフル稼働して店を切り盛りするのだから、当然だ。私のように、夜まで我慢できなくて明るい時間から呑むのとはワケが違うのである。

待ち合わせの時間になって、向かいの通りに、知っている人の雰囲気をまとった男性の姿が見えた。石塚さんに似ているが、ちょっと違う? 当たり前だが、休日の店主は白衣を着ていない。石塚さんのプライベートスタイルはアウトドアっぽい素敵なスタイルだった。白衣は簡単に男っぷりを上げるが、普段着もカッコいい石塚さんであった。

石塚さんが休日の羽休めに選んだのは、駅から車で10分ほどの場所にある蕎麦の店「まるすけ」である。㐂よしの先代の頃からつきあいがあるという。この店も㐂よしと同じで、いまは二代目が継いでいる。

今回石塚さんと訪れたのは「そば割烹 まるすけ」(埼玉県川口市芝2-26-9)。蕨駅から車で10分ほどの距離にある今回石塚さんと訪れたのは「そば割烹 まるすけ」(埼玉県川口市芝2-26-9)。蕨駅から車で10分ほどの距離にある

店の建物はいわゆる古民家で、店の入口あたりには植木がいっぱい。それが結界のようになっている。一歩足を踏み入れると和洋の骨董があふれんばかりに飾られている。アメカジ的なものからビスクドールみたいなヨーロピアンなものもあり、油断したらとっ散らかってしまいそうだが、店は隅々まで絶妙に民芸風にまとまっていて、しっとりと落ち着いている。

まるすけのお座敷席。和洋の骨董品が飾られているまるすけのお座敷席。和洋の骨董品が飾られている

■自分が田舎者で、こういう味を知らないだけ

カウンターに陣取って、石塚さんと並んで座る。やっぱり店にいるときよりも顔がリラックスしている気がする。店主ではなく客の顔になっている。今日は店主の休日なのだ。まずはビールを注文した。

まるすけのカウンター席で乾杯まるすけのカウンター席で乾杯

〈「まるすけ」での一品目は、石塚さんオススメの「たこやわらか煮」だった。旨い店の店主がススメめるから、旨さのハードルはにわかに上がったが、これが想像をはるかに上回る出来栄えだった。やわらか煮と言って、ただフカフカに歯応えのないものを出されてゲンナリすることがあるけれど、ここのは、たこに期待する、あのキュッという歯応えはしっかり残しつつ、箸で切れそうなくらいに柔らかい。味は甘さはひかえめ、あくまで、たこの微かな甘みを大事にしている〉

「たこやわらか煮」「たこやわらか煮」

「とまとのサラダ」「とまとのサラダ」

石塚さんは1968年生まれ、茨城の出身だ。高校を卒業して、レコーディングエンジニアを目指し大田区蒲田(かまた)にある専門学校に入学したのを機に上京した。目標はふたつあった。レコーディングエンジニアとプロのミュージシャン。だから学業と同時にバンド活動にも励んでいた。

時は80年代後半のバブル絶頂期。世間はバンドブームにわいていた。石塚さんのバンドも、今では野球場みたいな会場を一杯にする、超大御所バンドと対バン(同じ日の同じステージに入れ替わりで出演すること)したことが何度もあった。石塚さんのパートはベースだった。石塚さん曰く「当時流行の、ビートポップバンド」だったらしい。店での石塚さんはどちらかというと横ノリ。縦ノリ時代の石塚さん、聴いてみたい。

プロのミュージシャンを目指し、バンド活動をしていた頃の石塚さんプロのミュージシャンを目指し、バンド活動をしていた頃の石塚さん

石塚さんが飲食と出会ったのも蒲田だった。それまで、石塚さんは飲食業についてはズブの素人だった。

「当時の僕が知ってたスパゲティなんてナポリタンとミートソースだけ。上京してすぐ、蒲田にあったイタリア料理店でスパゲティを食べようと思ったら、メニューには『パスタ』しかない。その頃『パスタ』なんて言葉、ほとんど使わなかったんですよ。仕方ないから『トマトっぽいのください』なんて、しどろもどろに注文して、結局バジルとトマトのスパゲティを食べました......そしたら、これが、マズいんですよ」

都会のパスタの洗礼を受けた石塚さん。普通ならしばらくパスタは勘弁してほしいとなるところだが、石塚さんは思いがけない行動にでた。

「そのイタリアンで、すぐにアルバイトを始めました。だって、これをマズく感じたのは、自分が田舎者で、こういう味を知らないだけだから。もっと知りたいし勉強しなくちゃいけないじゃないですか」

好みに合わない料理に出くわすと、たいがいの人が、料理そのものや店のせいにする。ところが石塚さんは、全然違った。無自覚だったろうが、この時点で、すでに飲食業に進むべき人間としての心構えがあったのだろう。こういう何気ない選択の積み重ねが、人の進路を決めていくのだ。

〈最近、南蛮漬け研究家をも名乗るようになった私は、「まるすけ」の品書きに「若さぎ酢漬け」を見つけて躊躇なく注文した。意外なほど手がかかる南蛮漬けは、旨い店かどうか判断する信頼できる物差しなのだ。で、ここの南蛮漬けは、薄衣をまとった若さぎが、骨までしっかり火を通しながら身はあくまでフワフワ。良い酸味(これこそ大事)がすっとしみ通っていてホロホロな歯触りとシュッという爽快感がたまらない。これも最近吹聴しているのだが、南蛮漬けは喉で食べる、という私の見解を裏付ける最高の一品だった〉

「若さぎ酢漬け」「若さぎ酢漬け」

石塚さんお薦めの焼酎そば湯割り石塚さんお薦めの焼酎そば湯割り

「柳川」「柳川」

■人生の友だちみたいに一生つきあっていこう

蒲田のイタリアンでの厨房を皮切りに、石塚さんは、専門学校の勉強にミュージシャン修行と並行して、飲食業のアルバイトに勤しんでいた。ただ、その道へ進もうという決意があってのことではなかった。

「賄いがあって同世代の仲間もいる。ミュージシャンのバイトには飲食っていうことが多かったんです」

もちろん専門学校での勉強もまっとうし、卒業すると大手レコード会社にエンジニアとして採用された。全部、中途半端にはしないのである。並行して、ミュージシャン活動は続けていた。

その頃、焼き鳥屋や飲み屋を数多く渡り歩いていた。

「あの頃のミュージシャンって、ライブがハネるとバカみたいに必ず呑むんですよ。ずいぶん高い店なんかも行って。渋谷、新宿、中央線沿線。いろんな店に行きました。高級店も背伸びして行ってみたりして、なんでこんなに高いの、なんて勉強になりましたねえ」

あれこれ順風満帆だったが、突然バンド活動は曲がり角にさしかかった。石塚さん以外のメンバーが大学を卒業して就職し、バンドが自然消滅してしまったのだ。一方で石塚さんは音楽的に転機を迎え、エンジニア業をやめ、ジャズを独学で学びはじめた。

ウッドベースを弾く石塚さん。ジャズは独学で学んだウッドベースを弾く石塚さん。ジャズは独学で学んだ

時代は90年代になり、フリーソウルやレアグルーブなんて言葉が巷で浸透しつつあった。28歳のときには、大物音楽家が設立したレーベル(当時、音楽好きなら誰もが知っているほど話題になっていた)のオーディションの最終選考まで残ったが、最終的にデビューにこぎつけたのはボーカルだけだった。

これを最後に、すっぱりとプロへの道をあきらめた。やりきったのだろう。熱をこめてやればやるほど、どこかで飽和点に達するかのように、すっぱりと冷静になれるのかもしれない。石塚さんの話を聞いていると、取捨選択に迷ったら、目の前のことをやりきる、というのが肝心な気がしてくる。

〈「まるすけ」は山のものも海のものも旨い。今度は「くらげの刺身」を食べたら、埼玉には海があるのかと錯覚した。乾燥をもどした酢の物などと違い、生のくらげは、コリコリの歯触りがリズミカルで、これはもしかしたらベーシストの石塚さんの口のなかでも同じように4ビートを奏でていたのではないだろうか。くらげ自体にはそんなに味はないはずなのに、噛めば噛むほど、醤油とうまく混ざって美味しさが増していく。そして「あんきも」。これは深い余韻の残る、濃厚な味わいで、気持ちいいリバーブという感じだった〉

「くらげの刺身」「くらげの刺身」

「くらげの刺身」「くらげの刺身」

「お刺身盛合わせ」「お刺身盛合わせ」

「ジャズが深過ぎて。プロにならなくてもいい。将棋みたいに、人生の友だちみたいに、一生つきあっていこうって決めたんです」

■「店をやめたいけど、お前やるか?」

そのころ、石塚さんは、専門学校で同級生だった、現在の妻とつきあうようになっていた。妻の実家は、当時から通の間で有名な焼き鳥屋だった。㐂よしだった......といっても、石塚さんが本格的に飲食を生業にしたのは妻の影響ではなく、ミュージシャン時代の経験からである。

「いざ飲食業で食っていこうって考えてるとき、方々で焼き鳥屋っていうのは飲食業では手堅いって聞いたんですよ。ミュージシャン時代、将来、飲食業に就くなんて考えていなかったけど、大汗かいたライブの後のせいか、訪れた焼き鳥屋の味とかサービスは、よく吸収して染みついてたんですよね。で、いざ焼き鳥屋になろうと決めたとき、そういう経験を活かせるなと思ったんですよ」

ぼんやり呑むのが凡百の飲兵衛。非凡な飲兵衛は呑みながら学んでいるのだ。焼き鳥屋になると決めた石塚さんは、荻窪にある焼き鳥屋に就職。本気だったからだろう。覚えは早く、ノウハウをスピーディーに学んだ石塚さんは、31歳のとき高円寺で独立した。ディズという店だ。店は順調に客を増やし、瞬く間に名店となった。

そこで大きな転機がやってきた。

すでに妻と結婚していた石塚さんの元に一本の電話がかかってきたのだ。高円寺で店を開いて3年目のことだった。電話の主は、義理の父。㐂よしの先代からだった。

「店をやめたいけど、お前やるか? って」

だしぬけの問いかけに、石塚さんは言葉に詰まった。当時、先代が体の調子を落としていたのは知っていた。だが高円寺の店も調子がよく、2店舗を出そうかと考えているほどだったのだ。イケイケの創業者から、わざわざ縁もゆかりもない土地の店の2代目におさまる。そんな選択を悩まない人はいないはずだが、

「うううん、って口篭ってたら、やるか、やらねえかって。それで『はい、やります』と答えていました」

重くなりそうな話をひらりとかわす石塚さん重くなりそうな話をひらりとかわす石塚さん

こうして、一本の電話をきっかけに石塚さんは蕨行きを決めた。高円寺の店は弟さんにまかせ、夫婦で蕨にうつったのだ。

先代からの電話の迫力がいかほどだったとしても、どんなに差し込まれても人生の岐路における決断なんて簡単にはできない。ただ、その頃石塚さんは、仕事が順調で多忙な反面、ずっと親元暮らしだった妻が、東京での暮らしに疲れた様子を見せていたことが気がかりだったらしい。そのことが腹を括らせ、「はい」と言わせたのだろうか。決断に迷ったとき、人は自分ではなく大切な人のことを思えばいいのかもしれない。

蕨に来て、先代について「修行」した。味噌だれの作り方など核になる部分をみっちりと教えてもらった。その引き継ぎ期間、およそ2ヵ月。そして石塚さんは、ほとんど突然2代目になったのだ。

■「コの字って、カウンターの中に立つと厳しいんですよ」

石塚さんが2代目ロードを走り出すと同時に、先代は店に出てこなくなった。そういう引き際の美しさが、滑らかな代替わりに、どれだけ役に立つかをわかっていたのだろう。そのかわり、石塚さんを蕨のいろんな店へと先代が連れていってくれたという。新しい㐂よしの「顔」を、それまでの「顔」が、蕨の「顔」たちのいる店に紹介してまわったのだ。いま一緒に呑んでいる「まるすけ」もそのなかの一軒だった。

引き継ぎから約1年。先代は亡くなった。

「そのくらい体調が悪かったんでしょうね。だから、いきなり電話をかけてきたんだと思うんですよ」

石塚さんは、そのときだけ遠い目をした。

それからが大変だった。店は人だ。店主の個性が強ければ強いほど、店は個性的で、がっちりと常連客のハートをつかむ。個性が強いぶんだけ、店と店主が一体化するから、店主の交代を受け入れたくない客が出てくるのも無理はない。

「昔は、客が注文すらできない、出されたものを食べるっていうスタイルでした。まあ、完全に名物親父の店でしたよね。お客さんが入ってきて座ったら、何も会話がないまま、ビールか酒が出されるんです。伝票も無くて、カウンターの上の皿の枚数を数えてお勘定する。注文していないのに料理が出てくるから、客のなかには『なんだよ、これ』なんて怒る人もいた。そうなったら、一も二もない。先代は、『もう、帰ってくれ』って告げる。そんな店でしたから」

「㐂よし」で焼き鳥を焼く石塚さん。今から15年ほど前の写真「㐂よし」で焼き鳥を焼く石塚さん。今から15年ほど前の写真

もちろん、現在、石塚さんが切り盛りする㐂よしなら、客は欲しいものを頼めるし、勝手にビールが出てくるなんてこともない。ただ、2代目として、そのカウンターの中に立ったとき、まだ、そこは完全に初代が作り上げた㐂よしのままだった。そこに、100日にも満たない引き継ぎ期間を経て、石塚さんは立たねばならなかった。

ちなみに㐂よしのカウンターは、正真正銘、見事なコの字型をしている。つまりコの字酒場である。私が原作を書いたドラマ「今夜はコの字で season2」の第1回の舞台は、この㐂よしだった。

「コの字って、客としてカウンターから店主を囲んでいるぶんには、最初から天国なんですけど、中に立つとなかなか厳しいんですよ。特に、そういう個性的な店だったから、お客さんの目も厳しいっていうのかな」

ミュージシャンとして舞台慣れしていた石塚さんをしても、ハードコア㐂よしの、通な常連が雁首を揃えて三方から睨みをきかせた状況には、脂汗が流れたはずだ。

「ほんとうに、いろいろ言われましたよ。前はこうだったとか、ああだ、こうだ。それもありがたいけど多過ぎるとね。ぜんぶ言うことを聞けるわけがないし、自分についてくれるお客さんを見つけていかないと、もう無理、首つっちゃうよって思いましてね。意味のわかんない言い分には、堂々と反論して、俺のことが嫌な人にはあきらめてもらって、

あとは、今の㐂よしで良いっていう人に来てもらうしかないなって。それで、どうにかこうにか落ち着いていったってとこですね。そうそう、良い人は何も言わないで、黙ってしょっちゅう来てくれるんです。そういう人が育ててくれたのかな。だいたい2年くらいは、そんな感じだったかなあ」

■ディズニーランドがライバルみたいなつもり

700有余日の苦難の日々を乗り越えて、㐂よしのカウンターのなかで、石塚さんは徐々にどっしりとかまえるようになっていった。それでもしばらくは、

「まあ怒ったりしたこともありましたよね。今は無いですよ、流石に50を過ぎると、カーッとするってこともないですよ......それより、『今夜はコの字で season3』用に音楽つくりましょうよ」

などと言う。私も思わず手元のスマホで中古ギターを検索してしまった。この連載の「店主の休日」というタイトルは、天国のような店を切り盛りする店主を天使になぞらえているのだが、まさに店主ならぬ天使はノせるのも上手い。重くなりそうな話をひらりとかわす。人生にクドさはいらない。万事あっさりが肝要だと言っているようだ。

〈話が盛り上がるにつれ酒もツマミもどんどん増えていった。「まるすけ」は活気があるのに、落ち着いているので、食も会話も大いに進む。たくさん食べたが全部旨い。もちろん蕎麦屋だから、シメは蕎麦にした。もりをもらって、石塚さんと並んでたぐった。旨い。汁はすこし甘めで、酔っぱらいがザブッと浸けても辛くて顔をしかめることなんてない仕上がり。蕎麦の香りもいいし、シメのはずが、追加したくなった〉

「もり」「もり」

石塚さんも50代半ば。この先の㐂よしのことをどう考えているのかと聞いてみたが、明確な答えはなかった。かわりに、明確な焼き鳥屋さんの哲学を教えてくれた(それも照れくさそうに、小声で)。

「寿司屋さんとか、フレンチとかイタリアンとか、長い期間、名店で修行して独立してやっていくという筋道が確立しているけれど、焼き鳥屋ってあんまりそうしたものがないんですよ。独学が大事。経験と自分で知ろうとする姿勢がね。だから、小さな店でも、ディズニーランドがライバルみたいなつもりでやっていかないとだめなんですよね」

たしかに石塚さんは2代目だけれど、わずかの期間でこの名店を継ぎ、自分の代の、自分らしい店に仕上げた。全国にその名を轟かせるようになったのは、自ら歩んで身につけた経験があったからこそだ。独学の深さ、幅広さこそ、独立した店の面白みと強みになる。独自の哲学で成功してきたのが㐂よしだから、同じように独自のスタンスで成功してきたディズニーランドがライバルなのだろう。

こういうの、店ではなかなか聞けない。

帰り道、蕨駅まで見送ってくれた石塚さん。改札の向こうから見えた笑顔は、㐂よしに行ったときに見せる笑顔と一緒だった。表裏の無い人なのだろう。やっぱり名店の「店主」は「天使」に似ているのだった。

●加藤ジャンプ(かとう・じゃんぷ) 
文筆家。コの字酒場探検家、ポテサラ探求家、ソース研究家。1971年生まれ、東京都出身。東南アジアと横浜育ち。一橋大学大学院法学研究科修士課程修了。出版社勤務を経てフリーに。著書に『コの字酒場はワンダーランド』『今夜はコの字で 完全版』などがある。BSテレ東のドラマ「今夜はコの字で」の原作をつとめる。これまでに訪れたコの字酒場は数百軒。集英社インターナショナルのnoteで「今夜はコの字で~全国コの字酒場漂流記~」連載中。
Twitter @katojump

★不定期連載『加藤ジャンプ 店主の休日』記事一覧★