正田はヤクルトでNPBに復帰し、2013年には勝利投手に(写真=共同通信社) 正田はヤクルトでNPBに復帰し、2013年には勝利投手に(写真=共同通信社)

【連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第2章 愛媛マンダリンパイレーツ監督・弓岡敬二郎編 第11回

かつては華やかなNPBの舞台で活躍。現在は「独立リーグ」で奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第2章・第11回は、1980年代に阪急ブレーブスの名ショート、現在は愛媛マンダリンパイレーツ(以下、愛媛MP)で指揮を取る弓岡敬二郎のもとで野球を続け、ついに選手としての引退を発表した正田樹(しょうだ いつき)の後編。彼は、なぜ41歳まで現役にこだわり抜いてきたのだろうか。(文中敬称略)

■台湾での高津臣吾との出会い

夏の甲子園優勝投手として注目を浴びて1999年のドラフト1位指名で日本ハムに入団し、3年目に新人王のタイトルを獲得した正田は、飛躍を期待された4年目以降は伸び悩み、2007年、阪神に交換トレードされたのち、26歳のときに戦力外通告された。

しかし、海を渡って所属した台湾プロ野球、興農ブルズ(現・富邦ガーディアンズ)での高津臣吾との出会いが、今に至る「プロ野球人生の第二章」が幕を開けるきっかけになった。

「最初に高津さんとチームメイトになったのは、台湾プロ野球。自分にとって台湾で2年目の2010年シーズンに、高津さんが入団してこられました。台湾に渡った1年目も、このままではダメだと必死になって、それまで勢いに任せていたものを、一球ずつ考えて投げるようになってはいたんです。日本にいた頃に比べれば、はるかに自分自身で考えるようになって、結果もそれなりに出ました。

そんなタイミングで高津さんと出会って、一緒に野球をする中で、さらにグラウンドレベル以外のこと、オンとオフの切り替え、体調管理や食生活など、さまざまなことを勉強させていただきました。年齢は、自分とは10歳以上離れていますが、(2011年に共に所属した)新潟時代も、さらに若い選手たちに対しても気さくに接していました。

ただ、野球に対しては信じられないくらいストイックで、すべてのプレーに一切手を抜かない。野球選手としての技術の高さも桁違いでした。2011年に初めて独立リーグ(新潟アルビレックスBC)で野球することになったときは正直、抵抗はありました。でも、高津さんとまた野球ができるのであれば、ということが決断した大きな理由でした」

高津は1990年代のヤクルト黄金期に守護神として4度の日本一に貢献し、NPB歴代2位となる通算286セーブを積み上げ、メジャーリーグでもプレーした。それだけの輝かしい実績を残しながら、ヤクルトを戦力外になってからも、野球のできる環境を求めてアメリカ、韓国、台湾のプロ野球でプレーし、最後はNPBではなく、独立リーグで現役生活を締めくくった。そんな高津とNPB時代ではなく台湾プロ野球時代に知り合い、さらに独立リーグで一緒に野球をした経験があるからこそ、正田は40歳を過ぎるまで現役を続けてきたのかもしれない。

練習環境の厳しいなか独立リーグで10年もプレー 練習環境の厳しいなか独立リーグで10年もプレー

■独立リーグで続けた理由は、そこに真剣勝負があるから

正田は今シーズン、愛媛MPで10年目を迎えていた。

入団1年目は最優秀防御率のタイトルを獲得し、リーグの後期MVPにも選ばれた。翌2015年シーズン、2017年シーズンも最優秀防御率のタイトルを獲得するなど、2度目のNPB復帰を目標にして、毎年のように好成績を残し続けてきた。

ただし、ここ3シーズンはタイトルに絡むような成績は残しておらず、年齢を考えれば、もはやNPB復帰は現実的な目標にはなり得ない。今年の夏、それでも高いモチベーションを保ち続けてきた理由について聞くと、正田は少し考えたのち、淡々と答えた。

「やっぱり『ここに真剣勝負がある』というところですね。それはNPBであろうと、台湾であろうと、そして独立リーグであろうと変わりません。開幕に向けて体を作ったり、次の試合に向けて準備をしたりすることも、しんどいときもありますけど、現役選手でなければ味わえない充実感があります。真剣勝負だからこそ、緊張感を持って野球に取り組めるし、それだけ大きな喜びも味わえます。それが、今も現役を続ける理由かもしれません」

今シーズンは「コーチ兼任」という肩書が付いたこともあり、登板機会も以前より少なくなった。監督の弓岡も「展開の苦しい場面で正田に任せれば、試合を作ってくれることはわかっている。でも、それでは若手が育たない。苦しい場面で毎回使うのではなく、バランスを見ながら、できれば頼らないようにしたい」と話していた。正田に弓岡の話を伝えると、「ほんとですか!?」とおどけたように声を上げ、笑みを浮かべながら「でも、僕はバリバリ投げたい」と答えた。

弓岡監督(左端)も正田(左から5人目)に全幅の信頼を置いていた 弓岡監督(左端)も正田(左から5人目)に全幅の信頼を置いていた

弓岡はコーチとしての正田について、「生きたお手本。若い選手は、正田の姿を見て学んでほしい」と厚い信頼を置いている。正田本人は「気持ち的には選手9、コーチ1です」と話すが、そんな正田に、若い選手たちに伝えたいことは何かと聞いてみた。

「調子の良いときも悪いときも、自分の考え方をしっかり持つこと。その大切さに1日でも早く気づけた者が、より夢に近づけるのかな、と思います。僕自身は台湾に行ってから、26、27の頃にようやく気づくことができた。だから、若い選手たちにはこう言うんです、『みんなは当時の自分よりも若い。早く気づけばそれだけたくさん成長できるし、夢にも近づける。早く気づけた者勝ちだ』と。

一応、投手コーチという肩書も付いていますが、『ああしろ』『こうしろ』と指示するのではなくて、普段の何気ない会話のなかで、数多くある自分の失敗談を紹介することで、野球選手として成長するために大切なことを伝えていければと考えています」

もう若い頃のような力でねじ伏せるストレートは投げられない。その代わり、相手打者との駆け引き、ストレートの緩急や球種の使い分け、配球の組み立てといった、総合的な技術で勝負できる。勢いに任せて投げていた若い頃とは違い、今は頭を使って勝負する野球に面白さを覚えている。

選手晩年の正田は老練な投球術で勝負していた 選手晩年の正田は老練な投球術で勝負していた
「野球は投手の投げる球の速さを争う競技ではありません。これが投手は真っすぐだけで勝負しなければいけない競技だったら、さすがに厳しいと思いますけど、いろいろな球を駆使しながら、相手との駆け引き、独特の間合いで勝負するのがピッチングの面白さですよね。ただ、独立リーグの選手がNPBに行く、注目されるというところでは、150キロ以上の真っ直ぐが投げられることが、スカウトの指標のひとつになっている事実は実際あるので、それを追ってしまう気持ちもわかります」

真夏の取材の最後に、いつの日か必ず訪れる現役引退について聞いた。

「終わりを考えることはあります。でも、自分からやめようと考えたことはありません。もちろん必要とされなければ、野球のできる環境がなければ、続けたくても続けられませんが、大切にしているのは『自分はどうしたいのか』ということです」

* * *

11月6日、正田樹の今シーズン限りでの現役引退が発表された。翌7日にはNPBヤクルトの二軍投手コーチへの就任が決まった。流浪のプレーヤーとして誰よりも現役にこだわってきた男の、指導者としての長い旅が始まる。

(第12回につづく)

■弓岡敬二郎(ゆみおか・けいじろう) 
1958年生まれ、兵庫県出身。東洋大附属姫路高、新日本製鐵広畑を経て、1980年のドラフト会議で3位指名されて阪急ブレーブスに入団。91年の引退後はオリックスで一軍コーチ、二軍監督などを歴任。2014年から16年まで愛媛マンダリンパイレーツの監督を務め、チームを前後期と年間総合優勝すべてを達成する「完全優勝」や「独立リーグ日本一」に導いた。17年からオリックスに指導者として復帰した後、22年から再び愛媛に戻り指揮を執っている。

会津泰成

会津泰成あいず・やすなり

1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。

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